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2017.6.4「聖霊は決して見捨てない」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
毎年ペンテコステの日は、わが同盟教団では「国外宣教デー」に定められており、教団から派遣されている宣教師のために祈ります。
今年度は、礼拝の中で七組の宣教師家族からのビデオレターをプロジェクターで映し、みなで祈りました。
それも紹介したいところですが、公開すると障害や危険がある国も含まれておりますので、ご容赦ください。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』14章16-21節 

1.
 今、私たちは、この同盟教団から世界中に派遣されている、七組の国外宣教師ご家族からのビデオレターを受け取りました。
数年前、やはり同盟教団から派遣されていた、ある宣教師が、この礼拝の場で証しとメッセージをしてくださったことがありました。
それから数週間して、その先生からメールをいただきました。
「来年、子どもが帰国して先生(近)の母校である高校で学びたいと希望しているので、パンフレットを送ってほしい」と。
二つ返事で引き受けて、さっそく母校の事務局へ赴いて、資料や入学願書を受け取り、その先生のもとへ送りました。
しかしその後、お子様がその学校を受験されたのかどうか、まったく連絡がなく、そのうち私も失念しておりました。

 それから暫くして、その先生は数年間続けられた宣教師を辞されて、国内で牧会に励むということを聞きました。
具体的な理由はわかりませんが、ただひとこと、家族のことを考えてそう決めた、と語っておられたそうです。
それを聞いたときに、私は自分自身が、どれだけ宣教師のために祈っていたのだろうという悔い改めを示されました。
お子様がその高校を希望している、とその先生がメールで伝えてきたとき、私は頼られて嬉しい、くらいしか考えていませんでした。
しかしその背後には、異国で淋しさを覚えている中でもう日本に帰りたい、というお子様の叫びがあったのかもしれません。

 宣教師一家は、本人だけでなくその配偶者も子どもたちもそろって、「宣教師」であることを求められています。
先ほどの国外宣教師からのビデオレターも、宣教師だけではなく奥さん、子どもたち全員が映っていました。
何の屈託もない笑顔に見えることでしょう。
しかしそのかげで、子どもたち自身も意識していない中で、宣教師の子どもとしての重圧がのしかかっているのかもしれません。
宣教師家族は、どんなに幼い子どもであっても宣教師のひとりとして生きることを求められています。
あの先生のご家族も、傷ついた心で歩んでいたのではないか。そして私たちは、いや私は、それを想像し、祈ってこなかったのではないか。
宣教の祝福のために祈ってはいても、彼ら家族のメンタルのためにはどれだけ祈っていたのだろうか。
その意味で、私たちはこのビデオレターに映し出された映像の背後にある、宣教師とその家族が背負っている重荷をおぼえたいのです。
また、時には家族そろって日本に一時帰国してリフレッシュする機会が与えられるように、経済的にもささげていきたいのです。2.
 今日は二千年前に聖霊なる神が初代教会の信者たちの上にお下りになった、聖霊降臨日、ペンテコステと呼ばれています。
聖霊がくだられたとき、宣教への道が開かれました。
イエスさまが天に昇られる前に弟子たちに語られた、「あなたがたは地の果てにまでわたしの証人となります」というみことばが現実となりました。
世界宣教への扉が開かれた日、ということで、同盟教団ではこのペンテコステの日を国外宣教デーとしています。

 しかし私たちは、聖霊なる神の、力という面だけに注目してはなりません。
聖霊は力である前に三位一体の神であり、人格を持っておられるお方です。
今日の聖書箇所で、イエス様はこの聖霊を「もうひとりの助け主」と呼んでおられます。
そして私たちは、イエス・キリストを信じたとき以来、この聖霊なる神が心の中に住んでくださっているのです。
使徒パウロは、「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であると告白することはできません」と書いています。
聖霊が働いてくださったからこそ、私たちはイエスを救い主として信じることができたのです。
聖霊は救われた者たちに確かに与えられた、救いの保証です。そして聖霊は、私たちにとって助け主であり、慰め主であられます。

 確かに私たちは聖霊を与えられているだけで満足するのではなく、聖霊に満たされることが必要です。
しかし聖霊に満たされるというのは、ただ宣教の情熱に燃やされること、ということと違います。
聖霊は人格をもったお方です。ひとり一人のキリスト者の中に住んでおられ、共に喜び、共に苦しみ、共に泣いてくださる方です。
立ち上がることができないほどにたましいが疲れ果ててしまっているとき、それでも聖霊は私と共にいてくださるのだと信じられる人こそ幸いです。
たとえ私たちがこんな自分はダメだ、クリスチャンらしくないと自分をさばくようなことがあったとしても、聖霊は私たちを決して離れません。
ペンテコステの恵み、それはたとえ私たちがどんな者でも、神は私たちを永遠に離れないと改めて語りかけてくださっているということです。
何があっても、ともに歩んでくださいます。人には捨てられて、自分でもあきらめてしまうようなときにも、聖霊は決して私たちを見捨てません。
私たちは改めて、この聖霊なる神が、信じる私たちの中に生きて、今も語りかけてくださっていることをかみしめましょう。

3.
 最後に、新約聖書『コリント人への手紙 第二』1章4節のみ言葉をいっしょに読んで、説教を閉じましょう。
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。
こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」
 聖霊がどんな時にも私たちを慰めてくださるのは、私たちがどんな境遇の中にいる人々をも慰めることができるようになるためです。
だから困難な問題が起こったときに、その困難が早く立ち去ってくれればよいという祈りをする人は、決して慰めも経験することができません。
その困難な問題から何かを学ぼう、何かを引き出そうとする思いがないからです。しかし聖霊は風のように吹くお方です。
私たちは波風が立たない生活や人間関係を幸いと考えますが、むしろ聖霊はそのような偽りの幸いの中に、風のように働かれます。
困難な現実の中にこそ、じつは私たちの信仰を正し、どのような人をも慰めることができる、まことの信仰へと成長させる機会があります。
ひとり一人が、今週も聖霊の息吹を心の中に感じながら、一日一日を歩んでいきましょう。
posted by 近 at 13:52 | Comment(0) | 2017年のメッセージ
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