あけましておめでとうございます。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の中で、「シメオンやアンナの時代(イエス様の誕生直後)、
すでにエルサレム神殿は30年後にイエス様が宮きよめをする頃と同様の世俗的な様相を呈していた」といったことを述べています。
ヨセフォスによれば、ヘロデ大王が権威発揚のためにエルサレム神殿の大改築工事を始めたのはその治世の第18年(紀元前20年)。
ヘロデは紀元前4年に死去しますが、神殿の改築工事は継続されたようです。
「建てるのに四十六年かかりました」(ヨハネ2:20)との証言から、工事完成はだいたい紀元26年頃になります。
イエス様の誕生はヘロデの死去より前ですので、改築工事はまだ三分の一しか進んでいない頃でした。
しかしヨセフとマリヤの律法遵守が強調されている文脈から、逆にこの頃にはすでに神殿祭儀が世俗化していたことが推測されます。
(イエス様の誕生時点ではなく、ルカ福音書の執筆時点においての形骸化・世俗化という解釈もありますが)
聖書はそれ自体で救いを与える書ですが、このように当時の歴史状況を考察すると一層リアルに読み取れるという好例かもしれません。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』2章21-39節
序.
凱旋門と並んで芸術の都パリのシンボル、エッフェル塔。それが建てられたのは今から約130年前、日本では明治22年のことです。
パリで行われた万博の記念として建てられたものでしたが、その建設計画が公になったとき、大きな反対運動が起こりました。
その急先鋒の一人が、モーパッサンという有名な小説家でした。
彼はこんなグロテスクな鉄塔は美しいパリの町にはまったくふさわしくない、とあらゆる手を尽くして反対運動を繰り広げました。
ところがエッフェル塔が建つと、妙な噂が流れました。あれだけ建設計画に反対していたモーパッサンが毎日エッフェル塔に通っている、と。
そこで彼の友人が、モーパッサンにその噂は本当かいと尋ねました。「ウィ、本当だよ」。じゃあ君はエッフェル塔が好きになったのかい。
「ノン、ノン。大嫌いだよ。あんなものがパリのどこからでも見えるようになってしまって、毎日地獄だよ。
だから毎日ここに来るのさ。この塔の真下だけが、パリで唯一エッフェル塔を見なくてすむところだからね」。
1.
イスラエルの慰められることを待ち望みながら聖霊に示されて宮に入ったシメオン。
また同じくエルサレムの贖いを待ち望みつつ宮を離れなかった女預言者アンナ。
モーパッサンの例を出したのは、じつは彼らにとっても当時のエルサレム神殿は決して喜べる場所ではなかったからです。
えっと驚かれるかもしれません。みなさんは今日の聖書箇所から、「宮」つまり神殿に対して、どのような場所を想像されるでしょうか。
それは決して静かに神を求めることができる場所ではありません。いけにえの動物を売り買いする声で溢れた、騒がしい場所でした。
実際、この時は赤ん坊だったイエス様は、30年後、同じ神殿で動物たちが売り買いされている姿を見て怒り、商売人たちを追い出しました。
しかし30年のあいだに神殿がそうなってしまったわけではないのです。シメオンとアンナの時代に、すでに神殿の堕落は起こっていました。
神殿が堕落してしまったのは、当時イスラエルを支配していたヘロデ大王の政策によるものです。
彼はエルサレム神殿を豪華絢爛たるものとすることで自分の絶対的な権力を誇示しようと、大工事を行いました。
その工事が始まったのは、歴史の資料では紀元前20年、すなわちイエス様が生まれる十数年前ということになります。
このときすでに神殿はヘロデによってきらびやかな建物として変貌し、巡礼の目的は物見遊山に変わりつつありました。
しかし建物が豪華になればなるほど、真実な礼拝はそこから消えていきます。それは二千年前も、現代も変わらない事実です。
ヨセフとマリヤが律法に従っていけにえをささげたことが、今日の聖書箇所では事細かに繰り返し記録されています。
それは裏から返してみれば、それだけ当時、多くのユダヤ人たちが律法を守っていなかったことを示しているのです。
2.
シメオンとアンナが日々見つめ、過ごしていた神殿は、そのような悲しき現状を抱えていました。
しかし聖書は私たちに呼びかけます。だからといって神殿を離れてはならない、ということを。
豪華な、しかしむなしい神殿が完成しても、イスラエルは慰められず、贖われもしなかった。
シメオンやアンナはそのことを嘆いていた正しい者たちの一人だった。だけど彼らは神殿を離れなかった。
私たちもかくありたいと願うのです。
教会が自分の求めている姿とは違っている、ということに気づいたならば、そこでなすべきことは何でしょうか。
牧師や役員のような誰かが変えてくれることではなく、自分が変えていくということです。
なぜなら、そこは○○牧師の教会ではなく、「私の教会」だからです。教会に不満を抱えている人は、この教会という言葉を繰り返します。
この教会には愛がない。この教会には交わりがない。この教会にはビジョンがない。
しかし教会員が自分の教会をこの教会という風に他人のように言い出したら、それは信仰生活の注意信号です。
欠けているところがあれば、そこを埋めるべきはだれでしょうか。自分以外の誰かに埋めてもらうのではありません。
自分の教会なのだから、神が自分自身をその欠けにあてはめてくださって、欠けを塞ぐことができるように、と祈るべきです。
繰り返しになりますが、シメオンとアンナの時代の神殿が、イエスが宮きよめをした頃と同じ醜い姿だったことは、歴史が証明していることです。
しかし彼らはそれでも神殿を見捨てはしませんでした。たとえ神殿が堕落しても、そこは確かに神がご自分の名を置かれた宮だからです。
そして神は、そのように神殿を見捨てなかったシメオンやアンナらに対して、イエス・キリストを目の前に現してくださったのです。
3.
シメオンは、聖霊に導かれて、イエスの両親であるヨセフとマリヤを祝福しました。
しかしそれは祝福とはとうてい言い難いことばでした。34節、35節をお読みします。
「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
このシメオンの言葉は、文字通り現実のもととなりました。
この30数年の後、マリヤはわが子イエスが十字架に釘で打たれ、わき腹を槍で刺し通される姿を見つめることになります。
しかしシメオンは言います。「それは多くの人の心の思いが現れるためです」と。
イエス・キリストの十字架は私たちの心をあぶり出します。
自分がもっとも誇りとしているもの、この世の快楽、人の愛、自分自身の能力、そういうものを第一として歩み続けるか、
それともイエス・キリストを何物にも代えられない存在として受け入れ、誇りを砕かれて歩むか。
この救い主キリストの前では中立という立場はありません。
みことばがその人に語られているとき、本人がそれを意識しているかしていないかに関わらず、いのちの選択を迫られているのです。
イエスを信じる者は、それまで自分が誇りにしていたものを心からえぐり取られるような痛みを経験します。
しかしその心の穴にイエスが入ってくださるとき、すべての重荷から解放されて、感謝と喜びが心に溢れます。
結.
私たちクリスチャンは、このイエス・キリストを信じています。
毎日聖書を開き、毎週こうして礼拝でみことばを聞くたびに、じつは私たちもマリヤのように、心を刺し貫かれる経験をしています。
自分の誇りが砕かれます。大事にしてきたものを剥ぎ取られるような経験もします。
しかしそれでも私たちがイエス・キリストに従いますと決断するならば、そこにはこの世が与えることのできない喜びによって溢れます。
一年間を振り返ってみて、それぞれの歩みはいかがだったでしょうか。
私たちが神に感謝と喜びをもって歩んでいけるよう、キリストは私たちのために命を捨ててくださいました。
新しい一年も、ただこのイエス様に従っていきたいと心から願います。
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