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2017.8.13「もし罪はないと言うなら」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
説教冒頭にあるボウフラの話、ある著名な牧師(故人)から聞いたのですが、平成の人間には相当まゆつばもの。
語っている最中も、頻繁に頷く熟年層もいれば、ホントかよという顔の若年層もおりました。
しかし沖縄の某企業のブログに、同じような話を発見!!これで安心して眠れます。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの手紙 第一』1章1-10節 

1.
 「ドラム缶に雨水をためて飲み水にしていた」なんて話を聞いて、イメージがわくでしょうか。
決して無人島の生活ではなくて、戦前戦後の貧しい時代にはそんな光景がよく見られたそうです。
そんな時代、あるクリスチャン青年が落ち込んだ顔をして、ある夜、牧師のところに相談に来ました。
「先生、ぼくはもうクリスチャンになってずいぶん経ちますが、いまだに罪ばかり犯してしまうのです。
ぼくも確かにイエス様を信じて救われたはずなのですが、こんな罪人のままでは、洗礼を授けてくださった先生に申し訳ないのです」。
すると牧師先生が、青年にこう言いました。「よしわかった。今日はもう遅い。明日、朝一番に来なさい」。
翌朝早く、牧師先生はその青年を例の、雨水をためて飲み水にしているというドラム缶の前に連れてきました。
なんと水の中には至る所ボウフラがわいています。
牧師が尋ねました。「君、この水をくんで沸かしたいのだが、ボウフラばかりだよ。どうすればいいと思うかね」。
すると青年は、そばにあった棒でドラム缶を思いっきりたたきました。ボウフラが騒いで、しばらくすると底に沈んでいきました。
そして先生がさっと鍋で水をくんで、言いました。
「救われる前の、私たち罪人の心は泥水のようなものだ。あまりにも汚れていて、底も見えないほどだった。
しかし救われて水がきれいになると、今度は今まで見えなかった小さな罪が浮かんでくるのだ。
このボウフラみたいなものだ。だがその罪に気づいたら、そのたびにこうして胸を打ちたたいて、十字架のイエス様にすがりなさい。
罪はまた沈んでいく。救われるということは罪を犯さなくなることではなく、罪が今までよりもよく見えるということだ。
君の心が罪を自覚するたびに、イエス様を呼びなさい。」2.
 私たちが生きるということは、自分の罪と向き合うことです。
イエス様を信じたのに、なぜまだ罪を犯してしまうのだろう、と悩んでしまうことは決して珍しいことではありません。
宗教改革者ルターは、「クリスチャンは救われた罪人なのだ。だから大胆に罪を犯しなさい」とさえ言ったそうです。
もちろん罪を奨励しているのではありません。
罪の自覚が起きるときに、キリストによってその罪が完全に赦されているのだということを味わえ、と言ったのです。
イエス・キリストはあるとき、「あなたがたの中で罪がない者が最初にこの姦淫の女に石を投げなさい」と言われましたが、今も同じです。
クリスチャンであろうと、ノンクリスチャンであろうと、罪がないゆえに彼女に石を投げることのできる人はひとりもおりません。
私たちはいまも罪を犯します。罪を犯したくないと思っても、罪を犯してしまいます。
クリスチャンは、罪を犯さなくなったのではなく、罪のさばきを受けることがなくなったのです。相変わらず私たちは罪を犯してしまいます。
しかし信仰を持っている持っていないにかかわらず、すべての人間はやがて地上の死を迎え、神のさばきの座に立たせられます。
そのとき、私たちクリスチャンはイエス・キリストの十字架のあがないのゆえに、罪を犯したことのない者として、扱われます。
罪を犯したし、犯してきたし、犯しているのです。しかしキリストのゆえに、それはすべてなかったこととして扱われます。
先ほどの青年のように、救われた後も罪深い者だという自覚があるのは、むしろ極めて自然なことです。
クリスチャンというのは、世界で一番罪に敏感になった人のことだからです。
他人の罪に敏感になるのではなく、己の罪に敏感になるのです。
だからパウロは、自分を罪人のかしらなのだと言いました。かしらだったのではなく、今、かしらなのです、と彼は言いました。
私たちが自分の罪がわかればわかるほどに、イエス様が私たちを赦してくださったすばらしさがより心に響いてくることでしょう。

3.
 聖書の中には、ひとつだけではなくいくつもの箇所で、クリスチャンの上に起こる試練を、金や銀を精錬する炉やるつぼにたとえています。
精錬というのは、金銀をそのまま熱するだけでは、中の不純物が取り除けません。
しかし金銀にあえて不純物を混ぜて、高い温度で熱すると、不純物同士が化学結合して、純度の高い金銀ができあがるそうです。
私たちは、救われた後も、自分の心の中にある罪を見つめて生きていかなければなりません。
それは、あえて細かな罪が私たちの中に残されていることで、私たちをよりイエス・キリストにふさわしい謙遜な器に育てるためです。
私は救われたのだから罪はないという人は嘘つきだと聖書ははっきりと語っています。
ヨハネの第一の手紙1章8節、「もし罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」。
10節、「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません」。
これはノンクリスチャンへの伝道文書に書いてあることではなく、れっきとしたクリスチャンへの、信仰の励ましのための手紙です。
ヨハネは「あなたがた」ではなく、「私たち」と言っています。パウロと同じく、ヨハネもまた、自分自身を罪人のひとりとして数えています。
しかしこのヨハネの手紙1章の中で最も有名な9節にはこうあります。
「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」。
私たちは罪を犯してしまいますが、もはや罪の奴隷ではありません。
罪の残りかすにひきずられることはあっても、それらは私たちを永遠の死、滅びのふちへとひきずる力はありません。
この世の多くの人々は、自分でも気づかないうちに罪に支配されています。
そして神がイエス・キリストを伝える役目を、罪を知らない天使ではなくて、私たちにゆだねられたのはなぜでしょうか。
罪人という共通点の中で、しかし罪のさばきからは永遠に解放された、私たちだからこそ伝えられることばがあるからです。

結.
 私たち一人ひとりが、それぞれ自分にしかわからない、そして自分にしか解くことができない問題に向き合っているのです。
問題のない人生なんてあり得ません。もしそんな人生があったとしたら、それは生きていると言えるのでしょうか。
エゼキエル書の中で、神は民を血まみれで捨てられた赤ん坊にたとえて、その子を拾い上げて、「生きよ」と語っておられます。
生きるということは、血まみれで捨てられていたような私が、けんめいにもがきながら、それでも生きていくことだと理解しています。
聖書の中には、信仰を持てば問題がなくなるとかいう、どこかの新興宗教のような教えはありません。
信仰を持つことによって、神がその問題に打ち勝つ力を与えてくださるのであって、問題そのものがなくなるということではありません。
 今までも繰り返し語ってきたことですが、クリスチャンは問題に直面したとき、「どうやったらここから抜け出せるのか」とは考えません。
むしろ「何をここから引き出せるのか」ということを神に求めます。
私という人間の中に含まれている不純物、それを取り除くために、神が私を悩みの炉の中に投げ入れました。
今、悔い改めるべき、心の深みの中に隠している罪はないだろうか。
神の恵みをいただきながら、まだ感謝の祈りをささげていないことはないだろうか。
そしてこれらの気づきを通して、神は私に何を求めているのだろうか、幾度も幾度もかみしめましょう。
そのとき私たちは、周りが問題なのではなく、自分の中に問題があったことに気づきます。
まさにそのために、神は私たちを悩みの炉の中に投げ入れておられるのだと知りましょう。
それは私たちを生かし、神の子どもとして呼ばれるにふさわしい信仰へと引き上げてくださるためです。
posted by 近 at 14:49 | Comment(0) | 2017年のメッセージ
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