こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
自民圧勝で終わった総選挙でしたが、小選挙区制の問題点も改めて露わにされたという印象です。
私の居住する新潟3区では、当選者と次点の差が50票という、まるで田舎の村長さんを選ぶときみたいなことが起こりました。
まさに当ブログのタイトル「村の小さな教会」にふさわしい田舎の選挙区だから?
いやいや、いかにたくさんの票が死票になっているか、という実例です。
新潟3区では自民の候補が落選しましたが(比例で復活。これも問題があると思います)、
「自民圧勝」とは言いつつも、投票率と、全国で死票となった数を総計すれば、国民の過半数の同意も得ていないのです。
それが小選挙区の問題点。
オール・オア・ナッシング(ALL or Nothing)。デッド・オア・アライブ(Dead or Alive)。フィッシュ・オア・ビーフ?違うか。
教会の役員選出も、たとえ総会の時間はかかっても、過半数を得るまでは何度でも投票を繰り返すということが必要です。
上位○名を選ぶとか、牧師が推薦した中で選ぶというようなことをするべきではありません。役員は教会の自浄作用の要諦です。
週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』13章1-18節
序.
以前、クリスチャンが宝くじを買うことは罪ですかと質問を受けたことがあります。
何と答えたか忘れましたが、今だったら、「罪ではないけど、そこから罪に引き込まれていく可能性は高いですね」と答えるでしょう。
私が当てたわけではないので又聞きですが、宝くじの当選金が払い戻される際、銀行からある小冊子が手渡されます。
ギデオン聖書?
だったらいいのですがそうではなくて、その表紙には「その日から読む本」とあります。
頁を開くと、「当選した興奮と付き合い、落ち着いたらローンなどの返済を優先すること」などが書いてあるそうです。
このような本が手渡されなければならないほどに、宝くじに当たるとどんな人でも舞い上がってしまいます。
多くの場合、家族との会話はお金のことばかりになり口論が絶えず、金使いがどうしても荒くなります。
さらに親戚だけでなく、知らない人からも電話を受け、寄付を求められ、断るとなじられ、ノイローゼになります。
私を含めて、そんな大金とは無縁なみなさんですが、
たとえ大金を手に入れても、それまでの生活レベルや仕事を変えないで堅実に生きることを忘れないでください。
短い時間のあいだに手に入れた富は、間違いなく自分や家族を浮き足立たせ、悲劇へと導きます。
富そのものは悪ではありません。しかし努力もせず、そして短い時間で手に入れた富はその人の生活を破壊します。
一方で、長い時間をかけて得た富は、その人の努力と忍耐への報いになります。
しかし報いとはいっても、それは神様が用意しておられる報いのごく一部に過ぎません。富は有限で、一時的なものでしかありません。
本当の報いは、富もこの地上に置き捨てて、天へ私たちが凱旋していくときに、イエス・キリストが与えてくださる冠です。
この世に置いていく富ではなくて、新しい世で待ち受けている永遠のいのちを見つめ続けるものでありたいと願います。
1.
今日の聖書箇所は、不正な手段を通して手に入れた富が、信仰の家族に別れをもたらした物語です。
前回の説教で学んだのは、カナンで起きたききんから逃れるために、祭壇を捨ててエジプトに逃げ込んだアブラムたちの姿でした。
彼はそこで生きのびるために、妻サライを妹だと嘘をつきました。
美しいサライはエジプト王パロの宮殿に召し抱えられ、アブラムはそのおかげで多くの富を与えられます。
しかし神はそのことのゆえにエジプトに罰を与え、それがアブラムとサライが原因だと知ったパロは、彼らを財産と一緒にカナンへ送り返しました。
アブラムは祭壇に戻ってきました。しかしすべては元どおりとはならなかったのです。
偽りによって手に入れた富は、結局、彼らをそれからも苦しめ、ついには別れをもたらしたのです。
アブラムとロトはエジプトにいたわずかな期間のあいだにたくさんの財産を手に入れました。
男女の奴隷、多くの家畜、それを飼う牧者たち・・・しかしそれが二人のあいだで争いを続け、これ以上いっしょにいることはできなくなりました。
もし彼らの財産が、現代のように土地、建物、現金、預金といったものであれば、ふたりはそれらを捨てることでやり直すこともできたでしょう。
しかし彼らの財産とは、奴隷、家畜、牧者、みな生き物です。邪魔になったから捨てるということはできません。
その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた、とあります。それらの人々から、奴隷や牧者たちの生活、家族を守ってあげなければなりません。
身から出た錆とは言え、結論はひとつしかありませんでした。「私と別れてくれないか」。
それはアブラムにとって、何と悲しいことばだったでしょうか。アブラムとロトは、ともにカナン目指して何十年も歩み続けてきた戦友でした。
おじと甥という間柄でしたが、ロトにとってアブラムはむしろ父であり、アブラムにとってロトはわが子同然でした。
牧者たちのあいだに争いはあっても、アブラムとロトの間の友情は壊れてはいなかったはずです。
ふたりは、いつまでも一緒に信仰の旅路を歩き続けようとお互いに誓い合った親子であり、戦友でした。
しかしエジプトで偽りによって得た財産が足かせとなり、いま、別れる以外に解決の道はない。それはまさに断腸の思いであったことでしょう。
2.
私が昨年から代務をしている村上教会は、いま会堂建築工事を行っています。
村上市のシンボルである、村上城跡の麓にある220坪の土地は、まったくキリスト教と縁のない方が寄付してくださったものです。
すでに建ててあった、老朽した家屋を約1500万円でリフォームして、教会堂および牧師館として生まれ変わらせます。
そのほとんどの費用は、他教会の方からの献金で賄われています。
400万円をある方が貸し付けてくださいましたが、もし返済できなければ献金としてもよいという覚書を交わしています。
神の恵みとしか言いようがありません。ここに会堂が建つことは奇跡でした。そのことはまず神に感謝をささげるべきことです。
しかし本来、会堂建築というのは、その教会の人々自らがささげたものでなければならないのです。
それは村上の教会員たちも理解しています。私が口を酸っぱくして伝えているからです。
「建物としての会堂は、外部からのささげものによって建った、しかしこれを本物の教会にしていくためには、
これからみなさんが自分の力を精一杯神様にささげて、新しい牧師家族を支えて、自立を目指していくのだ」と。
もし村上教会がそれを忘れてしまったら、会堂は建っても教会は立ちません。
母は自分のお腹を痛めて子を生むからこそ、命をかけて子を愛し尽くすものです。
アブラムとロトのあいだに生まれた悲劇は、苦労せずに得た富が逆に分裂をもたらしたという警告です。
これを教会に当てはめてみるならば、それは外に援助を求めないで自分たちで努力しなさいという意味ではありません。
私たちはそれぞれがキリストのからだの一部ですから、外に経済的援助を求めることもできる。
しかし、そうであれば、受けた経済的援助以上に、自分が、自分たちが、自分のたましいを、自分の生活を、自分のいのちを、
神にささげてこそ、外からのささげものがその教会に命を与える、ということに尽きるのです。
3.
アブラムはロトにまず土地を選ばせるとき、「全地はあなたの前にあるではないか」と言いました。
その言葉の意味は、あなたの目の前にあるものすべてをとってもよいのだ、ということなのです。
なぜなら、今祭壇の前に戻ってきたアブラムは、自分の受けるべきものはこの地上にではなく、天にあるという確信を持っていたからです。
ロトが目の前のどの土地を選んだとしても、アブラムは残った土地に望みを置くのではなく、ただ天に永遠の住まいを求める、
すなわちこの地上では寄留者として、しかし天に永遠の国籍と報いが待っている者として歩んでいく、という信仰を持っていました。
ロトは地上の祝福を選び取りました。私たちが信仰の目を失ってしまうなら、同じわだちを踏んでしまうでしょう。
しかし同じ踏むなら、アブラムが通ったわだちを踏みたいものです。私ではなく、神が約束を成し遂げてくださるのだ、という信仰を。
神は最後にこう約束されました。「わたしがあなたに、その地を与えるのだから」と。
ただ神の約束を信じ、己の手のわざをうち捨てて、神とともに歩んでいくこと。それをアブラムは失敗を通して学び取りました。
聖書が教える、アブラムの人生の勝利の秘訣があります。それは祭壇に始まり、祭壇に終わります。
カナンに初めて入ったとき、アブラムは祭壇を築きました。祭壇を見捨てたとき、エジプトで失敗が起こりました。
エジプトから帰ってきたアブラムは祭壇の前に戻ってきました。そしてヘブロンに天幕を築き、そしてそこに祭壇を築いた、と。
祭壇は、私たちにとって、信仰生活の根源であり、それは礼拝、あるいは祈祷会といった教会生活だということを前回に語りました。
教会が幾多の犠牲を払いながら自分たちの会堂を求めるのは、礼拝、祈祷会をさらに力と思いと真実を尽くしてささげていくためです。
それはどんな教会でも同じです。神に最上の礼拝をささげるために、私たちはあらゆるものを整えていきます。
ひとり一人が心に刻みつけながら、今週も歩んでいきたいと思います。
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posted by 近 at 23:40
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