代務をしている村上福音キリスト教会の新会堂建設工事も順調に進んでおります。
早ければ12月上旬には移転できるということで、昨日も引っ越しへの準備として教会図書を整理しました。
何せ、余裕な部屋が一つもないギリギリの新会堂です。いらないものは全部捨てていかなければいけません。
ところがここで扱いに困るのが、「△△教会○周年記念誌」といったもの。数えてみたら30冊近くありました。
その教会の歴代牧師、教団理事長や宣教区長、それぞれの教会員、なぜか自治会長まで熱くたぎる文章を書いておられます。
「編集後記」にも担当委員が「願わくは、どうか神の栄光だけがあがめられますように」と祝祷レベルのことまで書いています。
なかなか捨てられませんよね。しかし捨てなければたまっていく一方なのです。
役所では入社してすぐに文書管理の研修を受けます。元公務員の牧師から「捨てられない同僚たち」へのアドバイス。
ただし、教会の書庫に余裕があるのなら無視して結構。他教会の記念誌を並べるのが好きな牧師もまた結構。
1.よその教会から記念誌が届いたら、牧師はすぐに教会員に回覧して、少なくとも自分は全部読みましょう。自分の教会が記念誌を作るときに参考にする?まずしません。するとしても、何冊もいりません。
2.読み終わったら、その教会に礼状を書きましょう。
3.その後、ためらわずに古紙回収に出しましょう。次に記念誌を開くのは本棚整理の時ぐらいですから。
教会が保存する文書は、自分の教会に関するもので十分です。原則は「文書は作成した団体が保存する」です。
個人レベルで保存すると、引き継ぎのときに厄介ですね。突然担当の牧師や信徒がいなくなったりすると、文書のありかも消えてしまいます。
他の教会や団体から来たチラシや案内は、せいぜい一年も保存したら捨てます。記念誌も例外ではありません。
どうしても捨てられない部分(会堂建築の経緯報告など参考になりそうなもの)は、そこだけコピーしておきます。
記念誌を捨てるのは勇気(と信仰)が必要ですが、その教会には在庫が山ほど余っていますからまったく問題ありません。
参考になれば幸いですが、気分を害されたら申し訳ありません。
タウンページみたいに記念誌も新しいのが来たら古いのを引き取ってもらえるといいんですけどね。
週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』25章14-30節
1.
かつてアメリカのプロ・バスケットボール選手で「バスケの神様」と呼ばれていたスーパープレイヤー、マイケル・ジョーダンの話です。
彼が30歳の時に、まだ戦える力を残しながら引退を表明したとき、ある新聞記者が彼にこう質問しました。
「これから、第二のマイケル・ジョーダンは現れると思うか。」つまり、あなたを越える選手が現れると思うか、と聞いたわけです。
そのとき、彼はこう答えました。「いや、第二のマイケル・ジョーダンは現れないだろう」。
彼の絶対の自信に記者たちはどよめきました。しかし彼のことばはこう続きました。
「第二のマイケル・ジョーダンは現れない・・・そして私も他の選手にマイケル・ジョーダンになれとは言わない」。
たとえマイケル・ジョーダンのプレイがすばらしくても、それを真似する必要はない。
むしろ自分だけのプレースタイルを作り出して、バスケットボールを楽しみなさい、ということなのでしょう。
今日の聖書箇所の中で、見落としがちですが大切なことばがあります。それは、15節の、「おのおのその能力に応じて」ということばです。
「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた」。
「彼」というのはこのたとえ話の主人であり、言うまでもなくそれは父なる神をあらわしています。
そしてタラントというのは、私たちが与えられた能力を、神のために用いていくことそのものを指しています。
神は、平等に一タラントずつ与えてはおられません。
それぞれの能力に応じて、ある者は五タラント、ある者は二タラント、ある者は一タラントと変化をつけて与えられます。
不公平だ、と私たちは言うかもしれません。よく才色兼備だとか、天は彼に二物を与えた、などということがあります。
私が丸一日かける説教の準備作業を、ある牧師はものの二、三時間で終わらせてしまいます。
説教原稿も作らずに、私よりも理路整然と説教を語る牧師もいます。あえて私を俎に載せましたが、これは不公平じゃありませんか。
しかし神がそれぞれにふさわしい能力を与えてくださったのです。
それぞれにできることは、人のまねをして第二のなんとかを目指すことではありません。
与えられた能力を精一杯生かして、自分にできることを神のためにささげる。
そこには、人の能力をねたむ暇はありません。2.
以前に語った計算の復習ですが、一タラントは六千デナリ、そして一デナリは当時の労働者の一日分の日給です。
つまり、一タラントというのは二十年分の給料です。年収三百万時代と言われる厳しい現代でも、六千万円にあたります。
五タラントだったら三億円、二タラントだったら一億二千万円。
しかし、五タラントをもう五タラント増やした人も、二タラントをもう二タラント増やした人も、主人、つまり神は同じことばでほめています。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」
いいですか、五タラント預けられて五タラント稼いだ人も、二タラントの人も、まったく同じことばです。
これは、神様が、いくら預けていくら稼いだか、その違いを見てはいないということです。
預けられたもの、つまり私たちそれぞれに与えられた能力を、とにかく神様のために生かして用いようとすること。
その「結果」よりも、心の中の思いを神様は見ておられます。
今日、私たちは、愛する倉島さんがバプテスマを受ける日にともにあずかることができました。
倉島さんが神様からどんな能力を与えられていて、それをどのように神様のために生かしていくか。
それはご自身が神様から示され、ご自身で果たしていくことです。人から言われて、ということではありません。
しかしどんなものが与えられているとしても、これを神様のために用いていきます、と決意していくならば、神様は喜んでそれを生かします。
そして主人の喜びをともに喜んでくれ、と言われるのです。
神様の目から見たら、三億円も一億二千万円も、一円や十円と同じ、わずかなものです。
何度も言いますが、与えられた能力の違いは問題ではありません。それを神様のためにいかに生かしていこうとするか、が問題なのです。
じつは私も、いま考えていることがあって、新潟市にある、一応ここも新潟市ですが、ボイストレーニングに通いたいと思っています。
今まで色々な方から「声はよく通りますね」と言われました。「声は」というのがちょっとひっかかりますが。妻は「声だけは」とダメ出しします。
説教の内容が50点で声が80点だとすれば、今までは説教の内容を上げて平均点を高めることを考えてきました。
でも最近では、苦手な分野を底上げするよりは、発声や抑揚を訓練して70点を少しでも100点に上げていこうと思ったのです。
短所を直していくのは苦痛ですが、長所を伸ばしていくのは楽しいことですね。私たちひとり一人が、神様から独特の能力を与えられています。
ぜひ倉島さんが、今日からクリスチャンとして、自分の与えられている力を神様のために用い、そのために高めていくことを願います。
3.
しかし今日のたとえ話の後半にも気をつけなければなりません。
一タラントというすばらしいものを与えられていたにもかかわらず、三人目のしもべはそれをあまりにも過小評価していました。
先週のイソップ物語の話を覚えているでしょうか。たくさんの金貨を土の中に埋めたはいいが心配で、いつも掘り返していた金持ちの話です。
一タラント、すなわち6000万円を地面に埋めていたら、私だったら心配になります。
しかしたとえ話とはいえ、このしもべが土に埋めて心配で過ごしたという気配はまるで感じません。
それは、自分がいったいどれだけの大金を任せられているのか、まるで実感がないからです。
私たちは、他の人の容姿や能力、性格と自分のそれを比較して、自分なんてと考えます。
自分ではこんなつまらんものと思うような能力であっても、それは神様が与えてくださった、大変高価な一タラントなのです。
神様が自分に与えてくださったものの大きさがわからないと、ご覧なさい。
このしもべは神様を蒔かないところからかき集めるようなひどい方だ、と考えるようになるのです。
預けられた一タラントを土に埋めておく、これは意識的に悪を行っているわけではありません。
しかし神から預けられていながら何もしないということは、神のものを強奪しているのと同じです。
能力も、人間関係も、時間も、ゆだねられたものは本来、神のものです。ゆだねられたしもべとして、何もせずに放置し続けることは、罪です。
このしもべは、一タラントという元手を失うことを恐れたのかもしれません。しかし神のものは、神のために用いるならば、失われることはありません。
導入で紹介したマイケル・ジョーダンはこういうことばも残しています。「何かを始めるのは怖いことではない。怖いのは、何も始めないことだ」。
能力にせよ人間関係にせよ時間にせよ、本当に失われてしまうのは、失敗を恐れて何もしなかったときです。
なぜなら、そのような悪いしもべは、持っていた物も神に取り上げられてしまうからです。
結.
「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
このことばは、役に立たぬからといって、しもべが永遠の滅びに突き落とされる、つまり偽物のクリスチャンだったという意味までも含んではいません。
しかしクリスチャンが与えられた賜物を生かそうとしないならば、神のものを無駄にして神ご自身を悲しませるだけで終わらないのです。
賜物を用いることを通して私たちは訓練されます。
賜物を生かさずに放置していくことは、かけがえのないオンリーワンとして成長するはずの、自分自身の価値をも損なっていくことになります。
キリストがいのちを捨ててまで救ってくださったほどの者たちが、自分にゆだねられた賜物の大きさに気づかないほど、悲しいことはありません。
今日、倉島さんが新しく教会のからだの一部として加えられました。
そのすばらしさをかみしめて、これからも自分にゆだねられたものを神様のために用いていってください。
能力や資格だけでなく、ご家族、ご親族との関係も、神様が用いようとしておられます。
そのことを信じ、倉島さんにゆだねられたすべてのものを通して、神様がご自身の栄光を表してくださることを忘れないでください。