今月に入って、教会に生活資金の援助を求める電話が目立ちます。
かつては、駅の交番で教会の場所を尋ねて直接訪問して援助を求められるという形がほとんどでした。
しかし今はインターネットで教会を検索して、という形になってきているのかもしれません。
今日の電話は県外の方からでした。金銭を送ることはできないと説明させていただきましたが、電話を切った後でも心が泡立ちます。
本当に苦しくて電話されているのか。それともこういう手法の寸借詐欺(!)なのか。
この電話を切った後どうされるのか。なぜ何百キロも離れた教会に、生活費の援助を求めて来られたのか。
昨夜の祈祷会で、ダビデが祭司アヒメレクにパンの援助を求めにきた場面を学びました。
参考に読んだマックス・ルケードの『ダビデのように』(いのちのことば社)の中に、こんなことばがありました。
パンと剣。食物と装具もう十年近く前になりますが、ある家族の生活費を約一年以上にわたって援助したことがありました。。教会は両方を与えるためにある。それはうまくいっているだろうか。いつもうまくいくとは限らない。人を助けることは、決してきちんと決まりのつく仕事ではない。助けを必要としている人々は、きちんと決まりのつく人生を送ってはいないからだ。・・・(中略)・・・教会のアヒメレクたち(指導者、教師、牧師など)は黒か白を選ぶのではなく、そのどちらとも決められないグレーを選ぶことを余儀なくされている。良いか悪いかではなく、そのどちらもある程度含んでいるものを選ばざるをえないのだ。
資金が尽きたとき、その人は離れていきました。信仰へ導くことができなかったことの悔しさを今もおぼえます。
徒労に終わってしまったのかもしれませんが、本当の結果は地上を去ってイエスにまみえる日まではわかりません。
今日電話してくださった方が、地元の教会に繋がってくださるようにと願います。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』12章13-21節
1.
イエス様が人々に対してみことばを語っているさなか、ある人が大声でこう呼びかけました。
13節、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」。
しかしイエス様は「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか」と答え、その求めをはねつけます。
イエス様には、この人が抱えている問題の根っこがどこにあるのかわかっていました。
それは、貪欲です。貪欲とは、決して満たされない欲望をひたすら求め続ける、人の心に潜む悪です。
たとえイエス様が彼ら兄弟のあいだの仲裁役として立ったとしても、その貪欲に気づかない限り、彼らが永久に納得することはありません。
どんな人の中にでも眠っている、貪欲に気づかせてくれるのはみことばです。しかしどうでしょうか。
みことばを聞いてもこの人は自分の貪欲に気づかず、むしろその貪欲を自分の願う方向へと満たすためにイエス様を利用しようとしました。
彼はイエス様を、救い主ではなくて調停者としか見ていませんでした。
救いを求めてイエスのことばを聞いていたのではなく、この人ならば兄弟をうまく丸め込み相続を有利に進めてくれるだろう、と。
使徒パウロは、このような人のことを、「敬虔を利得の手段と考えている人々」と呼び、批判しています。
これはとくに現代の日本において、決して無視できないことばです。
私たちは神のことばを行うことによって祝福を受けます。しかし神のことばを行うというのは、人を変えることではなくて、自分が変わることです。
みことばを行うことによって祝福を受けるとは、外からビジネスチャンスが舞い込んでくることではありません。
富んでいるときにも、貧しいときにも、健康なときにも病気のときにも、あらゆるときに、私たちは感謝して満ち足りることを知るということです。
みことばを行うことで、むしろ私たちはこの世では迫害や不利益さえ生じることもあります。
しかしそれでも神のことばのゆえに苦しみも厭わない人は、次に用意されている新しい天と地においては、栄冠を受ける勝利者となります。
逆にイエスを信じていればこの世で楽に生きていくことができると考えている人は、失望して信仰から離れてしまうことになるでしょう。
私たちはどちらを選び取るでしょうか。答えは決まっています。
もし私たちが本当にイエス・キリストの十字架を信じて救われたのならば、義のために苦しむ道しか残されていないのです。
なぜならば、信じたときに私たちの内に入ってくださった御霊が、あえてそのような道に私たちを強いて行かせるからです。
だからイエス様は別のところでこう語られました。「義のために迫害されている者は幸いです」と。
もし私たちの生活の中に、キリストを信じるがゆえの苦難があるならば、それは私たちが主に従っているがゆえのバロメーターになります。
しかし自ら策を講じて苦難を避けようとする生活を繰り返しているならば、信仰は成長しません。
この世の知恵には熟達しても、信仰はいつまでも幼児のままです。聖霊の御声にいつも従っていくものでありたいものです。2.
今日、イエス様が話されたたとえ話は、「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれます。彼のどこが愚かだったのでしょうか。
それは、イエス様がはっきりとこう言われているとおりです。15節後半、「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」。
この愚かな金持ちは、財産さえあれば自分のいのちは安泰だと考えていました。そこが愚かだと言われているのです。
このたとえ話で、神が直接登場しておられるにもかかわらず、この金持ちの独り言の中には、いっさい神が出てきません。
たくさんの収穫物を与えてくださったのは神なのに、まるで感謝もささげようともしません。
信仰とは、自分の生活の至る所で、神ご自身が生きておられることを見つめることです。しかしこの金持ちにはそれがありませんでした。
彼にとって、財産こそが彼の安心の基盤であって、神がその財産を与えてくださったなどと一切考えない、それが愚かなことなのです。
この金持ちの姿は、今日の多くの人々が歩んでいる姿そのものではないでしょうか。
人間同士の関係には「絆」ということを頻繁に持ち出すのに、もっと大事な神との関係を見つめようとしません。
人に対しては「おかげさまで」と感謝を示しながら、自分もその人も同じように守ってくださっている神に対しては、一切感謝をあらわしません。
私たちに必要なのは、神を認めることです。そしてその神が、私たちのすべての歩みを導いてくださっていると信じることです。
イエス様は、この金持ちの考えやことばを、あえてスローモー、つまりゆっくりと語っているように見えます。
「どうしよう。作物を貯えておく場所がない」「こうしよう。あの倉を取り壊して」、うんぬん、と。
このゆっくりとしたことばの動きの中で、イエス様が語ろうとしているのは、いったい何でしょうか。
この金持ちが、これだけゆっくりと考えをまとめていく中でさえ、神と、神への感謝を一切思い浮かべようとしない、ということでははないでしょうか。
私たちクリスチャンは、よく結論を急ぎすぎて、神に頼るよりは人の力に頼ってしまうということがあります。
しかしこの金持ちは、ゆっくりなのに、そこにはまったく神が出てこない。だけど、確かに神は生きておられるのです。
そして、神がいなくても自分の生活を守ることはできると考えている人を、たったひと言で粉々にされるのです。
「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」と。
3.
イエス様は、この金持ちの愚かな生き方を通して、「神の前に富まない者はこのとおりです」と言われました。
では、「神の前に富む」生き方とはどのようなものでしょうか。
それは、私たちが持っている、すべてのものは、神が私たちにゆだねられたものだとうことを自覚している生き方だと言えます。
神は、この世を見捨ててしまっているのではありません。私たち救われた者を通して、この世を神の国として整えたいと願っておられます。
私たちは死ななければ神の国、つまり天国へ行くことはできないと考える必要はありません。
私たち、イエス・キリストによって罪贖われたひとり一人を通して、この世界を神の国としていくことができます。
神はそのために、私たちにご自分のものを与えてくださいました。
財産、時間、家族、人間関係、仕事上の実績、趣味や特技、ありとあらゆるものが、私たちに神がゆだねてくださったものです。
お金、つまり財産は、もし私たちがそれを用いて神のわざのために用い、また人に施していくならば、それは神の栄光を表すものとなります。
しかしお金を私たちの自己満足のために用いようとするならば、それを私たちから自由を奪ってしまうものになります。
イソップ童話の中に、こんな話があります。ある金持ちが金貨のたっぷり詰まった箱を庭の片隅に埋めました。
しかし誰かが盗み出さないか、心配でたまらない。毎朝掘り返しては盗まれていないことを確認して、また埋める。
そんなことを繰り返しているうちに召使いにばれてしまい、掘り起こされて逃げ出されてしまいました。
するとそれを聞いた隣の人がこう言って慰めたそうです。
「お前さん、まあそんなに泣かないでもいいじゃないか。代わりに煉瓦でも詰めておいて、それを金貨だと思って、喜んでおいでなさい。
どうせ使わないでしまっておくだけだったら、金貨も煉瓦も同じじゃないか」と。
このたとえ話の金持ちも、イソップ童話の金持ちも、頼るべきものを間違えていました。
本当に頼らなければならないのは、私たちをあらゆるもので満たしてくださる神おひとりだけです。
すべてのものはこの方からゆだねられたものにすぎません。
そしてそれを自分のためではなく神のために用いていくとき、私たちは地上ではなくて天に宝を積むことになります。
その天の宝は決して盗まれることはありません。
イエス・キリストは、私たちの人生の目的を変えるために、十字架でいのちを捨ててくださいました。
キリストが私たちのためにすべてを捨ててくださったように、私たちも神と人のために、自分を与えていくものになりたいと願います。