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2018.2.4「終わらない物語」(ヨハネ2:1-11)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私が代務(兼牧)しております村上教会の新会堂は、フローリングの上に古いパイプ椅子を使用しています。
礼拝を開始してからまだ2ヶ月経っていないのですが、パイプ椅子の金属部分とフローリングがこすれて、早くも床の傷が目立ちます。
パイプ椅子に専用のゴムを取り付ければ傷を防げるのではないかと思い、空き時間を利用してネットを検索。
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 「イスが静かに.com」(何とわかりやすい)というサイトにたどりつきました。
 http://www.isu-shizuka.com/products/list.php?category_id=733
 しかし一脚分(4個)で780円(税抜)というのはちょっと高い。

もうちょっと出せば新品のパイプ椅子が買えるなあと思い、さらにだらだらとネットを漂っていると、なんということでしょう(加藤みどり風に)
オフィス家具業界ではまさに元教団理事長のマタオ先生レベル、「オカムラ」の椅子が激安で出品されているではありませんか。

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一脚1000円!出品者である長野では有名らしいリサイクルショップに連絡すると、在庫は残り16脚あるとのこと。
村上の当座の礼拝出席者数の目標には十分です。中古ということでやや不安を感じながらも大人買い。ええ、全部買いましたとも
小学生の頃、岩倉具視の500円札を握りしめて「うまい棒」50本を買った後、激しく後悔した記憶が一瞬よみがえりました。ごめんトモミ
それでも送料含め25,040円。すでに製造中止モデルですが、当時の一脚分の新品価格と同じくらいです。
この大寒波の中、S濃運輸が届けてくれました。S濃のドライバーさん、ネットではある意味有名ですが、実際はすごくフレンドリー。
状態も、金属脚にやや塗装のはがれはありますが、じゅうぶん実用レベル。16脚積み重ねても微動だにしません。さすがマタオオカムラ
ただお値打ち品に目が行ってしまい、フローリングに傷をつけないという本来の目的をすっかり忘れていました。
はっと我に返った放蕩息子の気分です。「今週の物欲」のコーナーでした。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』2章1-11節 

1.
 町を歩いていると、少し古いお店や家の外壁に、黒い板に白い文字で、聖書のことばが貼ってあるのを見ます。
たまに「神は愛なり」というのもありますが、だいたいは「罪の報いは死」とか「見よ世のさばきは近づいた」とかいった厳しい言葉です。
で、最後には「聖書」としか書いていません。私は子どもの頃にあれを見て、聖書というのはこんなこわい言葉ばかりなのかと思っていました。
ただ誤解を招かないように付け加えると、これらを行っているのは「聖書配布協力会」という聖書的な団体で、異端のたぐいではありません。
最後は「聖書」としか書いていない理由は文字数を減らすためだとは思いますが、じつは聖書にはもともと章や節はついていません。
章とか節が聖書に付け加えられたのは、教会2000年の歴史のうち、わずか四、五百年前のことにすぎません。
 「章」「節」というのは聖書を探すのに便利ですが、聖書というのは、本来「章」で区切れるものではありません。
このヨハネ福音書であれば、2章で話が切り替わるのではなくて、1章の最後から話が続いています。
1章の最後に語られていた、ナタナエルの物語は終わっていないどころか、このところでその約束の実現を垣間見させられるのです。
 区切りがないというのは、じつは聖書すべてで言えることです。
聖書の中にはひとつとして、前後と切り離されて独立している物語というのはありません。
どんな聖書の箇所であっても、このみことばが前のところからどう繋がっているのか、そして後のところへどう繋がっていくのか。
それを無視して、そこだけ切り離してしまうと、聖書が私たちに語ろうとしていることを誤って受け止めてしまうことになりかねません。
だから私を含めてすべての牧師が言いますが、クリスチャンは週一回の礼拝説教で終わらないで、自分でどんどん聖書を読んでいくべきです。
一週間に一回、せいぜい半ページくらいを礼拝で読んで説明されたくらいで、人間は変わりません。今日読んだことも、明日には忘れます。
求道者の方はともかく、クリスチャンは自分でどんどん聖書を読んでいって、山のかたちを覚えなければなりません。
山のかたちを覚えて、ようやく一本一本の木が見えてくる。木はみことばひとつひとつ、山は聖書全体です。
そしてその山が連なって、信仰生活、教会生活という山脈が見えてくる。そして私たちは確信をもってそこを登っていくのです。

2.
 ずいぶん前置きが長くなってしまいましたが、このカナはナタナエルが住んでいた町であることがヨハネ21:2からわかります。
そして1章の最後で、このカナ人ナタナエルにイエス様はこう言われました。
「まことにまことにあなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」。
で、そこから我々の聖書では2章になる。でも本来、2章という区切りはない。そして「それから三日目に」とカナの婚礼へと続くのです。
こうしてまたがった部分を一続きとして考えてみたらどうなるでしょうか。もしかしたら今までの読み方が変わるかもしれません。
イエス様が「あなたがたに告げます」、また「あなたがたはいまに見ます」と言われる「あなたがた」とはどの人びとでしょうか。
弟子たちではありません。ナタナエルを含めた、カナの町の人々です。
さらに、カナの町の人々に対して「あなたがたはいまに見ます」とあって、「それから三日後」と続いていく。
イエス様が言われた、御使いが人の子の上を上り下りするという奇跡は、もうその三日後に起こり、カナの人びとは神をあがめるのです。
しかし水をぶどう酒に変えることが、「御使いが人の子の上を上り下りする」ことになるのでしょうか。とてもそう繋がるとは思えません。
でもそれを繋ぐひとつの言葉が、「三日後」という象徴的な言葉です。
三日というのは、イエス様が十字架で死なれ、そして三日後に墓からよみがえるということを象徴することばです。
 ナタナエルがイエス様に従う決心をしたとき、ナタナエルの家族、親族含めて彼が生きているカナすべてにわたしは栄光を現そうと約束しました。それがこの水がぶどう酒に変わるという奇跡です。しかしそれは単なる奇跡ではありません。
イエス様が「わたしの時」と呼ばれた、十字架による救いそのものを前もって味わう、恵みの時となりました。
ではこのできごとは、私たち、ナタナエルの時代から二千年後の私たち現代人にとっては、どういう意味があるのでしょうか。

3.
 十字架と復活は、すべての人間を救う、驚くべき神のわざです。しかし救いを受け取るためには信仰が必要です。
このカナの奇跡は、やがて来たるべき、その十字架のみわざに対して、私たちがどのような信仰をもって受け止めていくべきなのかを示しています。母マリヤは、ぶどう酒がなくなったという求めをイエス様のところに持って来ました。私たちも人生の答えを神様のもとに持って来ます。
しかし一度は拒絶されるように見えます。しかしマリヤは「あの方の言うことを何でもしてあげてください」と、イエス様を信じ続けます。
救いというのは、求めない者には与えられません。
たとえクリスチャンホームに生まれて、母のお腹にいる頃から教会に来ていたという人でも、求めることがなければ救いのすばらしさはわかりません。
そして求めても、一度、あるいは二度、三度、神に拒まれたと思えるような、心の痛むことも経験します。
しかしそれが、イエス様の十字架を共に背負うためには外せない経験でもあります。
マリヤのようにあきらめず、ただ信頼し続けるならば、必ずイエス様はそのみ力とみことばをもって答えてくださいます。
 マリヤだけではありません。イエス様の不可解な命令に対して、ひたすら従っていく手伝いの者たち。
「水がめに水を満たしなさい」と言われれば、その言葉どおりに水がめをふちまでいっぱいにした姿が記録されています。
「世話役のところに持って行きなさい」と言われれば、「彼らは持っていった」と記録される、その信仰。
それらは、私たちがイエス様の十字架の救いを受け取るために持たなければならない信仰を教えています。
 ナタナエルもまた、神のみわざを今に見るというイエス様の約束を、それから三日目には同じ町の人々と共に経験するという恵みに与りました。
信仰は待ち望むことと言われます。しかしすでに神の御手は私たちに向けて伸ばされています。
家族の救いを待ちわびている者は、すでに神が家族の心を開いてくださるためのみわざをすでに備えておられることを信じましょう。
あるいは家族との愛の関係の破れに直面している人は、神がすべてを知っておられ、すでに脱出の道を備えてくださっていることを信じましょう。

結.
 マリヤの信仰、手伝いの者たちの信仰、そしてナタナエルの信仰。
ナタナエルの召命の続きとしてカナの婚礼が語られ、その続きとして、私たちの信仰生活があるのだとおぼえましょう。
今日の箇所は12節に続くのではなく、私たちの生活へと続くのです。「終わらない物語」とはそういうことです。
カナの婚礼が十字架を前もって味わう信仰だとすれば、私たちの信仰生活は、十字架を改めてイエスと共に背負う経験だと言えます。
ナタナエルは待ち続け、マリヤはあきらめず、手伝いの者たちはひたすら従う。三者三様の信仰の姿勢は、どれも大事です。
ひとり一人が、イエス・キリストの十字架を見上げて歩んでいく平安と喜びをおぼえていきましょう。
posted by 近 at 10:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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