披露宴の定番曲、チェリッシュの「てんとう虫のサンバ」。「森の小さな教会で結婚式を挙げました」という、そうアレです。

「森」を「村」と間違えている人が多いらしく、旧ブログ「村の小さな教会」はアクセス数だけは追い風でした。
ところが「豊栄の風」に変えてからアクセスが激減。「か、風が止まった・・・」(「ナウシカ」終盤の大ババ風に→)
しかしじつはこれも想定内。「村の小さな教会」。豊栄から村上に活動の場所を移して復活です。
春から来られる新任の先生がブログを引き継いでくださるかはわかりませんが、豊栄以上に村上も応援してください。

山頂にある村上城址まで777mは適当につけたのではなく、Google Mapなどを駆使して算出しています。
登山口までだいたい400m、山の高さがだいたい130mなので実距離をだいたい3倍として390m、若干の誤差を加えてだいたい777m。
だいたいばかりですね。興味のある方は実際に登って測ってみてください。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』5章1-11節
1.
この聖書箇所から「人生は出会いで決まる」というタイトルで、ある牧師の説教を聞いたことがあります。
神との出会いによって人生が変えられたクリスチャンたちの証しも交えた素晴らしい説教でしたが、ある点で違和感をおぼえました。
それは、まるでペテロがこのときイエス様に初めて出会ったかのような印象を与えている説教だったからです。
しかし新約聖書に含まれている、四つの福音書を並べてみると、ペテロたちはすでにこのとき、キリストの弟子として知られていました。
イエス様はまずペテロとアンデレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟、その他何人かの者を弟子として選びました。
そしてカペナウムの町を中心に、ガリラヤと呼ばれる地方をその弟子たちといっしょにまわりながら、神の国を宣べ伝えていました。
今日の聖書箇所は、時間で言えばその後にあたります。なぜか弟子たちはまた漁師に戻っているのです。
決して弟子の生活がいやになって漁師に戻っていたというような深読みをすべきではありません。
ただ、彼らは弟子として網を捨てたつもりではあっても、完全に捨てることができていなかった。
弟子としてイエス様に従いたいと願いながらも、家族のことを考えたときに、すべてをゆだねることができなかった。
同じような経験を、私たちもしているはずです。
確かに人生は出会いで決まります。しかしひとつの出会いで人生が変わるほど、私たちの人生は単純ではありません。
一つひとつの出会いを積み重ねて、人生は軌道修正されていきます。ペテロたちは、まさにそのような経験をしていたのです。
私たちがイエス様の弟子になるとは、どういうことでしょうか。現代で言えば、牧師や宣教師になるということが弟子という意味ではありません。
弟子とは、生活の中心をひたすらイエス・キリストに置く人々のことです。
これも現代で言えば、山奥にこもって自給自足の生活をせよということではありません。
今しているそのことは、イエス・キリストを喜ばせるためにしているかと問われたら躊躇なく、はいと答えられるならば、その人はキリストの弟子です。
ペテロたちはまだそうではありませんでした。魚が捕れないという状況の中で、彼らの関心はまだ家族の生活の上に残っていました。
しかしイエス様は一度弟子として召した者は、そのまま捨て置くということはありません。
イエス様との出会いを積み重ねながら、彼らは少しずつ、まことの弟子とされていくのです。そして私たちも。
2.
イエス様が大漁の奇跡を現したとき、ペテロは思わずこう叫びました。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」。
なぜ神への賛美よりも、己の罪深さが心に溢れたのでしょうか。半信半疑だった彼の心が責められたから、とある人は言います。
しかし半信半疑の心を責められたのは、彼がすでにイエス・キリストの弟子だったからにほかなりません。
彼の言葉だけではなく、彼の生活そのものが半信半疑でした。
すでにペテロはイエス・キリストから弟子として招かれていました。
さらにこの直前には、しゅうとめが熱を出して苦しんでいたとき、イエス様が熱そのものをしかりつけて、いやされるとうい奇跡も経験していました。
しかしそれなのに、なぜ今も網を洗っているのか。網を洗うのは次の漁でも使うためです。
彼は船も、網も、いずれイエス様のために役に立つと思っていたのかもしれません。
しかしイエス様は、私たちの所有物を求めているのではなく、さきに私たち自身を求めておられます。自身とは、心のことです。
弟子となりながらも心はイエス様に完全に向けられていなかった不徹底さを改めて気づかせられて、ペテロは自らの罪深さを叫びました。
私たちももし自らの心が刺されたならば、イエス様に自らの罪を叫びましょう。
悔い改めの涙をもってもう一度、それでもまた従えなかったら、もう一度、イエス様の十字架を目の前に置いて、歩んでいきましょう。
3.
しかしイエス様は、ペテロに優しく語りかけてくださいました。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとる漁師になるのです」と。
「これから後」という言葉には、神のあわれみが詰まっています。
自分の人生を振り返ってみたときに、いったい何ができたのか、いったい何が残るのか、そのあまりの少なさに戸惑います。
しかしイエス様の関心は、過ぎ去った一つひとつの日に向けられてはおりません。むしろ「これから後」という言葉に関心が向けられています。
このときペテロたちはすでに弟子として召されていました。それははなはだ不完全で、中途半端なものであったかもしれません。
しかしイエス様は過ぎ去った日はよい、しかし「これから後」と語られて、もう一度、すべてを捨ててわたしに従いなさい、と言われたのです。
今日はじめてイエス様のことばを聞いた人にも、今まで何十年もクリスチャンとして歩んできた人にも、イエス様は同じように語りかけています。
これから後、あなたは人間を○○するようになるのです、と。
○○には、あなたが今まで経験してきたものをすべて神のために生かすことのできる、あなただけの言葉が入ります。
イエス様は、あなたが今日まで何をしてきたかは問いません。しかしそれが何であろうと、必ず神のために生かすことを約束してくださいます。
一度イエス様に弟子として召されて、そして立ち止まることになっても、それでもよいのです。
そのたびに何度でも何度でも、イエス様は私たちの前に現れて、少しずつまことの弟子として成長させてくださいます。
大切なのは、掴んでいる網から一度手を離すこと。ペテロで言えば、網を捨てても漁師としての経験は消えません。
そして神様はすべてのことを働かせて、私たちをご自分の弟子にふさわしい者として練り上げ、みわざのために最大限に用いてくださいます。
もう一度、イエス様のことばを繰り返しましょう。神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすればすべてのものは与えられる。
家族のために生きている人は、まず神のために生きることを決意することです。そうすれば、神は家族を最もふさわしい形で生かしてくださいます。
神のことばに聞き、神のことばに従っていきましょう。