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2017.7.9「天を仰げば」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』5章17-26節 


1.
 イエス様は、どんな病でもいやしてくださる。そんな噂が村から村へ、町から町へと広がっていました。
パリサイ人や律法の教師たちは、怪しげなイエスという男の尻尾をつかんでやろうと考えていたのでしょう。
彼らも含めて、今日もイエス様の周りには足の踏み場もないほどの人だかりができていました。
野外ならまだしも、それが家の中ですから、集まった人々も大変です。
 そんな中、突然天井からばりばりという物音が聞こえました。でかいネズミか、それとも晴天の落雷か。
みなが驚いて天井を見上げます。あれ、目が痛い。ほこりや、漆喰のかけらや、木の切れ端がぱらぱらと落ちてくるではありませんか。
当時のユダヤの家屋は屋根がはがしやすい構造になっていました。しかしそれでも、屋根を外すなんて非常識です。
人々が声を上げるなか、四隅を縄でつり下げられて、寝床がゆっくりと真ん中におろされてきました。
そこに寝かされていたのは、寝たきりの中風の人でした。四隅の縄を天井でつかんでいたのは、おそらく彼の友人たちでしょう。
この招かれざる客人を、イエス様はどのように見上げられたのでしょうか。
 しかし、イエス様が見つめておられたのは、ぶち破られた屋根でもなく、吊り下げられた寝床でもありませんでした。
20節にはこう書いてあります。「イエスは彼らの信仰を見て」と。「彼らの信仰」とは何でしょうか。
それは、たとえ人々から非常識だと後ろ指を指されても、神に近づこうとする信仰です。
「彼ら」の中には、この友人だけでなく、この寝床に伏している中風の人も含まれています。
イエスは彼らの破天荒な行いを、「信仰」として認められました。私たちの常識や理性が、私たちを神に近づけるのではありません。
たとえ人の目にはどう映ろうとも、イエス様ならば何とかしてくださると信じて、ひたすら主に近づいていくこと。
それがイエスの認められた信仰です。2.
 今から100年以上前、イギリスにジョージ・ミュラーという人がいました。
子供の頃から非行少年として有名で、10歳の頃にはいっぱしの泥棒稼業。
いつも嘘をつき、悪友相手に賭け事をしたり、酒を飲んだりと遊び呆けているような人でした。
しかし20歳の時に誘われた伝道集会で罪を悔い改めて人生の方向を変えました。
牧師のかたわら、31歳のときに孤児院を建てたことを皮切りに、93歳で亡くなるまで、のべ一万人の孤児を養いました。
彼は決して大富豪ではありません。実際、いつも孤児院の運営資金に不足を抱えていました。
しかし生涯で一度として、教会にも個人にも経済的援助を求めたことはなかったと言います。
その代わり、彼は絶えずあるところに援助を求め続けました。地上ではなく天の神に向かってです。
 その信仰は、この中風の人の友たちの中に生きています。
彼らは、人々が道を空けてくれるだろうという安易な手段には頼りませんでした。
もしその方法を選んでいたら、彼らはこう呟くハメになったことでしょう。
これだけ人が集まっていたら無理だよ。しょうがない、またの機会にしよう。
しかし人生は一期一会、今日しかない、今しかないのです。
どうにも友を運び込む方法が見つからないとき、彼らはミュラーのように視線を天に向けました。
 天を見上げた彼らは、あるものに気づかされました。屋根です。
彼らはお互いに顔を見合わせたかもしれませんね。これからやろうとしていることを、果たしてイエス様は受け入れてくださるだろうか。
常識から考えれば、イエス様が受け入れる前に家主が受け入れないだろうと考えるところです。
しかし彼らは決断しました。それは彼らの友を何とかしてイエス様に引き合わせるためでした。
その信仰は報われたのでしょうか。報われました。
彼ら友人には、その信仰へのまなざしを通して、そして中風の人には、罪赦されたというみことばをもって、イエス様は報いてくださったのです。

3.
 しかしその場にいたある者たちは、イエス様の言動に不快感をおぼえました。
21節をご覧ください。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう」。
正論ですが、私たちはここで心に刻まなければなりません。
もしパリサイ人たちが、この中風の人が人生の中でどれだけ苦しんできたか、そして今も心の中でどれだけ苦しんでいるのか、
わずかでも想像できる力があれば、こんな言葉は出なかったでしょう。
どんなに中風の病から直りたいと思っても、お前の隠れた罪のためにそんな病に苦しむのだという声が、彼にはいつも聞こえてきます。
お前の中風の病が治らないのは、お前の罪が決して赦されないものだからだ、という声が、彼をいつも押しつぶそうとしています。
 イエス・キリストはこの人の心の中を知っておられました。
「あなたの罪は赦された」と先に語るべきか、「起きて歩け」と語るべきか。その答えをイエスは知っておられました。
「子よ、あなたの罪は赦された」。中風のいやしよりも、先に必要なのは罪の赦しでした。
神の子であるキリストにとって、「起きて歩け」ということは簡単なことです。しかしあえてイエスは罪の赦しを先に宣告されました。
それは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていること」をみなが知るためです。
 私たちは、様々な現実的な課題を抱えています。
イエス・キリストにとって、それらの具体的な問題を取り除くために「起きて歩け」というのは造作もないことです。
しかしそれはキリストに頼らなくてもできることです。
貧困は金があれば何とかなります。病は薬で何とかなります。人間関係も、カウンセリングやアドバイスをまとめた本が出ています。
しかし罪をゆるすこと、これはキリストでなければできません。
そして私たちがキリストによって罪赦されたと宣言されるとき、今まで悩んでいた問題はいかに小さなものだったかということに気づくのです。
まず罪の赦しを求めなさい。そうすれば、現実の問題はみるみるうちにしぼんでいきます。
 人生は何を目的にするかで決まります。目の前のものだけを追い求めたむなしい人生も、罪の赦しを目的とすることで変わっていきます。
そして罪赦されたと確信できるとき、その人の人生は今ここに自分がいることを心から感謝できるものへと変わるのです。
たとえ貧しくても感謝し、病に覆われても感謝し、苦しみの連続であっても感謝することができます。
あなたもぜひその恵みをうけとるために、今日キリストの言葉に耳を傾けてほしいと思います。「友よ、あなたの罪は赦された」、と。
posted by 近 at 16:13 | Comment(0) | 2017年のメッセージ
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