原稿では割愛しましたが、メッセージ本番では、弟子の覚悟を示すたとえの「塔・王・塩」は一種の記号であると付け加えました。
当時の聴衆にとって共通のイメージを想起させるキーワードを取り上げることで、イエス様は弟子道を示された。
それは「戦争」である、と。塔とは、砦または櫓を表し、そして塩は兵士の給料でした。
塩については、受験用の『ライトハウス英和辞典』(30年使い続けています^^;)の「salary(給料)」の項でもこう書いてあります。
ラテン語で「塩を買うための金」の意;古代ローマ時代には兵士たちに給料として支払われたもの;salt(塩)と同語源.ちなみに日本で塩が政府の専売とされたのは1905年、日露戦争の莫大な戦費調達のためだったそうです。
塔の建設、隣国との戦争、塩といった言葉を通して、イエスの背後を歩んでいた有象無象の者たちでさえ戦争を想起したことでしょう。
戦争はいけません。しかし弟子道はまさに十字架に繋がる戦いであるということを主が伝えようとしたのであれば。
私たちイエス・キリストを信じた者にはどれだけの節制と忍耐が必要かと思わされます。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』14章25-35節
序.
「弟子の覚悟をもって」は、今年度の牧会目標として、年の初めから私の中で示されてきたテーマです。
イエス・キリストに心から従う者のことを弟子といいます。そして弟子には犠牲が求められます。
たしかにイエス様のところには数多くの人々が集まっていました。
しかし彼らのほとんどは弟子ではありません。自ら犠牲を払うことなどない、ただの群衆です。
ある者はイエス様が起こしてきた奇跡に惹きつけられました。他の者はイエス様にについてくればパンや食料が与えられると考えていました。
また別の者たちは、イエス様こそ、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放し、ダビデ王家を再興してくださる方だと信じていました。
しかしイエス様の目的は、奇跡を起こして世の注目を集めることでも、人々にパンを与えて生活の安全を保証することでもありません。
ましてやローマ帝国を打ち倒してご自分の国を地上に建設することでもありません。では何のために。
言うまでもなく、神の子が全人類の罪のさばきの身代わりとなって十字架の上で死なれるという目的のために都へと向かっていたのです。
1.
イエス様のまことの目的も知らずにただ人数だけ膨れ上がった行列は、イエス様が向かおうとしている戦いにはふさわしくありません。
そこでイエス様は、ご自分のこれからの言葉に従う者だけを選別するために、あえて人々にとってつまずきとなることばを語りました。
そのことばに従うことのできない者は離れるに任せ、本当に犠牲を払ってついてくる、まことの弟子だけをイエスは選別されました。
それが26節から始まる、極めて厳しいことばです。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」。ここで語られる「憎む」という言葉。極めて激しい言葉です。これは「優先順位を指している」という説明をよく聞くことがあります。
文字通り、憎むのではない。神様を最優先にして、家族や自分やその他は、それがどんなに大切であろうと、神よりも下に置きなさい、と。
もし本当にそうであれば、どれだけ楽でしょうか。しかしイエス様が実際に語られた言葉は、そうは教えていません。
ここで「憎む」と訳された言葉は、聖書のどの箇所を開いても、「憎む」以外には訳されていません。他に訳しようがないのです。
この「憎む」と訳される言葉は、新約聖書に40回出て来ます。
それを全部紹介することはできませんが、「敵を憎めとあなたがたは聞いている」、「わたしの名のゆえにすべての人に憎まれる」、
「世の終わりには、人々は互いに憎しみ合い」・・・優先順位といったように、ぼかしようがない、極めてはっきりとした言葉です。
父、母、妻、子、兄弟、姉妹、・・・
自分の命以上に愛してやまなかった者たちを、私たちはイエス・キリストを信じた途端、一転して唾棄するほどに憎まなければならない。
あまりにも極端、あまりにも困難。しかしキリストは、ご自分の弟子たちにそこまでの徹底を求めています。
だれがいったいこの方についていくことができるのか。たとえイエス様のすぐ近くで生活を共にした十二弟子であっても、困難、いや不可能です。
しかし不可能と認めるところから、私たちがまことの弟子となる道は始まります。まことの弟子とは、神以外に一切の期待や満足を捨てた者。
だれかが何とかしてくれるとか、自分で何とかできるという希望を捨てて、何もできないという徹底的な絶望を味わった者たち。
もしそれでもそこに光が残っているとすれば、ただイエス・キリストが私をあわれんでくださるという一点にただすがるしかありません。
自分の十字架とは、まさに無力さそのものです。手も足も十字架に釘打たれて、指一本動かすこともできないような己の無力さ。
その中で私たちはすぐ前を歩いておられる、十字架を背負い歩んでいるイエス・キリストを見上げます。
2.
信仰生活は、晴れがましい経験ばかりではありません。むしろ十字架を背負い、傷だらけになりながら、一歩また一歩と主に従う歩みです。
もし信仰生活がここまでに厳しいものであれば、イエスを信じる者などいるわけがいないではないか、と思う人がいるかもしれません。
だからイエス様は、「救いに至る道は狭く、滅びに至る門は狭い」と確かに言われました。
「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」とも言われました。
この驚くべき厳しさを、現代の教会はあえてぼかします。なぜなら言葉通りに受け止めていたら、信じる者などだれもいません。
しかし忘れてはならないのは、「わたしのもとに来て」ということばです。ただ親や兄弟を憎みなさい、と言われているのではありません。
「わたしのもとに来たにもかかわらず、親、妻、子どもたち、兄弟、自分のいのちを憎まない者は」と言われています。
「わたしのもとに来て」ということばは、その次の「自分の十字架を背負わない者は」というくだりにも繋がっています。
確かにまことの弟子として、イエス様に従う道は厳しい。いや、不可能といっても良いほどです。
しかしイエス様のもとに来るとき、私たちは自分のそれまでの人生で経験したことのなかった平安を経験します。
それは、人間の浅はかな人生設計など、この方が私に用意しておられる計画の前では到底空しく思われる、圧倒的な安心感。
このイエス・キリストに出会うために、私の人生のあらゆることが組み合わされていたのだ、どんな苦しみも喜びに変わります。
それを味わっていながらも、まだキリストと、今まで大事にしてきたものを天秤にかけているならば、そのような者は弟子にふさわしくありません。
「優先順位」という言葉は、私たちが与えられている福音の醍醐味を薄めさせてしまう危険があります。
それは神が与える恵みと、人や物から与えられる喜びとを天秤にかけることだからです。
天秤にかけたあげく、「やはり私の優先順位はイエス・キリストです」と言ったところで、どうなのでしょう?
その天秤にかけて選ぶという行為自体が、キリストが語られた「憎む」という言葉からほど遠いものです。
キリストのもとに来て神の愛の深さを味わったならば、天秤にかけるまでもなく、はじめから選び取るものは決まっています。
もしそれをいまだに味わったことがないならば、その人はヤコブの手紙を読んでごらんなさい。
「その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」。
3.
しかし神と人とを天秤にかけて選ぶことがまことの弟子にふさわしくないとすれば、今日の二つのたとえは何を示しているのでしょうか。
28節、「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか」。31節、「また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか」。
ここでイエス様が言われているのは、神と人とを天秤にかけて計算して選択せよ、ではありません。
神のみわざのためにおのれの持っているものを総動員して戦いに臨め、ということです。
戦い、そう、戦いです。まことの弟子として生きるのはまさに戦いです。イエス様は、戦争を問題解決の手段として認めませんでした。
しかし弟子の覚悟は、霊的な意味では、戦争に臨む者の覚悟に比べられるものだということを、このたとえから私たちに示しておられるのです。
弟子となることは強制ではありません。そして救われたらもう完成された弟子だということでもありません。
パウロはコリント教会への最初の手紙の中で、驚くべきことに「弟子になり得なかった弟子」について触れています。
すべてを火が焼き尽くすさばきの日、信者それぞれがキリストという土台に建ててきたものも審判を受けます。
金、銀、宝石で建てたものは残るが、木、草、わらで建てたものはすべて焼けてしまう。しかしその人は火の中をくぐるように助かる、と。
これは、確かに救いが保証されてはいても、まことの弟子とそうでない弟子がいることを示しています。
でも私たちは、どちらを求めますか。救われて永遠の命にはいることは約束されているのだから、後は野となれ山となれでは残念すぎます。
せっかくイエス様が命を捨てて与えてくださった命に報いるために、私たちもすべてを捨ててまことの弟子となることを。
たとえどれだけの時間と犠牲を費やしても、まことの弟子として歩んでいきたい、と心から願います。
私たちの教会も、牧会者である私も、ひとり一人の信徒も、まだ道半ばで不完全な弟子かもしれません。
しかしだからこそキリスト以外の者を憎み、自分の十字架を背負ってまことの弟子となるという、上からの決意を聖霊様が与えてくださるように。
キリスト以外のすべてを憎むということばに、どうか有象無象の群衆のように、つまずかないでください。
そこまでの決意をもって神を愛する者は、憎んだすべてのものをもっとも良き形で取り戻すことを、イエス様は別の箇所で語っておられます。
まことの弟子としての覚悟をもって、ただ主イエス・キリストだけに従っていきましょう。