最近の記事

2017.11.5「家庭は庭のごとく」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
まったくアナウンスもないままに、トップ記事に、私が兼牧している村上教会の会堂建築趣意書を掲載してしまいました。
そんな中、ブログをよく見ていてくださるという千葉県のKさんから会堂献金へのご協力をいただきました。ありがとうございます。
会堂献金に限らず、今までも、兵庫県のKさんはじめ、多くの方からささげものを送っていただきました。
この場を借りて、改めてお礼申し上げます。なんか催促しているような感じに聞こえたらすみません。
 村上教会の会堂献金は、現在、献金目標額400万円のうち、2%くらい集まっております。
献金者には領収証とニュースレター、そしてあわよくばもう一回ということで振込用紙も送らせていただきます。
どうかお祈りをよろしくお願いいたします。週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』19章1-38節 

序.
 敬和学園大学の新井明学長がよく言っていた言葉に、「敬和学園大学は、木を育てるように人を育てる」というのがありました。
この場合の木というのは、自然に生えている木のことではなく、人間が一本一本地面に植えていく木のことを指しています。
教育というのは、木を植えて、肥料をやり、水をやる、それを毎日続けるように、手塩をかけて育てていくこと、それは人も同じだ、と。
 「家庭」という言葉があります。欧米からの留学生が興味深いことを言っていました。「家庭」という言葉は日本にしかないそうです。
英語に「family」という言葉がありますが、これは「家庭」ではなくて、「家族」である。
また同じく英語で「home」という言葉があるが、これも「家庭」ではなくて、「今人が住んでいる家」という意味にすぎない。
家庭的な雰囲気を表すときに使う「アットホーム」という言葉は、和製英語と言って、日本人が作った英語だそうです。
アメリカ人に「アットホーム」と言っても、単に「家にいる」という意味で、暖かな雰囲気というニュアンスは伝わらない、ということでした。
 面白いなあと思いました。日本人も外国人も家族を大切にしますが、「家庭」という言葉は、日本にしかないのだということ。
日本人は、まさに木を育てるように人を育てるというのが、言葉に表れているのです。庭というはまさにそうじゃないですか。
庭に花を植え、木を剪定し、美しく整えていくように、子どもたちを大事に大事に育てていくのが、家庭なんだというわけです。
 今日の聖書箇所は、聖書を読んだことがない人でも「ソドムとゴモラ」の話だというと、あっ聞いたことがあるという有名な場面です。
一見、罪にあふれた町へのさばき、という暗い事実しか見えません。しかしその背後にあるひとつのメッセージを学びましょう。
それは、まさに「家庭」を作ることを軽んじていたロトの過ち、そしてそれでもなお彼を愛し、命を助けてくださった神のあわれみです。1.
 1節をご覧ください。「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。
ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ」。
ふたりの御使いは、ソドムに正しい者が十人いればこの町を赦そうと言われた神のことばに基づいて、ソドムの町にやってきました。
彼らは天使のように羽を生やしていたわけではありません。しかしロトは彼らがただの旅人ではないことを直感的に気づいたようです。
ただの旅人に対して、顔を地につけて伏し拝む、つまり礼拝することなどあり得ないからです。
 しかしふたりの御使いは、ロトの歓迎にニコリと微笑むこともなく、こう答えました。「いや、私たちは広場に泊まろう」。
なぜ御使いがロトの招きを一度は断ったのか、それはもう少し後で明らかになります。
ロトがしきりに薦めたので、二人は彼の招きに応じました。そしてロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼きました。
パン種を入れないパンというのは、祭壇にささげられるパンのことです。ここからも、ロトが二人を神の使いと認めていたことがわかります。
 これほど深い霊の目を持っていたロトでした。しかし彼の家庭には、間違いなく欠けていたものがありました。
ロトはごちそうを作った。ロトはパンを焼いた。それは、この前の章に出てくるアブラハムと対照的です。
アブラハムもまた、ただの旅人を御使いと見抜き、同じように伏し拝み、家に招き入れました。
しかし彼は妻にパンを焼かせ、しもべに上等の小羊の肉を料理させ、家中を走り回って、そして自分はウェイターのように給仕を務めました。
 しかしロトには、家はあっても家庭がありません。家族はいても家庭を持っていません。
御使いを見抜く目は持っているのに、家族の心の叫びに傾ける耳を持っていません。
この3節からは、ごちそうの香りはしても家族の気配がしません。暖かな湯気は立ち上っても、家族の笑い声は聞こえません。

2.
 アブラハムには家庭がありました。妻だけではなくしもべもすべて総動員して、御使いをもてなしました。
しかしロトには家族はいても家庭はありません。ロトが自ら、“木を育てるように家庭を育てる”ことを放棄していたからです。
実際、ロトのことばの中で、はじめて家族がいることがわかるのはどこでしょうか。8節です。
目を血走らせた群衆がロトの家を取り囲んだとき、あろうことか自分の娘たちを好きなようにしていいから我慢してくれと説得するところです。
御使いたちが最初にロトに誘われたとき、「いや、私たちは広場に泊まろう」と断ったのは当然です。
こんな、お互いに仮面をかぶっているようなロトの家には、たとえごちそうを並べられたとしても御使いだって泊まりたくはなかったのです。
 ロトは、アブラハムと同じように神を求めていました。そして旅人を御使いと見分ける霊の目も持っていたし、彼らを礼拝することもしました。
しかし、彼は家庭を育むことに失敗しました。そして今日も、多くのクリスチャンが、同じ過ちを犯しています。
確かにイエス様は「わたしよりも父、母、子、兄弟を愛する者は私にふさわしくない」という弟子の心構えを示されました。
しかしそれは、家庭を大事にしなくてもよいという意味では断じてありません。パウロはテモテに送った手紙の中でこう言っています。
「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです」と。
 集会出席よりも家族との交わりを大事にせよということではありません。
集会に費やす時間は、一週間のうちのごく一部です。その時間は聖別すべきです。
ここで問われているのは、その残りの時間を、どれだけ家族を愛し、家庭を育むことにささげているかということです。
豊栄教会は、クリスチャン夫婦の多い教会です。それは、前任の先生の方針もあったと聞きますが、すばらしいことです。
だからこそ、教会で夫婦が共にいるように、家庭でも共にいる時間を大事にすべきでしょう。
その姿をみつめながら、独身の信者や、まだ配偶者が未信者である方が、信仰者夫婦の麗しさを学んでいきます。
家族を自分のように愛し、神に仕えるように家庭に仕えていくとき、私たちの信仰は、次の世代へと確実に継承されていくものとなります。

3.
 今日の聖書箇所の中で、私の心に最も響いたのは16節のみことばでした。
「しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──【主】の彼に対するあわれみによる。」
ロトのためらいは、家族を案じてのものではありません。本当にさばきなどあるのだろうか、逃げる必要があるのだろうか、というためらいです。
家族のことをいささかでも心配していたら、たとえ神のことばをすべて信じることはできなくても、やるべきことは決まっていたでしょう。
しかし彼はどこまでも、自分本位でした。彼は信仰は持っていたとしても、その信仰は家族を一切顧みない修験者のような信仰でした。
私たちがもつべき信仰はそうではありません。神を愛し、自分を愛し、家族のことも顧みる、それが神の家族にふさわしい信仰です。
そしてロトがたとえそこから離れてしまっていたとしても、神のあわれみは尽きることがない、
神自らが、家族の手をつかみ、一つに結び合わせてくださる、ここには私たちに対する神の愛が明らかに示されています。
 しかしロトの家族は、それを生かすことができませんでした。
ロトの妻は、前を歩いている夫や娘よりも、町に残してきた財産が気になり、後ろを振り返り、塩の柱になってしまいました。
ロトの娘たちも、神に喜ばれる“家庭”よりも、血のつながりだけの“家族”を残すことに執着しました。
つまり、父ロトを酒で酔わせ、娘がじつの父と交わって子孫を残すという間違った道を選んでしまったのです。
ロトとその娘たちが、この後の人生をどう過ごしたのか、聖書はここからは何も記しません。
そして彼らの近親相姦によって生まれた子孫、モアブ人とアモン人は、本来親戚であるイスラエル人を憎み続ける者として聖書に登場します。
しかし神のあわれみは尽きることがありません。やがてモアブ人の中にルツという女性が生まれます。
そしてこのルツが、本来犬猿の仲であるイスラエル人の男性に嫁ぎ、その子孫からイエス・キリストが生まれるのです。

結.
 御使いさえも入りたくなかったロトの家。
しかしイエス・キリストは、私たちの心がどんなに汚れていても、信じた者の心の中に喜んで入ってきてくださいます。
私たちが家庭を築くことに失敗し、愛することの難しさに心張り裂けるときにも、神は決して信じる者たちを忘れることはありません。
このイエス・キリストを信じる者は、いつでも、どんな場合にも、やり直すことができます。
この一週間も、ひとり一人がキリストの十字架を見上げて、本当に幸いな家庭を築いていくことができるように。
posted by 近 at 18:12 | Comment(0) | 2017年のメッセージ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: