1939年に独ソ不可侵条約が結ばれたとき、「欧州の天地は複雑怪奇」という言葉を残して総辞職したのは平沼騏一郎内閣でした。
今まさに極東の天地は複雑怪奇、いったい誰に、何処に、投票すればよいのでしょうか。
日本の政治家たちの言葉、信条、決断の薄っぺらさ。国民が放置されていることへの怒りと悲しみが湧き起こります。
ヒトラーが、大嫌いなスターリンと手を結んだとき、「ベルゼブルを追い出すためのサタンとの契約だ」と側近に語ったそうです。
(新約聖書を読んだことのある人にはわかりますが、これはヒトラーがイエス様のことばをもじったものです)
安倍首相や前原、小池両氏を彼らのような独裁者たちと並べるのは言い過ぎかもしれませんが、
少なくとも「排除」「選別」というような言葉を平気で口にするような人たちから「希望」は感じません。
更新が遅れますので、まだ土曜日ですが、説教原稿だけあらかじめアップしておきます。
ただし豊栄教会の方は、説教原稿を読んだからといって明日の礼拝を休んではいけませんよ。
週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』11章27節-12章9節
1.
アブラムの父テラは信仰の人でした。彼はアブラム、サライ、ロトとともに、聖書にある約束の地、カナンに向けて旅立ちました。
しかし彼は途中、ハランの町まで来たらそこに住み着いてしまいました。サライは、子どもの生まれない体でした。
ロトは性格はよくわかりませんが、後でソドムの町に取り込まれた所を見ると、どうもおカネやモノに弱い人だったようです。
そしてアブラム自身も、家族一人ひとりに問題を感じながらも、現状維持に留まっていました。
ここにいるのは、神の約束の地の一歩手前まで来ていながら、人間関係や現実という見えない壁を越えられない人々の姿です。
しかしじつは神に用いられた人物として聖書に登場する人々は、みなそのような痛みを抱えていました。
モーセ、ダビデ、エリヤ、ペテロ、信仰の勇者たちもまた、みな自らの弱さやふがいなさに痛みと失望を抱えて生きていたことがあったのです。
しかし確かなことは、神は彼らを定められた時に、みことばをもって召されたということです。アブラムにおいてもそうでした。
神は、偶像にあふれた町ハランで、力強いみことばをもって彼を再び招きます。創世記12章1節から3節までをお読みします。
「その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。
この言葉は、テラが死んだ後に語られた言葉ではありません。
神がアブラムにこの言葉を語ったのはアブラムが75歳のとき、それは父テラが145歳のときでした。
テラの一生は205歳と別の箇所で語られていますから、このときテラはまだ生きていたということになります。
しかも亡くなったのはこのときから60年も後ですから、年をとりすぎて町を出られなかったということでもないでしょう。
テラは祝福の地カナンよりも、偶像の町ハランにとどまることを選びました。しかしアブラムは違いました。
この神の言葉に従い、父をハランに置いたまま、サライとロト、その他の人々を連れてカナンへと旅だったのです。2.
信じることは、人を行動へと進ませます。信仰がなければ、立ち上がることはできません。
しかしひとたび信仰をいただいたなら、立ち上がらずにはいられません。アブラムは神のことばを信じました。わたしが示す地へ行きなさい。
「そうすれば」、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう、あなたの名は祝福となる、と。
立ち上がりなさい。行きなさい。「そうすれば」と神は約束してくださいました。
今日、多くのクリスチャンが「そうすれば」というこのことばを軽んじているようです。
誤解を取り除く必要があります。神は生まれつきの罪人である人間を、そのままの姿で受け入れてくださいました。
しかし信じた者に対して、「あなたはこのままでいいんだよ」とは言っていません。
だとしたら、何のためのキリストの身代わりであり、何のための救いなのか。
自分の吐いたものに体をこすりつけて喜んでいた野良犬のような罪人であった私を、そのままで抱きしめてくださった新しい飼い主。
それがいわばイエス様だったとすれば、イエス様から命じられるまでもなく、私は汚い生活からはいあがりたいと心から願います。
今まで何度変えようとしてもだめだったというあきらめを捨てて、私じゃない、神が立ち上がらせてくださるのだと聖霊を信じて立ち上がります。
それが救いの決心です。もし洗礼の前にそれが曖昧だったクリスチャンは、後になって信仰のリバイバルを経験します。
立ち上がろうとして、何度も挫折します。しかし失敗しないことが大事なのではなく、もう一度立ち上がろうとすることが大事なのです。
アブラムの人生は失敗だらけの人生でした。後に妻を妹と偽り、神の栄光を汚すような真似をします。
よく「失敗しても、同じ失敗を繰り返さなければいいんだ」とか言いますが、アブラムの場合、同じ失敗を繰り返しています。
私たちも、自分自身の、何度失敗しても変わらない姿に嫌気がさすことさえあるかもしれません。
私はいいんですけど家族が変わらないんですという人もいますが、自分が変わらないから家族も、他の人も変わらないのです。
聖書は「変わらなくてもいいんだよ」とは言っていません。「あなたは必ず変わる、しかし変わるのを急がなくてもいいんだよ」と言っています。
それがアブラムの、失敗と悔い改めを繰り返して成長していった生涯でした。
3.
聖書の中に、アブラムほど、行く先々で祭壇を築いた人物はおりません。
それは彼が祭壇を築き、その前で悔い改めてひれ伏すことを忘れなかったからでした。
だからこそ彼は、その失敗の多さにもかかわらず、「信仰の父」と呼ばれているのです。
今日の箇所を見ると、アブラムが常に動き続けたことを示す動詞がたくさん出てきます。
4節、「出かけた」。5節、「出発した」。6節、「通って行った」。8節、「移動した」。9節、「進んで、旅を続けた」。
クリスチャンがアブラムと聞いて思うのは、信仰の人、というイメージでしょう。
しかし聖書が記録しているのは、彼が信仰の人である以上に、行動の人であった、ということです。
私たちが信仰生活の中で、神を心から愛し、信じようとするならば、行動を起こさずにはいられないということです。
カランにとどまっていた頃のアブラムは、決して神に喜ばれる歩みではありませんでした。
アブラムは父への情愛と神への信仰のはざまで揺れ動いていました。
このままカランにとどまって、父が死ぬまで共にいるべきか、それとも神の命令に従って約束の地へ旅立つべきか。
しかしもしそうなったら、いったい父の面倒は誰が見るのか。父がもし死んだ時、父の葬りはだれがするのか。
それは父を誰よりも愛し、尊敬するひとりの息子の姿かもしれません。しかし決して神の子どもにふさわしい姿ではありません。
確かに聖書は、「あなたの両親を敬え」と十戒のひとつとして命じています。しかしイエス・キリストはこうも言われました。
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」
神が定めておられる、人生の優先順位があるのです。神を第一に、それから家族、社会へと。
しかし私たちはその優先順位を入れ替えるための言い訳をいつも心の中に用意しています。
こんな忙しい時に礼拝なんて出ている余裕はない。仕事はどうなる。家族はどうする。先祖の墓はどうする。親族との付き合いはどうする。
しかし神は私たちにこう呼びかけておられます。
「あなたが家族や社会に対して負っている責任も、すべてわたしが負う。だからあなたは、ただわたしに従いなさい」と。
結.
イエス・キリストは、私たちの担いきれない罪の責任さえ、ご自分のいのちをひきかえに十字架で負ってくださいました。
罪でさえ負ってくださった方が、私たちが抱えている家庭、生活、仕事の責任を負ってくださるのは当然です。
アブラムが父テラを神にゆだねる決心をし、カナンに出発したとき、その旅にはどんな困難がありましたか。聖書は何と書いているでしょうか。
12章5節の後半部分を読みます。「カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった」。
何もなかったのです。旅の間、特筆すべきようなことは何もなかった、ということです。
これまでの親子二代にわたる信仰の葛藤があまりにもばかばかしく思えるほど、アブラムたちは簡単にカナンに到着してしまいました。
しかしこれが事実であり、真実です。私たちが神に責任をゆだね、行動を起こす時、神は必ず道を開いてくださいます。
私たちが決意して立ち上がるならば、それまで足を引っ張られていたのがばからしく思えるほどに、小さなできごとになるのです。
しかしカナンに入ることは終わりではなく始まりでした。
恵みによって救われた私たちは、その恵みに答えていくために、神のみことばを常に思い巡らしつつ、一歩一歩踏み出していくのです。
信仰は立ち止まりません。信仰は後ずさりしません。ただ主にゆだねて、走り続けます。しかし自分の力で走り続けるのでもありません。
一緒に走ってくださる主の差し出す手を握りしめながら、そして転んでしまうことを恐れずに走り続けるのです。
人が疲れても、おぶってくださる方がいます。転んでも必ず助け起こしてくださる方がいます。それがイエス・キリストです。
今週もひとり一人がみことばに励まされながら、主と共に一歩一歩進み続けることができるように。