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2018.1.14「悔い改めて荒野へ出よ」(マタイ3:1-6)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
この冬は初雪こそ例年より早かったもののすぐに溶けてしまい、あとはクリスマスもお正月もほとんど雪が積もりませんでした。
生まれた時から新潟に住んでいますが、こんな雪のない年は初めてだなあと思っていたら、まさかの大寒波。
ふだんは雪が降らない新潟市の中心部では除雪が追いつかず、こんな年は別の意味ではじめてです。
それでも主日礼拝にはいつもと同じようにみなさんが集まってきました。ある人は雪だるまみたいな格好で来られました。
そんな信仰の猛者たちに「悔い改めよ」。これが仕事とはいえ心苦しい限りです。因果な商売ですな。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』3章1-6節 

序.
 昨年は、ルターの宗教改革からちょうど500年にあたり、世界中のキリスト教会で記念行事や講演会が行われました。
いわゆる宗教改革は、1517年にマルティン・ルターが、当時のカトリック教会による免罪符(贖宥状)の販売を告発したことに始まります。
免罪符は何かを語るためには、その前にカトリック教会で今日も採用されている、煉獄という教えを知らなければなりません。
それによると、たとえ人が救われても、死んですぐに天国に行けるわけではなく、天国の住民にふさわしく、完全にきよくされる必要があります。
そのために信者は死んだあと、天国でも地獄でもなく、煉獄という場所で、何百万年という長い長い時間を過ごします。
きよめの炎に焼かれながら、自分の罪を悔い改め、天国に入ることのできる救いを待つのです。
免罪符というのは、それを買うことによって、煉獄の期間が短縮されるというものでした。
マルティン・ルターは神学教授であり、カトリックの修道士でもありました。彼にとって、免罪符はとうてい受け入れることのできないものでした。
聖書は、私たちが救われるためには、罪を悔い改め、イエスを救い主と信じることを教えているのに、それを教会自身がカネで売りさばく。
ルターは教会が間違いを自覚して悔い改めることを願って、教会のトップ、ローマ教皇に向けて『95箇条の論題』という質問状を出しました。
ところがローマ教皇はルターを一方的に破門してしまいました。さらにルターはカトリックに属する王や諸侯から命も付け狙われます。
しかし逃亡中のルターのもとに協力者、支援者たちが続々と集まりました。やがてそこからプロテスタント教会が生まれるのです。

1.
 このできごとから教えられることは、宗教改革とは「悔い改めを巡る戦い」であったということです。
「煉獄」というのは私たちプロテスタントから見たらおかしいかもしれません。
しかし軽々しい批判は避けなければなりません。カトリックの教理においては、それは徹底した悔い改めの場所なのです。
この地上では、人は救われても罪を犯し続ける。煉獄という場所で、徹底的に悔い改めてようやく人は天国に凱旋することができる、と。
もちろん私たちプロテスタントは、キリストの十字架は私たちの過去現在未来すべての罪のさばきを完全に贖ったと信じています。
しかしそう信じる者たちが十字架の恵みのうえにあぐらをかき、内実のない悔い改めに陥ってしまっていることはないでしょうか。
ルターの改革は、悔い改めを迂回してカネで救いを売り買いしようとする免罪符を批判したところから始まりました。
ところがローマ教皇をはじめ、当時の教会の指導者たちは、悔い改めるどころか、ルターの告発を握りつぶしてしまったのです。
 カトリックであろうがプロテスタントであろうが、教会は常に「悔い改め」を忘れてはなりません。
教会をダメにするのは外からのサタンの攻撃ではなく、内からの現状維持の誘惑です。
そしていつの時代にも、教会の誕生、成長、そして変革はこの言葉から始まります。「悔い改めなさい、天の御国が近づいたから」。
これはバプテスマのヨハネの言葉ですが、やがて現れるイエス・キリストも、同じ言葉をもって宣教活動を始めました。
ルター、カルヴァン、内村鑑三、山室軍平、賀川豊彦、あらゆる神の人のメッセージもまた、決して変わりません。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」。それは神は愛なりと共に、福音の本質を指している言葉です。

2.
 バプテスマのヨハネは、荒野の真ん中で叫びました。「悔い改めよ」。
するとどうでしょうか、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人がヨハネのところに出て行った、とマタイは記録します。
ヨハネが人々のいるところに出向いていったのではなく、人々のほうが動き、荒野へと赴いていきました。
ここには、悔い改めの極めて大切な要素が象徴的に描かれています。すなわち、「悔い改め」にはいつも、明らかな行動が伴うのです。
「悔い改め」とは、心の中で後悔する、もうやめようと決意するという静かなものではありません。
自分だけの心の中で片付いて、自分の行動や生活パターンは変わらないのは、悔い改めとは呼べません。
聖書が書かれているギリシャ語では罪をハマルティアと言います。ハマルティアとは的外れということです。
情熱と力は十分でも、方向が的外れだから、神を喜ばせることが一切できない。それが罪です。
どれだけ周囲を傷つけても、どれだけ人生の貴重な時間を奪っても、同じ悪習慣から離れられない人々がいます。
そのエネルギーをもっと建設的な方向に向けたらすごいのに。それをしてくださるのが聖霊です。
私たちの心をとらえてくださる聖霊の内なる声に従い続けていくならば、的外れの罪を犯し続ける人生の方向が変わります。
心の方向だけではない、実際の生活の方向が変わられていくのです。
聖霊が私たちの心を突き刺して罪を自覚させます。罪にとどまろうとする誘惑へのうずきを内側から起こします。
しかし火付け役は聖霊でも、人の決断がなければ火は途中で消えてしまいます。その、人の決断こそ、悔い改めです。
「悔い改め」の反対語は「現状維持」です。現状維持とは、自分の生活を変えないで、このまま歩み続けようとする思いです。
それは、聖霊に導かれて、常にさっきまでの自分を壊して新しくされようと願う、悔い改めとは真っ向からぶつかります。
自分の心を見つめてください。神があなたに求めているだろう姿と、あなたの今の姿はどれくらい離れているでしょうか。
その違いから目をそむけないで、神に心を開くこと、それが罪を認めて自分を変えていただく、すなわち悔い改めなのです。

3.
 バプテスマのヨハネ、イエス・キリスト、そしてすべての神のしもべが語ることばは、悔い改めなさいというメッセージに集約されます。
なぜ悔い改める必要があるのでしょうか。それは、ヨハネが語っているように、神の国が近づいたからです。
神の国は、子どものように自分を低くする者でしか入ることはできません。自分を低くするとは、プライドを棄てることです。
たとえ何百万年も煉獄にて火で焼かれ続けても、もしプライドを棄てなければ、私たちは永遠に神の国に入ることはできません。
何も持っていない、何も誇るものはない、ただ父なる神のあわれみの中でしか生きられない。
それはこの世の感覚から言ったら屈辱の中に甘んじることです。しかし悔い改めとはそのように自分を棄てること。
人々が自分から荒野へ出むいて罪を悔い改めてバプテスマを受けたのは、自分を棄てるという決意を行動で表したのです。
 パウロは、生涯の最後の手紙の中で「私は罪人のかしらです」と書いています。
晩年に至るまで罪を悔い改めていたパウロは、晩年に至るまで神の愛と恵みにとどまり続けた人でもありました。
悔い改めという扉を開くとき、神に愛されている恵みをかみしめることができるからです。
天国にふさわしいように「きよくなる」とは「罪を犯さなくなる」とか「罪を意識しなくてもすむようになる」ということではないのです。
きよくなればなるほど、私たちは自分の罪に敏感になります。そしてますます自らが罪人であることを認めるようになります。
悔い改めなければ、赦しの具体的な確信は得られません。なんとなく救われているような気がする、というのは確信とは言わないのです。
赦しと悔い改めは、常に手を結んで歩みます。赦されれば赦されるほど、私たちは悔い改めます。悔い改めの喜びがわかるのです。
悔い改めから目をそむけないでいきましょう。神に赦された事実をかみしめて、自分自身の心を見つめましょう。

posted by 近 at 21:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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