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2018.2.25「人が作った神か、人を造った神か」(イザヤ44:9-22)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
「礼拝説教は毎週、伝道メッセージ」という教会もありますが、私の知る限りでは「伝道メッセージは月一回」というところが多いようです。
もちろん毎回の説教の中にも求道者の方に向けた伝道的要素は盛り込みますが、未信者に特化したメッセージは月一回、ということです。
 同盟教団の統計から分析すると、礼拝に出席している信徒のうち祈祷会にも出席している方は、どこも全体の3割前後のようです。
つまり逆から言えば、信徒の7割はもっぱら礼拝説教だけでしか養われていないという過酷な現実があります。
そのために牧師は当然、祈祷会へ出席してそこでみことばを学ぶこと、また家庭礼拝やディボーションの確立を呼びかけます。
そして7割の信徒にとって生命線となる礼拝説教は、求道者よりも信徒を訓練することが主なテーマとなるのは自然なことです。
 しかしそうなると求道者の方にとって礼拝説教は難しいということもあり、多くの教会で月一回は「伝道礼拝」を行っています。
豊栄でも普段は信徒向けの説教、第4週だけ「伝道礼拝」と名づけて「未信者の家族、友人を積極的に誘いましょう」と呼びかけていました。
しかし元教団理事長、岡村又男先生があるところでこんな趣旨のことを語っておられました。
「およそ伝道的でない礼拝はない・・・信徒が集まり礼拝をささげる姿そのものが伝道なのだ。」
なるほど。さすがマタオ(敬称略)。礼拝のアタマにあえて「伝道」とか付け加える必要はないってことっスね。
 ということで数年前、「伝道礼拝」を「賛美礼拝」と改称し、その週は讃美歌・聖歌ではなく青年会主導でワーシップソングを導入しました。
ところが今度は「賛美礼拝というネーミングだと、ふだんは賛美していないのかということになる」という容赦ないツッコミが。
そこで現在は「求道者歓迎礼拝」と呼んでいます。が、「ふだんは求道者を歓迎していないのか」とツッコまれないか心配です。
そんなわけで今回は伝道メッセージでした。でも読み返してみると終盤、キリストの滋味が欠けていました。何年経っても訓練が必要ですね。
週報はこちらです。

聖書箇所 『イザヤ書』44章9-22節 

1.
 私の卒業した小学校、平成の大合併でもう廃校になりましたが、
校門から正面玄関まで、細い道が100mくらい続いていて、道の両脇にあるお店に囲まれているような作りになっていました。
その店のひとつに、なんたら石材店というのがあって、学校から帰るときに、オヤジが一生懸命石を削っている様子などが見えました。
そのオヤジも飲んでいないときにはとても気のいい人でして、よくきらきらした石材のかけらなんかを私たちにくれたものです。
ある日、その店の前に1mくらいの石造りの観音像が飾られていました。
子どもの目から見てもよくできていましたが、2階の教室からはその店の裏庭が丸見えで、そこには失敗した観音様がいくつも転がっていました。
子供心に感じたのは、オヤジのノミの当て方ひとつで、石が仏像にもなればごみにもなるんだなということでした。
でもその鍵を握っている当のオヤジは、どう見ても石に魂を宿すことのできるような人には見えませんでした。
 今のは40年も前の私の経験ですが、約2700年前、すでに預言者イザヤはこう語っています。
だれがなんの役にも立たない偶像を造るのか。腹がへれば力が衰え、水を飲まなければ疲れはててしまう鉄細工人がつくり、彫刻師は線を引き、鉛筆で輪郭をとり、カンナで削り、コンパスでえがき、人の形につくり、家の中に安置する。人は木の一部をとってたき木として身を暖め、「ああ、あたたまった、熱くなった」といい、またパンを焼き、肉を煮て食べ、その残りで神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って「あなたは私の神だ、わたしを救え」と言う。
 ある人たちはこういうでしょう。仏壇メーカーの職人たちがどんな人でも、霊験あらたかなお坊さんが魂を入れるから、ご利益がある、と。
しかしそもそも、木や石や金属に魂が入るでしょうか。
どの教会にも、会堂の壁には木や金属の十字架がかかっていますが、その十字架の中にイエス様がおられると聞いたことがありません。
神は木や石や金属には宿りません。物質に魂が宿る例はただひとつ、人間の中に神が住んでくださることだけです。
もし私たちがまことの神を知りたいのであれば、位牌、仏壇、仏像、神木、物質に過ぎないものに神や仏や魂が宿るということの過ちに、
そしてありがたくこれを拝んでもそれはまことの神様を悲しませるだけだということに気づかなければなりません。

2.
 しかし、人間はなぜ木や石や鉄でわざわざ像を刻み、それを拝もうとするのでしょうか。
じつはそれこそが、人間が動物から進化したものではなく、まことの神様によって作られたものなのだという証拠でもあります。
食欲や性欲は、原始的な動物の中もあります。子どもを愛したい、仲間と触れ合いたいという欲求は、知能の高い動物も持っています。
しかし自分を越えた存在を礼拝したいという欲求は、ただ人間にしかありません。
進化論で一番人間に近い猿やチンパンジーは、群のボスは恐れかしずいても、木の皮や切れはしに神を刻んで拝むということはありません。
人間以外の動物には、礼拝心をうかがわせる兆し、かけらさえありません。
礼拝心は、人間が進化によってここまで来た生物ではなく、人間は神によって造られたものなのだということをはっきりと示しています。
 旧約聖書の『創世記』には、人間は神のかたちに似せて作られた、と書かれています。
神は肉体を持っていない、永遠無限の霊的存在であるのに、なぜ有限な肉体を持つ人間が神のかたちと言われるのでしょうか。
それは、私たちの心には、ほかの被造物には決して存在しない、礼拝心というものがあることを意味しています。
礼拝心こそ、人間が神に作られた証しです。
しかし同時に聖書はこうも書いています。最初の人間アダムとエバが罪を犯し、堕落してしまった。
だからすべての人間は、先祖の罪を引き継いでいるがゆえに、生まれながら罪人である、と。
 そして人間の罪は、まことの神を見えなくしてしまっています。
神を礼拝したいという思いはあっても、罪のゆえに神がわからず、しかたなく自分で神をつくって、それを拝んで満足しようとします。
ある者は木や石や金属で像をつくり、それを拝みます。ある者は白い動物や、樹齢千年の古木や、まん丸い石にしめ縄を張って神にします。
ある者は自分の家族や先祖を仏すなわち神になったとして、一生懸命供養します。
またある者は、富や名声、美しい人、はては何とか主義といった人間が作った考えを神のようにあがめます。
しかしそれによって心の底から満足して死んでいったという人はひとりもいません。
どんなに力を尽くして先祖を拝み、像を拝み、イデオロギーに人生を費やしても、心にほんとうの平安が訪れることがないのです。
どうしたら私たちは、いつも心によぎる不安から解放されて、人生を心から楽しむことができるのでしょうか。

3.
 日本には八百万と書いてやおよろずと読む、数え切れないほどの神がいます。
日本の数倍の人口を持つインドには、国民の数と同じかそれ以上の、数億の神がいるそうです。
地球上のすべての神と呼ばれるものを合計したら、きっと80億の人間よりももっと多い神々がまつられていることでしょう。
悪く言えば人間の愚かさ、しかし見方を変えてみれば、それほどまでに人間が本当の神様を求めている証拠でもあります。
どんな人間も、信じるものがなければ生きていけません。心に完全な平安を持ちたいからこそ、様々な神を作り出します。
しかし決して満足することはできません。人間が作り出した神や仏は、たとえ手が千本ついていたとしても、人を救うことができないからです。
人が作ったものに、人は救えません。本当に人を救うことができるのは、人間を造ってくださった方、
つまり目に見えないが確かに生きておられる、永遠無限の、まことの神様だけなのです。
 ではまことの神様に、私たちはどこへ行けば出会うことができるのでしょうか。
どこへ行く必要もありません。なぜなら、まことの神様の方から、私たちのところへ来てくださったからです。
その方こそ、二千年前にユダヤのベツレヘムにお生まれになった、イエス・キリストです。
その時代の多くの人々が、この方をまことの神様と信じることができずに、永遠のいのちを受け取る機会を失いました。
そして今日も多くの人が自分で作ったか、先祖から引き継いできた偽りの神を信じることをやめず、永遠のいのちを受け取らずに終わっています。
かつての私もそうでした。小学生の頃には冒頭のような経験をしていても、あいも変わらず仏壇や先祖の墓を拝み続けました。
中学時代には恋愛至上主義や己の可能性を神のように拝みました。本当に神を信じたのは夢も恋も破れた高校時代でした。
イエス・キリストが私の罪のさばきをすべて引き受けてくださったがゆえに、私はもはや何も恐れることはないという確信をいただくことができました。人間、そして人間が作ったものを拝み、依存する生活には、決して平安がありません。
しかしまことの神が人となってくださったイエス・キリストを信じる者には完全な平安が与えられます。
たとえどんな荒波が人生のこれからに待ち受けていたとしても、神が私たちの味方であるならば、いったい何を恐れる必要があるでしょうか。
このイエス・キリストを心の中に受け入れましょう。私たちの罪はすべて赦され、決して死後のさばきに会うことがありません。
今日死を迎えても後悔の一切ない、新しい生き方です。
今までの人生が苦しみの連続でも、これから永遠に続くいのちとは比べようもない、と確信できる、ほんとうに幸いな人生が始まります。
ともに祈りましょう。

posted by 近 at 09:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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