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2017.7.23「みこころがわからなくても」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』11章1-16節 

序.
 先週、日野原重明先生が天に召されたのは、私にとって少なからずショックでありました。
昨日も宣教区で子育て講演会がありましたが、
若い人が胸を張って子育てができる社会は、まず高齢者が胸を張って生きていける社会でなければ、下の世代は成長しません。
二十年前の話ですが、当時の市長が百歳の半寝たきりのお年寄りを訪問したときに、
その方がベッドの上で上半身ひれ伏して、「こんなに長生きしてごめんなさい」と言ったということを役所の先輩から聞いたことがあります。
ですから日野原先生には120歳まで生きていてほしかったと思いました。
じつは私は、日野原先生と競争をしていたのです。
日野原先生がこれからは神様のために生きると誓ったよど号ハイジャック事件は、ちょうど私が生まれる一年ちょっと前のでできごとだと知って、
日野原先生はその後の47年の人生を、私は46年の人生を、お互いに悔いのないように神様のために生きよう、と。
お互いにと言っても、ご本人と約束したわけではなく、私の勝手な決意なのですが。
しかし目標のある人生というのは、張りが生まれます。
日野原先生が先に天に召されましたので、私が「生き方競争」に勝利を収めるのは時間の問題と思われますが、
神にささげたわが人生に悔いなしと、いずれ私が天に召されるときに思えるかどうか。
それはみなさんが私の説教と牧会にちゃんと答えてくださるかどうかにかかっております。よろしくお願いいたします。1.
 「死」はすべての人に等しく訪れます。そして今日の聖書箇所は、死を乗り越える力がテーマです。
ラザロ、マルタ、マリヤ、イエス様に家族まるごと愛されていたきょうだいたちがおりました。
しかし今、そのきょうだいのひとり、兄か弟かわかりませんが、ラザロが重い病気で危篤となっていました。
このときイエス様は、弟子たちといっしょに、ベタニヤ村からヨルダン川を挟んで約30キロ離れたところに滞在していました。
30キロ離れたイエス様のところに、マルタ、マリヤの姉妹は必死な思いでことばをまとめ、使いの人を送りました。
しかしそのことばの奥ゆかしいこと。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。
「一刻も早く来てください。そしてラザロの病気を治してください」とか言わないのです。まるで新潟県人のような奥ゆかしさです。
「ラザロが」とも言わない。「あなたが愛しておられる者が病気です」。これだけで、誰のことかわかる。これが、本当の「忖度」ですね。
彼らはただ奥ゆかしいだけでなく、イエス様が置かれている危険な状況も理解していました。
ベタニヤ村という場所は、エルサレムの都から二、三キロしか離れていません。
そしてエルサレムには、イエス・キリストを憎んで、殺そうとしているパリサイ人や律法学者、祭司長たちであふれていました。
ここにもしイエス様が足を踏み入れたら、彼らが何をするかわからない。そんな配慮もまた、この短い言葉からは響いてきます。

2.
 先ほど、イエス様がベタニヤから約30キロ離れたところに滞在していたと説明しました。
30キロは、徒歩の人間が一日もしくは半日で着く距離です。
今日の聖書箇所の先になりますが、11章39節で、イエスを迎え入れたマルタは、「ラザロがなくなってから四日も経っている」と言っています。
イエス様が知らせを聞いてなお二日間とどまられたこと、またベタニヤ村まで約一日かかることなどを計算してみると、
じつは使いの者がイエス様のところにたどり着いたときにラザロはすでに、
少なくとも彼がまたベタニヤに戻る頃には確かにラザロはもう亡くなっていたのは明らかです。
イエス様は、きょうだいの死の現実の前に悲しみに暮れているであろうマルタとマリヤに伝えるために、はっきりとこう言われました。
4節をお読みします。
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」。
一見、あまりにも冷静すぎるように見える、イエス様の言葉です。
しかしその背後には、いったいどれだけの悲しみを心の中で戦わせていたことでしょうか。
 ある、耐えがたい困難の中にいるクリスチャンがこう叫びました。
神はあまりにも大きすぎて、ちっぽけな私の苦しみなんか、どうでもいいのではないか。
しかし神があなたの苦しみをどうでもよいと思っているなんて、そんなわけがありません。
父なる神は、ひとり子を十字架につけてまであなたを救おうとされました。
その神のひとり子イエスは、自分のいのちを引き換えにしてでも、あなたを罪と死と永遠の地獄から救い出そうとしてくださいました。
神の御霊もまた、御子の苦しみの一部始終をご覧になりながら、今ひとり一人の信じる者たちの中でともにうめき、励ましてくださるお方です。
この三位一体の神が、あなたの苦しむ姿を見つめてかつ平然としていられるはずなどあり得ないのです。

3.
 「神のみこころがわからない」という相談をよく受けることがあります。
神を信じていなければ、みこころとか計画などというものは関係ありません。ひたすら自分の道を突き進むのみです。
しかし私たちクリスチャンは違います。
自分の人生が偶然生み出されたものではなく、人生の背後に神の働きを認めずにはいられないからこそ、「神のみこころ」が見えずに悩みます。
神は愛、神は恵み、なのにどうして、私の人生にこんなに苦しいことばかりが起こるのか。
確かに神の子どもとされたはずなのに、どうしてこんな目に会わなければならないのか。
しかし神は、ご自分のこどもを決して甘やかすことはしません。
愛の神であるゆえに、私たちが中途半端な知恵や力を用いても太刀打ちできない、苦難を与えます。
しかし苦難は訓練です。神に頼らなければどうすることもできない苦難の中でこそ、私たちは訓練されます。
子どもには、しばしば親の考えていることはわかりません。しかし後になって、初めて親の思いがわかるようになります。
 私たちが神の試練を乗り越えるとき、みこころを知ることは必要な条件ではありません。みこころを知ることではなく、みこころに従うことです。
知らなければ従えないでしょうか。いいえ、イエス様と、その弟子たちのやりとりから学びましょう。
弟子たちが見ているものと、イエス様が見ているものとは違いました。
弟子たちには、なぜイエスがラザロの死を知っても駆けつけようとしなかったのかがわかりません。
イエス様のたとえの意味もわからなかったでしょう。「眠っているのなら、彼は助かるでしょう」ととんちんかんなことさえも言います。
しかしすべての人があきらめるしかなかった、死という現実を、イエスは覆すことのできるお方です。
たとえベタニヤ村が、敵の目と鼻の先にある町であって、そこでラザロをよみがえらせることでどんな不都合がイエス様の前に生じることがあろうとも、イエス様は暗やみを恐れず、光の中を歩みます。

結.
 弟子たちにイエスのみこころがわからなかったように、私たちにも神のみこころがわからない、ということがあります。
しかしそれでも主についていくことはできます。弟子のひとりトマスは、「私たちも、主とともに死のうではないか」と言いました。
彼の覚悟、その心意気や良し、と言いたいところですが、十字架はまだ来ていません。
父なる神のご計画は、ラザロのよみがえりを通して、神の栄光がはっきりと証しされることでした。
人間にはどうにもすることのない、死という状況の中で、しかしイエス・キリストがその死を打ち破ります。
それは二千年前の終わってしまった奇跡ではありません。
今日、私たちがイエス・キリストを救い主として信じるならば、私たちも死からいのちへと移されます。
多くのクリスチャンが、キリストの十字架を聞いているし、知っています。しかし日々十字架を背負って歩んでいる人は決して多くありません。
イエスは、私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからですと言われました。
十字架はあの世まで置いといて、この世の様々なトラブルやプレッシャーとうまく折り合いをつけて歩んでいくのは幸せな生き方でしょうか。
むしろイエスの十字架を背負い、イエスの後ろに従っていくほうが、はるかに大きな喜びが待っています。
神のみこころはすぐにわからないとしても、従い続けるならば、必ずいつかわかる日がやってきます。
そして自分の歩んできた道が間違いではなかったと確信することができます。
ひとり一人が、心の中にイエス・キリストを受け入れて、この一週間も歩んでいきましょう。
posted by 近 at 14:38 | Comment(0) | 2017年のメッセージ
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