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2017.8.20「神の家族の破れそして回復」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』16章1-16節 

1.
 「あのとき、あんなことを言わなければよかった」「あんなことをしなければよかった」。そんな後悔に引きずられる経験はないでしょうか。
こんな失敗に共通しているのが、「焦り」です。焦っていなければ、もっとじっくりと考えることができたはず。そう後悔している人は多いのです。
焦りの中で、神のみこころとは真逆の行動へと向かってしまったのが、このアブラムの妻、サライでした。
彼女は、やがて子どもを産むという確かな約束を神様から与えられていました。
しかしその約束にかかわらず、神様の時計は何年も止まってしまっているかのように見える。そして自分はどんどん年をとっていく。
その焦りの中で、彼女は夫アブラムにこのように訴えました。2節をお読みします。
「ご存じのように、主は私が子供を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。
たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」。
サライは、神を信じています。しかし彼女にとって、神は子どもを与えてくださる方ではなく、子どもを産めないようにしておられる方でした。
焦りは、神への不信感を生み、神への不信感は、神なしで目的を達成しようとする誤った行動へと私たちを駆り立てます。
彼女は、どうしても子どもが欲しかった。
自分のお腹から子どもが生まれるといういつになるかわからない約束よりも、今すぐ子どもを胸に抱きたかった。
そしてサライは、自分の女奴隷ハガルに代理出産をさせることで、子どもの母になろうとしたのです。

 なぜ神は、サライが子どもを産めないようにしておられたのでしょうか。
それは人間的な期待、希望的観測がすべて打ち砕かれたときにこそ、私たちは神の恵みの中にしがみつく者となるからです。
たとえ86歳の年寄りのアブラムでも、若いハガルとならば子どもをつくることができる、サライはそう考えました。
この考えこそ、まだ人間の力に拠り頼んでいる証拠です。私たちが手に力をこめているあいだは、神は奇跡を起こしません。
私がこの手にこめる力も失い、もう何もできない、自分自身には何も期待できない、と絶望するときに、初めて神の力が私を覆います。
私が自分の能力を頼みとしているとき、神は動いてくださいません。
いやむしろ、私たちの我、エゴが心の中に充満しているがゆえに、聖霊が自由に働くことができない、と言ったほうがよいでしょう。
しかし私は何もできないものだということを痛感するとき、そこで初めて神の力が内側から私を変えていきます。
サライとアブラムはそれを知るべきでした。そして私たちひとり一人も。2.
 焦りが神への不信感を生み、不信感が誤った決断を生みます。しかしサライの暴走を止める手立てはあったはずです。
ここで夫アブラムが、「サライ、あなたのその決断は、神のみこころに反するものだ」と言えばよかったのです。
しかしアブラムは無言で、妻の言うことを受け入れてしまいました。女奴隷ハガルは、アブラムによってみごもります。
なぜ神は、このような妊娠をお許しになられたのでしょう。みこころのすべてを言い尽くすことはできません。
しかしただひとつ、神の約束と逆行するこの妊娠を通して、この三人がふたをし続けてきた、悪しき感情が露わにされたことは確かです。
最初の犠牲者は、一番弱いハガルでした。彼女はこの妊娠によって、女主人サライを見下すような高ぶりに陥りました。
ハガルの高慢は、彼女自身の罪であると同時に、神から夫婦に送られたメッセージでした。
もしサライが、自分の愚かな決断がこの悲劇への入口となってしまったことを悔い改めたならば、・・・・
そしてもしアブラムが、自分の無気力、無関心もまた、この悲劇を膨らませてしまったことを悔い改めたならば、・・・・
ハガルの高慢をきっかけにして、この夫婦は悔い改め、そしてハガルにも悔い改めが生まれ、神の家族はすぐに回復していたことでしょう。

 しかし悔い改めは生まれませんでした。
サライは、自分が問題の火付け役であったにもかかわらず、怒りを夫アブラムにぶつけることで、悔い改めから逃げました。
アブラムもまた同様でした。サライの最初の提案に無言で応じたアブラムは、今度は無慈悲な言葉でまたもサライの暴走を助けます。
6節をお読みします。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい」。
これは本当に4000年前の物語でしょうか。まるで今の私たちの家庭そのものではありませんか。
家族ひとり一人が焦っています。
父が、母が、子どもたちが、自分の思い描く青写真のとおりに、自分も、他人も動いていかないことに焦っています。
焦りは、誤った決断を生み出します。しかしもしそうなったら、また悔い改めて初めからやり直せば良いのです。
悔い改めとは、ただの後悔ではありません。自分が間違えたと認めて、傷を与えた人に謝り、生活の方向を変えることです。
「私が悪かった」「私も悪かった」と悔い改めることができる家族ならば、たとえ何があっても、決して神の恵みから落ちることはありません。
そのために、私たちひとり一人は、救われた者の初穂としてそれぞれの家庭の中におかれています。
そして教会とは、そんなひとり一人が集められた、神の家族です。悔い改めは、教会が、まことの教会であることを示す、神のしるしです。

3.
 女奴隷ハガルは、サライのいじめに耐えきれず、家を飛び出しました。行くあてもないまま、彼女は荒野をさまよいます。
彼女は、妊娠をきっかけに女主人を見下げるようになったという意味では加害者でした。
しかしその妊娠は、彼女から望んだことではなく、その女主人がけしかけたものであったという意味では、被害者でもありました。
加害者であり、被害者である彼女には、しかしもうひとつの顔がありました。それは、神の家族の暗やみをいぶりだす者です。
信仰の父と呼ばれるアブラムとサライの夫婦は、このとき、その信仰において、完全に破綻していました。
神がハガルの妊娠を永遠の計画の中ですでに定められていたのはなぜでしょうか。
神の家族の破れに気づかせ、回復役となるのがこのハガルだったからです。
 8節をご覧ください。彼女を探していた神の使いがこのように声をかけました。
「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」。
今日の物語で、神が語りかけておられる唯一の人間は、このハガルに対してだけだということをおぼえてください。
なぜアブラムに語りかけなかったのか。なぜサライに語りかけなかったのか。なぜ、このハガルにだけ語りかけられたのか。
それは、このハガルだけが、神以外に逃げ込む場所を持っていなかったからです。
アブラムは、富裕な旅人でした。サライは、その妻であり、女主人でした。
信仰が破綻していても、彼ら彼女らは地上の砦に逃げ込んで、生きることができました。
地上に頼るものがあるから、神の言葉が通じません。
しかしハガルは何も持っていなかった。この二人に見捨てられたら、どこに行く場所もない。
あなたはどこから来たのか。どこへ行くのか。それは質問でも叱責でもありません。
すべてを失った彼女だからこそ、神の呼びかけが届くのです。
多くのものを持っていたアブラムとサライには、このとき神がいなくても生きていくことはできました。
しかし神の呼びかけは届きません。
この世にだれも守ってくれるべきものがない逃亡奴隷ハガルだからこそ、神のか細い御声が聞こえるのです。

 この世に守ってくれるべきものがないハガルは、自分のお腹の中に守っていくべき新しい命を抱えていました。
地上で最も弱い者が、より弱い者を守っていかなければならないこの絵は、まさに私たちクリスチャンの生き方そのものです。
しかし神は、この世で最も弱い者を選び、そしてこの世の暗やみをいぶり出し、光を当てていくものとされました。
だからこそ私たちは、この世での評価や栄光を求めません。この世では、ただ神の栄光だけが表されることを求めます。
しかし、やがて私たちひとり一人が神の御前に立つときが必ず来ます。この世での評価ではなく、まことの評価が現れます。
この世で何も持たず、裸同然の者に対し、「よくやった、よいしもべだ」と。そのとき、イエス・キリストからこう言われるものは幸いです。

結.
 ハガルは、神の使いにさとされて、アブラムとサライのもとに帰りました。聖書の直接の記事では、そこまでしかわかりません。
ハガルが二人に、神がなしてくださったすべてのことを話したのか、そして二人が、ハガルのように悔い改めたのか。
しかし15節をご覧ください。「アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた」。このことばが、すべてを物語っています。
神は、ハガルに生まれてくる子の名前を教え、そしてアブラムがそのとおりに名づけたことは、神の家族の回復をあらわすには十分です。
 サライの不信仰、アブラムの無関心、ハガルの高慢は、一度は神の家族をばらばらにしてしまいました。
しかし神は決して彼らを見捨てることはありませんでした。聖書は私たちにこう約束しています。
「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」
(『ヨハネの手紙 第一』1章9節)
人間関係の中で、問題が生じることを恐れる必要は一切ありません。
それを通して、神は私たちに悔い改めへの道を用意してくださいます。そして悔い改めの扉を開いたとき、神の家族は回復します。
私たちもその足取りに倣っていきましょう。自分の中にある罪を認めるところからすべては始まります。
一人ひとりが悔い改めの中で、まことの神の家族として歩んでいきたいと願います。
posted by 近 at 16:57 | Comment(0) | 2017年のメッセージ
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