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2017.12.17「正しい人にも福音を!」

murakami_Xmas-001.jpg こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 村上に新会堂が完成しましたので、市内にクリスマスの案内チラシを配ります。
 カットは、実際の会堂をモチーフに、イラストレーターのまるもりおさんが書いてくださいました。
 「冬の新潟らしく厚い雲と雪がこんこんと降る中にも、雲の切れ間から太陽が出て
 教会を照らしている、という意味を添えた」とのこと。私も色合いが気に入っています。
 実際には鉛色の空が広がることの多い村上(新潟)ですが、
 ここに来た人たちが希望を感じ取っていただけるような教会を目指していきたいですね。
 23日に市内3千戸に配布する予定です。ぎりぎりになってしまいましたが、お祈りください。
 週報はこちらです。

 聖書箇所 『マタイの福音書』1章18-25節 


1.
 「あなたは、いちばん信頼していた人に裏切られたことがありますか?」
そんな質問を、若い女性の読者が多い、ある雑誌の編集部がアンケートをとってみたところ、半数近い読者がはいと答えたそうです。
若い女性向けですから、恋人から裏切られることが多いのかと思ったら、信頼していた友人から裏切られた経験が大半でした。
恋人に対しては、はじめから信頼していない、と答えた人もいたとか。それもまた現代のドライな交際でしょうか。少し悲しくなります。
ヨセフは、婚約者であるマリヤに、裏切られたかもしれないという現実の中で苦しみます。聖書は18節でこう記しています。
「マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」。
聖霊によって身重になったことがわかった、とありますが、それは後でヨセフが夢で御使いに伝えられたからわかったことです。
最初のうち、わかっていたのは、ただマリヤのお腹が日増しに大きくなっていく、という現実だけです。
ヨセフの目の前に起きていたのは、許嫁であるマリヤが、まちがいなく自分以外の誰かの子を身ごもっているということでした。
 当時の社会では、婚約は結婚とほとんど同じことでした。婚約破棄で簡単に済む事柄ではありません。
いったい誰の子なのか。ヨセフは悩み、傷つき、苦しんだことでしょう。
自分に対するマリヤのまなざし、握りしめた手のぬくもり、将来を語り合った日々。たわいもない会話を積み重ねた、幸せな時間。
それらはすべて真実を隠した偽りだったのか。いや、偽りじゃない。偽りじゃないはずだ。だがマリヤのふくらんだお腹は、彼を苦しめます。
 ヨセフの前には、自分とマリヤの関係を清算するために、二つの選択肢が握られていました。
ひとつは、当時の律法の決まりに従い、マリヤを石打ちの刑にするために当局に引き渡すこと。
そしてもうひとつは、マリヤに離縁状を渡して、まったく無関係な二人として歩んでいくことです。
いずれにしても、彼にはマリヤを失う道しか残されていませんでした。
もしあなたがヨセフなら、どちらの道を選ぶでしょうか。
信じていた者にいつのまにか裏切られていた。目の前の現実がそう語っているその時に、それでも「正しい人」でいられるでしょうか。
自分を裏切った婚約者を、文字通り心の底から赦すことができるでしょうか。

2.
 ヨセフは赦しました。怒りにまかせて彼女を石打ちの刑にするのではなく、内密に去らせることを決めたのです。
その時、神の言葉が夢の中で語られました。20節をご覧ください。
「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」。
私はこのことばを読むたびに、どうして神様はもっと早くヨセフに教えてくれないのか、と考えてしまいます。
そうすれば、ヨセフがマリヤのことでここまで悩むことはなかっただろうに。
すべてはヨセフの心を探るための、神の試練だったのでしょうか。事実、彼は正しい人としての歩みを踏み外しませんでした。
まさに、神の子イエス・キリストの、血は繋がってはいないとしても、父親としてふさわしい。そのように受け止めることもできるでしょう。
しかし、聖書はもっと大切なことを私たちに示しています。正しい人であるヨセフに、神が何を語られたか、私たちは注目すべきです。
21節をご覧ください。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」。
ヨセフが「正しい人」であったにもかかわらず、「ご自分の民をその罪から救ってくださる」イエスについて語られていること。
ヨセフもまた、その「ご自分の民」のひとりであり、その罪から救われる必要があったひとりであるという意味をかみしめていただきたいのです。
あなたは言うでしょう。私は罪人ではない。ヨセフが「正しい人」であるならば、私だって「正しい人」だ。
今まで警察のご厄介になったこともないし、近所では「いい人」で通っている。そんな私に救いなど必要ない。
 しかし「正しい人」ヨセフに、罪からの救いが真っ先に語られた、という事実。
これは、「正しい人」でさえ罪から救われる必要がある、ということをはっきりと教えています。
この世の基準、ヒューマニズムの観点から見たら、ヨセフは「正しい人」です。あなたも「正しい人」でしょう。
しかし私たちの正しさ、それは昼間の電球の明るさにすぎません。太陽のもとにさらされるとき、電球の光は誰の目にもとまりません。
神の正しさは、あたかも太陽の光のようです。その圧倒的な明るさの前では、私たちの正しさなど、かすんでしまいます。
時代が変わり、立場が変わり、状況が変われば、私たちの正しさもまた変わってしまうものです。それが人間の浅はかな正義です。
ヨセフは正しい人でした。しかしにもかかわらず、罪からの救いを真っ先に必要としていました。
それは、今日の私たちが、たとえ自分は正しいと信じていても、同じように罪からの救いを必要としているということなのです。

3.
 新約聖書の『ローマ人への手紙』にはこうあります。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」(ロマ3:23)。 私たちは、やがてこの地上での人生が終わった後に、すべての人が例外なく、神の御前に引き出されて、審判を受けなければなりません。
そのとき、神は私たちの生前の行いに応じて、私たちが永遠のいのちか、永遠の滅びかを定めます。
しかし生まれたとき、すでに罪人として生まれてきた私たちは、決して神を納得させ、無罪を勝ち取ることはできません。
私たちが無罪とされる方法はただひとつしかないのです。そしてそれは、この地上の人生が終わる前に気づかないと、手遅れになります。
その方法とは、自分の罪を認め、イエス・キリストが私たちの罪のさばきを十字架の上で身代わりに引き受けてくださったことを信じることです。
 ヨセフは、そのことをまだ知りませんでした。しかし自分が救いを必要としている民のひとりであることを認めていました。
眠りからさめると、すぐにその妻マリヤを迎え入れ、子どもの名をイエスとつけました。彼は信じたのです。
自分の妻マリヤの胎から生まれ出る者が救い主であるという約束を。そしてそのために育ての父としてあなたが必要なのだという神の招きを。
 すべての人を救うことのできるお方は、二千年前にユダヤのベツレヘムで生まれました。
しかしこの方は、その前にまずヨセフの心に生まれる必要があったのです。そしてヨセフの心の中には、イエス・キリストが生まれてくださいました。
私たちがイエス・キリストを信じるということ、それは私たちの心の中に、イエス・キリストが生まれてくださるということです。
この方が私を罪から救ってくださる。そう心にかたく信じ、心の真ん中にイエスをお迎えするということです。
キリストを心に生み落とした者は「インマヌエル」と叫びます。インマヌエルとは、「神が私とともにいてくださる」という意味です。
どんなつらい出来事も、思い出したくない経験も、インマヌエル、神、我らとともにいます、の証しとなります。
今年のクリスマス、私たちは一緒にこう叫ぼうではありませんか。インマヌエル、と。
あなたを罪の滅びから救ってくださる方がいます。その方は、どんな時でもあなたを愛し、あなたを決して見捨てません。
そしてその方こそ、二千年前のクリスマスに、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエス・キリストなのです。
この方を心に受け入れるために、一緒にお祈りをささげましょう。

posted by 近 at 20:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2017年のメッセージ
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