遅ればせながら、恒例のクリスマスチラシをアップします。比較的重いPDFファイル(2MB)なのでご注意ください。


今年は地元に6千枚程度、新聞折込をします。たくさん来てくれたら良いですね。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』1章26-38節
1.
私の家には物心ついた時から仏壇や神棚がありました。それらにご飯を運んだり、水を取り替えたりすることは私の仕事でした。
毎年秋には近くの神社で祭りがありました。
長い階段を上りきると、大中小の社が三つあって、それぞれに五円、十円、五十円、お賽銭を入れることを決まりにしていました。
総額65円でも、こどもが入れるお賽銭としては十分だろうと、子供心に考えていました。神様もきっと喜んでいるはずです。
お盆には茄子で馬を作り、夕方には浴衣を着てお寺に行き、お墓に線香とお花を供えました。ご先祖様も喜んでいるはずです。
これが99%の日本人の姿でしょう。
仏壇、神棚はもとより、神社やお寺も、怖いとか恐ろしいとか思ったことは一度もありません。
しかし高校に入り、生まれて初めてキリスト教会に行ったときに、ここは怖いと思いました。
教会の牧師先生や信徒の方たちに怖さを感じたのではありません。
教会が初めての私にも親切で、何もわからない私の隣に座り、聖書を開いてくれたり、ことばをかけてくれました。
怖いと思ったのは、人でも、教会の雰囲気でもありません。ことばにうまく説明することはできませんが、恐ろしさを感じました。
今振り返ってみると、その恐ろしさというものの正体は、目には見えないが確かに教会におられる神そのものに対してでした。
もちろん生まれて初めて教会に行って、そこに聖なるものがおわしますなんてことがわかるはずはありません。
しかし、私が今まで体験してきたもの、私が知っているものとはまったく異質な何かが教会にはいるということははっきりと感じました。
マリヤに対して御使いは開口一番「おめでとう、恵まれた方」と告げた後、今度は「こわがることはない」と呼びかけます。
マリヤは何をこわがっていたのでしょうか。
「何のあいさつかと考え込んでいた」ということばからは、マリヤの恐れはあまり伝わってきません。
しかしマリヤにかぎらず、すべての人間は聖なる方に近づく、あるいは聖なる方のほうから近づかれるとき、恐れが起こります。
なぜなら、すべての人間は罪人だからです。罪のない、まったく聖なる方に対して、罪人は恐れを抱かずにはいられません。
罪とは聖なる方、つまりまことの神がわからなくなることです。だから人は本当に聖なるものに触れたとき、恐れを抱きます。
西行法師が伊勢神宮を訪れたとき、「どなたかがおはしますかは知らねどもただありがたさに涙流るる」と歌いました。
これが日本人の宗教観だと言われます。しかし本当に聖なるものに触れたとき、人はありがたさどころか恐れを抱くのです。
生まれつきまことの神についてまったく知らない、すべての人間は、本能的に近づくのを避けようとするからです。
2.
私が生まれて初めて教会に行ったとき、ここには自分とは異質な何かがあるということを感じました。
聖なるものに近づいたとき、聖ではない私たちすべてのものは、必ず違和感を感じます。
しかしすべての人間は、そこから二種類に分けられます。
自分の知らない、理解できないものから距離を置いて、理解できる範疇の出会いを求めて歩んでいくか。
それともわからない、理解できない、受け入れがたい、しかしそれに近づく道を歩んでいくか。
私はその後の人生の中で、後者の道を歩んできました。みなさんもまたそうです。
ではその二つの道を分ける鍵は何でしょうか。
それは、この世界が作られる前から定められていた、神の救いの計画、いわば、人が抵抗することができない、「恵み」です。
人の知識や、意思の力ではありません。決断が必要ですが、その決断さえも神が与えてくださるものです。
恵みは、私たちが正体がわからずにこわがっていたものが、ただひとり、きよい、まことの神そのものだということを教えてくれます。
そしてこのきよい神を心に教えられた者は、自らもきよいものとして生きていきたいと願うようになります。
それは、人生と生活の方向を変えることを意味します。
まことの聖なる方に触れたとき、私たちは生き方を変えることが苦痛ではなくなります。
神を知らない者にとって、生き方を変えることは苦痛です。そして生き方を変えなくても、何とか生きていくこともできます。
しかしマリヤは神のことばを聞いたときに、救い主が文字通り自分のからだにまさに切り込もうとしておられることを知ったのです。
平凡な夫婦生活を思い描いていたマリヤは、結婚もしていないのに子どもを宿すという非難にさらされて生きる道を示されました。
マリヤは御使いにこう答えました。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」。
これは神の奇跡を疑うことばではありません。自分のちいさな体に救い主を受け止めることの大きさへの戸惑いと恐れです。
マリヤでなくても、だれがとまどわずにいられましょうか。恐れずにいられましょうか。
しかし神は変わることを求めます。マリヤだけではなく、神の言葉を聞くすべての者に対して。
神のことばが本当に働くとき、私たちは頭からつま先まで裏返しにされて心の中身も全部さらけ出されるような経験をします。
自分の常識、経験、立場、あらゆるものを裏返して、神の前に生まれ変わるのです。
3.
恐れには正しい恐れと間違った恐れがあります。
間違った恐れのほうから先に言えば、それはまことの神さまをいつまでもこわがり続けてしまうことです。
確かに、人は神がわからないから、まことの神様であってもやみくもにこわがってしまいます。
しかし恐れは十字架によって取り去られました。
マリヤがイエスの命をその体に宿したように、私たちもイエス様をこの心に宿すならば、恐れは感謝に変わります。
イエスを信じた私たちは、正しい恐れをもって神様に近づきます。
それは、神様は闇雲に恐れるべき方ではなくて、私たちを友と呼び、わが子と呼び、わが民と呼びかけてくださるという確信です。
御使いはマリヤに最後にこう語りました。
35節、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれる」と。
あなたの親戚であるエリサベツを見よ。彼女もまた神の力をいま体験している。「神にとって不可能なことはひとつもありません」。
どうして私たちはかつての人生の中で、まことの神をこわがり、遠ざけてきたのでしょうか。
それは私たちが、光よりも闇を好む、罪人だったからです。
しかし闇は十字架によって取り払われ、罪は復活によって完全に清算されました。
この福音は頭で理解するのではなく、心で信じ、口で告白するものです。
罪から永遠に解放されたい人はいませんか。永遠のいのちを得て、死の恐れから解放されたいという人はいませんか。
せっかく生まれてきた人生をうつむきながら生きていくのではなく、天を見上げて、まっすぐに生きていきたいと願う人はいませんか。
どうかイエス・キリストのもとに近づいてください。そうすれば、恐れは消えて、喜びが沸き起こってきます。
心の中にイエス・キリストを受け入れて、平安をいただきましょう。