
右側の「リンク集」に、私が代務をしております村上福音キリスト教会が追加されました!
村上の特産品である「鮭(サケ)」をモチーフにしています。
画像がちっちゃいのでサメと間違えそうです。
ちなみに村上市のキャッチフレーズは「サケ(鮭)とサケ(酒)とナサケ(人情)の町」。
完全に
お腹(とっくり?)にプリントされた「情」の文字と、やたらかわいらしいお顔のミスマッチ。
サケかサカナかタメイキか。町作りの方向性を巡り、行政も試行錯誤しているようです。
村上教会のブログも、今後どうやって記事を増やしていくか、試行錯誤の真っ最中。
ぜひ向こうも応援してください。サケとサケとナサケのブログです。パクってすみません。
サケリンをクリックすると村上市公認、サケリンの部屋にジャンプします。そちらもよろしく。
週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』9章1-7節
序.
妹尾河童という著名なイラストレーターの方が書かれた、自伝的小説である「少年H」という作品があります。
数年前に、俳優の水谷豊とその実際の妻である伊藤蘭ご夫妻が、映画の中でも主人公の両親を演じたことで話題になりました。
この両親は熱心なクリスチャンで、愛と厳しさをもって、主人公のHを育てました。
しかし戦争の混乱は、教会を傷つけ、この家庭もその波に翻弄されていきます。
主人公であるH少年は、人生に絶望して自死を考えるまでになりました。しかし実際に線路に飛び込もうとしたときに、彼は気づきます。
自分の頭がどんなに死にたいと願っても、からだは生きたいと願い、頭に反抗するということを経験するのです。
小説に描かれ、そしておそらく実際に妹尾さんが経験したことなのであろう、このできごとは、私たちに教えてくれます。
人間のいのちの主がその人ではなく、人間の筋をつくり肉をつくられた神ご自身なのだということを。1.
洪水が終わり、ノアたちが降り立った新しい世界、それは決して楽園の再来ではなく、むしろ無法状態でした。
2節にはこうあります。「野の獣、空の鳥、──地の上を動くすべてのもの──それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。」
昭和生まれの人にはなつかしい、ムツゴロウさんの動物王国のようなパラダイスが、洪水後の世界ではないのです。
動物たちは互いにその肉を食らい、やがてノアの子孫たちはあの有名なバベルの塔を建てて、神をも越えようとしていきます。
獣も人も、あるいは兄弟同士でさえ、自分の身を守るためにお互いにいのちを脅かすようになります。
しかしどんなに混沌とした世界であっても、神がいのちの主であるという一貫した秩序が、暗闇の中に輝く光の柱のようにきらめいています。
6節、「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちに造られたから」。
人の血を流すということは、人をご自身の形に似せて造ってくださった神そのものの血を流すことなのだ、と言われています。
最近、死ぬ権利という言葉も出て来ました。その言葉によれば、自死も人に当然認められた権利ということになるでしょう。
しかし殺人が他人の命を奪うことだとすれば、自死は自分の命を奪うことです。自殺を自死ということばでふんわり言い換えても同じことです。
私たちの命の権利は、私たちの造り主である神が握っておられます。
私たちは、神が造られたランタンであり、その中には本人が気づこうが気づくまいが、神がともしたいのちのともしびが与えられています。
人によって、そのともしびを赤々と燃えているように見えている人もいれば、弱々しく、線香花火の最後のように見える人もいます。
しかしだれであろうと、人はそのともしびを最後まで燃やし尽くすように定められています。それを奪う権利は、人にはありません。
2.
神は二度も繰り返してこう言われます。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と。
神は決して、ノアたちが罪のない世界を築いてくれるだろうという淡い期待を持っているわけではありません。
「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」と神は心の中で言われます。
洪水を経験したからといって、罪を犯したアダムとエバの子孫であるノアたちの心から、原罪が消えたわけではありません。
この新しい世界にもやがては人間の罪があふれかえっていくであろうことを神は知っていました。
しかしそれでもなお、神は言われるのです、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と。
どんなに人が罪にまみれた存在であろうとも、神は決して人間が増えなければよい、とは思われません。
洪水後の真っ白な世界を、これから人間が真っ黒に塗りつぶしてしまうことがわかっていたとしても、神は決して祝福を取り下げようとされません。
ここに私たちへの励ましがあります。どんなに時が変わり、世界が変わったとしても、神の祝福は決して変わることがないということを。
そしてもう一つ、神の祝福の背後には、人の罪のおぞましさを知りながら、それでも人を祝福せずにはいられない神の愛があることを。
大洪水でさえも取り除く事のできない人の罪を贖うために、ひとり子イエス・キリストを十字架に引き渡すという犠牲さえも恥としない愛。
それが神が、今日の聖書を通して私たちに示してくださっている、不朽の愛です。
結.
私たちは、神だけがいのちを支配している方であるということを決して忘れてはなりません。
クリスチャンは世に向かって、聖書の神こそいのちの主であるということを叫んでいかなければなりません。
今、芸能人やスポーツ選手が覚醒剤におぼれて人生を失ってしまうニュースで世はあふれています。
覚醒剤の恐ろしさを知りながら、そこから抜け出せない人々の姿は、自分で自分をコントロールできない、すべての人間の姿に重なります。
私たちは覚醒剤をやってはいないでしょう。しかし自分自身をコントロールできないという一点において、すべての人は同じです。
使徒パウロはローマ教会への手紙の中でこう書き送りました。
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」。
それが人間の弱さです。だからこそ、私たちには、いのちの主(しゅ)を私の主(あるじ)として受け入れることが必要です。
罪を罪と認め、それでもなお私たちに両手を広げて迎え入れようとしておられる方がおられるのです。
いのちの主であるイエス・キリストは生きておられます。この方を心に受け入れて、歩んでいきましょう。