私が東京基督神学校に在籍していた頃、ギリシャ語等を教えてくださった小林高徳先生が、61歳の若さで天に召されました。
母校は十年前に閉校し、その働きは東京基督教大学神学部の大学院に引き継がれて今に至っています。
小林先生はその東京基督教大学の学長として尽力され、これからも活躍が期待されていましたが、神は先生を引き上げられました。
神学校に入ると、ギリシャ語の最初の授業で「ホ・ヘ・ト」という暗号めいたものを覚えます。
もちろんイロハニホヘトではなく、ギリシャ語特有の、男性・女性・中性名詞の冠詞を横につなげたもの。
たったこれだけを覚えるのにも苦労する一年生に、さらなるギリシャ語の容赦なき洗礼を授け続けた先生の姿を思い出します。
口癖は「簡単ですねえ、ふふふ」(ニヤリ)。あっ、思い出したらだんだんむかついてきた。
それは冗談ですが、すばらしい先生でした。天国でもう一度授業を受けたいものです。どうかご遺族の方々に慰めがありますように。
週報はこちらです。

(東京基督教大学のホームページから引用)
小林高徳 東京基督教大学・日本長老教会東関東中会 合同葬のお知らせ
東京基督教大学学長・教授、日本長老教会東関東中会教師 小林高徳が2017年10月24日に召天しました。
ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでお知らせ申し上げます。
東京基督教大学・日本長老教会東関東中会 合同葬を下記のとおり行いますのでご案内申し上げます。
日時:11月25日(土) 13時〜14時30分(受付開始11時30分)
場所:東京基督教大学チャペル 千葉県印西市内野3-301-5
葬儀委員長:廣瀬 薫(東京キリスト教学園 理事長)
聖書箇所 『創世記』18章16-33節
1.
今日は教会学校でも私が同じところから語りましたが、紙芝居とは別にこんな紙を使いました。






これがいったい何をあらわしているかわかりますか。
いうまでもなく、アブラハムがソドムの町をさばきから救うために次々に神様に訴えた数字です。
彼は、もしかしたら神の逆鱗に触れてしまうのではないかと覚悟しながら、次々に数字を落としていったのでしょう。
まず私たちは、聖書が、この数字のやりとりをひとつひとつ記録していることに目を留めるべきでしょう。
50人、45人、40人、30人、20人、10人、それらの数字を出しながら神と交渉していく、
アブラハムの緊張感をこれでもかというほどにくわしく書き綴っています。ここには、アブラハムのとりなしの必死さが刻み込まれています。
一言でまとめたり、何かをはしょったりすることができない。その口からでる一言一言がまさに命がけのものであった、ということです。
アブラハムの命がけの態度は、どこから生まれているのでしょうか。そりゃ、信仰からさ、と言うのは簡単です。
ではその信仰を具体的なことばで言い表すと何か。それは、彼は、自分の無力さを知っているということに尽きます。
アブラハムは、自分も、ソドムの人々も、すべての人間が神の前にまったく無力であることを知っていました。
神の正しさに照らすならば、罪に汚れたソドムの町は、神の手で滅ぼされることに何の言い訳もできません。
しかし無力であるからこそ、アブラハムは命がけでソドムのためにとりなします。じつは祈りの力というのは、無力からこそ生まれます。
私たちは何もできない。自分の性格を努力して変えることもできないし、わずかな時間、罪から離れて生きるということさえもできない。
自分が無力だからこそ、全能なる神にしがみつきます。祈ることしかできません。しかしだからこそ、いのちがけで祈る。
それがアブラハムの証ししている信仰です。
私たちクリスチャンは、神以外に逃げ道を焼き捨ててしまった人々です。
世の人々は、クリスチャンは神に逃げ込んで努力をしないと批判します。しかしむしろ私たちは神以外に何に対しても逃げ込むことをしない。
たとえそれが努力だとか人との絆だとかいう心地よい言葉であったとしても。
自分がとことん無力な者であることを知っている。しかしだからこそ、神にしがみつく。
それが私たちの祈りであり、アブラハムが神の前で表した、いのちがけでソドムの人々のためにとりなした姿です。2.
今年はマルティン・ルターの宗教改革からちょうど500年ということで、世界中で多くの記念の催しが開催されました。
ルターが、当時のカトリック教会の霊的腐敗に対して95箇条の論題という質問状を掲げたのが、1517年の10月31日。
ちょうど500年前の二日後のことです。そこから私たちプロテスタント教会の歴史が始まりました。
ルターは当時のローマ教皇から破門され、教皇に通じていた当時の権力者たちからも命を狙われました。
そんな彼を支えていたのは、まさに自分自身に対する無力感、しかし神のことばだけは永遠に立つという信仰でした。
彼が皇帝による裁判に引き出されたときに言ったことばは、有名です。
「わたしはここに立つ。他にどうすることもできない。神よ助けたまえ。アーメン」。
彼が「ここ」と呼んだのは、被告席のことではなく、神のことばの上に立つ、という意味だと言われています。
人間としては、この世の力の前に何もすることができない、しかし神のことばの上に立つとき、私たちは尽きることのない力を得ます。
このルターの祈りは、アブラハムの必死のとりなしに通じるものです。他に頼るものがないからこそ、私たちは神にしがみついて祈ります。
そしてルターだけではない、多くの信仰者を生みだしたのも、自分の無力さを見つめ、神にしか頼らなかった人々の祈りでした。
ルターに遡る一千年以上前、キリスト教の偉大な指導者の一人であったアウグスティヌスの母モニカも、息子のために祈り抜きました。
祈っても祈っても、このアウグスティヌスは放蕩と堕落の中に沈み続けましたが、当時の司教アンブロシウスはこう言ってモニカを励ましました。
「涙の母の子は、滅びることはない」と。そして母の祈りによって、アウグスティヌスはついに回心して救われたのです。
また貧しい移民の妻であったリンカーンの母は、丸木小屋の中で、わが子を膝の上に抱き、酔いどれの夫とリンカーンのために祈り続けました。
奴隷解放の偉業をなしとげたリンカーン大統領は、この母の膝の上で、いつも祈りを子守歌としながら育ちました。
私たちも、たとえ自分がどんなに無力であったとしても、祈りを手放してはなりません。
神は、私たちが祈りという神の力だけに依存するように、あえて私たちを無力さのなかに放り込まれるのです。
祈り以外に頼るものがあれば、人はそちらを選ぶでしょう。しかし私たちには、祈り以外には、何も変えることができません。
祈りは、まず私たちを変えていきます。そして私たちのプライドを砕きます。
プライドを奮い立たせて自分の無力を忘れようとする誘惑から私たちを守り、ひたすら神の全能の力に拠り頼ませようとする。
それが祈りです。私たちクリスチャンには、その祈りがすでに与えられているのです。
3.
しかしアブラハムにとって、予想外のことがありました。それは、ソドムには十人の正しい人もいなかった、ということです。
アブラハムは、家族やしもべにも信仰を伝えて歩んでいた人でした。そしてロトも、そうなのだろうと思っていたからこそ、十人でやめました。
しかしロトは自分の家族に信仰を継承することができず、ソドムにおいて正しい人はロトただ一人だけだったのです。
ロトの妻は欲望を捨てきれず、塩の柱になってしまいました。
また娘たちはロトに酒を飲ませて泥酔させ、その勢いでじつの父親と交わって子どもを残そうとするほどに、歪んでいました。

アブラハムは、10、という紙を最後に掲げて、神様へのとりなしをやめてしまいました。
しかしじつは紙はもう一枚残っています。
この「1」という数字を掲げて、神へとりなしてくださった方がおられます。どなたでしょうか。
言うまでもありませんが、その答えを言う前に、今日の招きのことばをもう一度お読みします。
あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(ルカ15:4-7)十人の正しい人どころか、一人の罪人のために、身代わりになって死んでくださった方がいます。それがイエス・キリストです。
私たちすべての人間は、生まれながらの罪人です。
しかしイエスを救い主として信じる時、すべての罪を赦され、少しずつキリストに似た者へと変えられていきます。
私たちも、かつては自分のことにしか関心のない者でした。
しかし救われた者は、今も天でとりなしておられるキリストに似た者として、自分の周りにいる人々のために取りなしていく者へと変えられます。
御霊は私たちの心に愛を注ぎ続けてくださいます。そして私たちはその尽きぬ愛をもって、隣人のためにとりなしていくことができます。
どのようにとりなしてよいかわからない時にも、聖霊さまが必要な祈りを与えてくださいます。
どうか今日から、今から、まだ救われていない人々のために取りなしの祈りをささげていきましょう。
アブラハムが神の御前に命がけでとりなしたように、この一週間もひとり一人が取りなしの祈りをささげていくことができるように。