
日野原重明先生が天に召されました。105歳だったそうです。
先月末に行われた村上市内の新会堂説明会でも、
日野原先生と星野富弘さんの対談トラクトを配らせていただいた矢先でした。
今頃、天で羽鳥明先生と親しく話し合われている頃でしょうか。
ご遺族の方々の上に励ましがありますように。週報はこちらです。
「生涯現役」として著作や講演など幅広く活動してきた聖路加国際病院名誉院長の
日野原重明(ひのはら・しげあき)さんが、18日午前6時33分、呼吸不全で死去した。
105歳だった。通夜・お別れの会は関係者で行う。
葬儀は29日午後1時から東京都港区南青山2の33の20の東京都青山葬儀所で。
(朝日新聞デジタル)
聖書箇所 『ヨハネの福音書』8章1-11節
序.
いまヒアリという猛毒の昆虫が問題になっておりますが、「罪」という漢字を書くたびに、私は毛虫を連想してぞわっとしてしまいます。
上の「四」に似た字は大きな目のついた頭の部分、下の「非」に似た字は、たくさんの足がついた胴体の部分。
毛虫には罪がありませんので、向こうからしたら迷惑な話だ、と言われるかもしれませんが。
漢字に詳しい人に聞くと、「罪」という象形文字は、毛虫ではなくむしろ人間そのものを指しているということでした。
とくに下の部分、ここが二つに分かれているのは、罪というのは人間そのものを真ん中から分裂させるものを表しているのだ、と言います。
心を分裂させるだけではなく、生活を分裂させます。自分を分裂させるだけではなく、家族も分裂させます。
家族だけではなく、民族を、国家を、世界を分裂させます。
そしてすべての人間が生まれた時にこの罪を持っているのだ、と、聖書は至る所で語っています。
「義人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10)。「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」(同12節)。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」(同23節)と。
だれもが罪を犯しているのには変わらないのに、自分が罪人であることに気づかない。
むしろ他人の罪を批判することで、自分が他人よりはましな人間なんだと安心するために利用する。
このヨハネ8章に登場する者たちすべてが、イエス様を除き、罪人です。
姦淫の現場を捕らえられた女性、その姦淫の罪を鼻高々に訴える律法学者たち、そして第三者としてそれを眺めている群衆たち。
しかし最後には、この女性を除き、みなが罪を認めて出て行きました。私たちも、その中に含まれているのでしょうか。
願わくは、罪を認めてそこから出て行くのではなく、罪を認めたからこそイエス様のもとに留まった、この女性のようでありたいものです。1.
さて、パリサイ人たちが、ひとりの女性を連れてきました。彼らはまさに慇懃無礼な態度で、イエス様に対してこう言いました。
「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女は石打ちにするように命じています。
ところで、あなたは何と言われますか」。
確かに姦淫の罪は許しがたい罪です。モーセ律法が、このような罪人を石打ちにせよと命じているのは事実です。
しかし姦淫は一人ではできません。相手の男性はどこにいるのでしょうか。
パリサイ人にとって、それはどうでもよかったのです。イエス・キリストを罠にかけるためには、罪人が一人いれば十分だったからです。
パリサイ人たちは次のように企んでいました。イエスがもしこの女を赦せと言えば、モーセ律法に逆らうのかと告発することができる。
しかし赦すなと言えば、愛の人というイメージががた落ちになり、人々はイエスから離れていく。
そんなたくらみをイエス様はすべてご存じでした。しかし、イエス様は彼らを尻目に、ひたすら指で地面に何かを書いておられました。
「沈黙は金なり」という言葉がありますが、時として沈黙は、どんな言葉よりも雄弁に人の罪をえぐります。
沈黙を続けて地面に何かを書き続けるイエス様を、人々はじっと見つめていました。
なぜ何も言わないのか。いったい何を書いているのか。
イエス様がどう動くか、人々の関心が頂点に達しようとしたそのとき、イエス・キリストは立ち上がり、おもむろにこう言われました。
7節、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。
この言葉は、そこにいたすべての者に己の罪を突きつけました。
2.
人は罪を悲しまなければなりません。
しかしこの女を利用してイエス様を罠にかけようとするパリサイ人の心には、姦淫よりもはるかにおぞましい罪がふつふつと泡を立てていました。
この姦淫の女は、この中で自分が罪人であると認めていた唯一の人でした。
いけないと思いつつ、欲望に流されて姦淫を繰り返していたに違いありません。
しかしパリサイ人たちは、罪を犯してしまう人の心の弱さにつけ込むという、自らの罪に気づきませんでした。
これは決して他人事ではありません。自分たちは正しいことをしているのだと信じて疑わない。
すべての人は、このように自分を正当化する弱さを持っているのです。
神は真実な方であり疑う必要はありませんが、自分は常に疑わなければなりません。
神のことばはすべてが真実ですが、そのことばを自分の都合の良いように解釈して、人をさばく道具に使ってしまう弱さをだれもが持っています。
しかし神に感謝しましょう。
神のことばは私たちの心をえぐるメスのような鋭さを持っていますが、確実に心の中の病巣を取り除いてくださるのです。
イエス様の言葉は、そこにいたすべての人の心を例外なく突き刺しました。そこにいたすべての者たちは、一人また一人と去っていきました。
しかし去っていった彼らには望みがあります。
イエスの言葉が、姦淫の女の罪ばかりを見て自分の罪を忘れていた、彼らひとり一人の心に罪の自覚を呼び覚まさせたからです。
しかし改めて言います。私たちは罪がわかったとき、イエス様の前を離れるのではなく、むしろイエス様の足下に留まらなければなりません。
イエス様以外に、どこへ行っても、私たちの罪を解決してくださる救い主はおられないからです。
イエス様以外に、私たちを、たましいの末期症状からいやしてくださる方はおられないからです。
3.
イエスと姦淫の女だけがそこに残されました。そしてイエスは彼女に優しくこう言われました。
11節、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」。
「今から」というこの言葉は、原文のギリシャ語では定冠詞がついています。
それは、先ほどまでとは切り離された、「今、この時」という意味です。
今日という日は、昨日からの続きである、と言うことが誰でも知っています。
しかしイエス様は言います。「今、この時からは」と。
昨日に至るまで、自分を何度も変えようと思いながら変えられず、姦淫の罪をずるずると犯し続けてきたこの女性。
同じように、自分の心、考え方、生活、ことば、あらゆるものを変えたいと願いながら変えられなかった人々。
「今、この時」というこの言葉は、まさに光そのものでした。
イエス様は人ができないことを人に求めることはありません。
「罪を犯してはなりません」は「罪を犯さずにはいられなかった生活からあなたは切り離されたのだよ」という約束です。
この女性が神の約束をしっかりと握りしめていくならば、もはや昨日までの罪を繰り返す人生から切り離されているのです。
この「罪」には先ほどの「今」とは逆に、定冠詞がついていません。
つまりイエスを信じた彼女には、姦淫の罪だけではなく、人生を縛ってきたあらゆる罪から解放される生き方が約束されました。
彼女だけではありません。私たちに対してもそうなのです。
イエス・キリストを救い主として信じるならば、私たちの古い生き方は焼き尽くされ、新しい「今」を生きる者として生まれ変わります。
クリスチャンになっても同じことの繰り返し、ではありません。
迫害者から使徒へと変えられたパウロは、コリント教会への手紙の中でこう書いています。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。
今、この時から、私たちは新しく造られた者です。
昨日までの自分がどうあろうと、キリストの前に戻ってくるならば、そこから「今、この時から」という祝福が始まります。
イエス・キリストを心の中にお迎えして、罪の繰り返しから解放された人生を歩んでいこうではありませんか。