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2018.3.4「逃げるは恥への逆戻り」(ルカ8:40-48)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教タイトル、しばらく前に「恋ダンス」で一世を風靡した『逃げるは恥だが役に立つ』(逃げ恥)のパクリオマージュです。
といっても、ドラマも原作も一回も見たことはないんですけどね。私にとってガッキーは永遠に新垣勉です。オ〜ソ〜レミ〜ヨ〜

 それはさておき、村上教会はいよいよ後任牧師、確定です。双方の教会総会で承認されました。今週もう荷物が届きます。
とはいえ理事会の最終承認、3月下旬の教団総会での人事発表までは名前を出せませんが、お祈りいただきありがとうございました。
1年9ヶ月の代務(兼牧)、あっという間でしたが、たくさんのことを学ばせていただきました。会堂建築で寿命が十年縮まったわ
献堂式はガッキー(ツトムのほうね)を呼びたいところですが、建築費で積立を使い果たしてしまい、お金が足りません。
でも新しい先生はテノールこそガッキーに及びませんが、クラリネットの腕前はなかなかですよ。あれ、これでバレちゃったかな。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』8章40-48節 

1.
 今日の聖書箇所は、イエス様に近づいたふたりの人物が登場します。
ひとりは会堂管理者ヤイロ、そしてもうひとりは12年の間長血をわずらっていた女性です。
まことに対照的な二人です。ヤイロは社会的地位の高い会堂管理者でしたが、この女性はその病気ゆえに社会から隔離されていました。
ヤイロは娘が生まれてから12年間、父親として最も幸福な期間を過ごしましたが、この女性はその12年間、長血で苦しみ続けました。
ヤイロは正面からイエス様の足もとにひれ伏しましたが、女性は後ろからイエス様の背後に近づき、着物のふさにさわりました。
しかしここまで対照的なふたりですが、ひとつ共通しているのは、苦しみの中でひたすらイエス様に助けを求めた、ということです。
今日はこのふたりのうち、長血の女性の姿を学んでいきたいと願います。人生を変えるのに必要なのは、時間でもお金でもありません。
イエス様だけが私を助けることのできるという信仰に裏打ちされた、心からの叫び、ただ一つです。

 長血の病というのは、血の漏出が止まらない、一種の婦人病です。しかし苦しみは、その痛みそのものではありません。
旧約聖書の教えでは、長血の病にかかった女性は汚れているとみなされました。
彼女に触れる人はみな汚れ、人前に出ること、公の礼拝に加わることも許されませんでした。
この病にかかった者は、神から切り離され、のろわれた者とみなされる、そんな病であったのです。
しかし彼女は、危険を冒して群衆の中に紛れ込みました。ただ、イエス様に触る、そのことだけのために。
それは命がけです。もし誰かに自分のことを気づかれたならば、いったいどのような罰を受けるかわかりません。
医者からも見放された私。社会からも隔離された私。公の礼拝からも締め出された私。
だがそんな私でも、イエス様の着物に触ることでもできれば、きっと直る。救われる。解放される。

 彼女は、確かな信仰を持っていました。だからこそイエス様も、この後で「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。
しかし、着物にでも触れれば、という、一念岩をも通すという信仰も、その陰には保険のような態度が隠れていることを無視できません。
後ろに近寄って着物のふさにそっと触ったのは、どうしてでしょうか。47節のことばがすべてを物語っています。
「女は、隠しきれないと知って」。隠そうとするのは後ろめたさがあったからでした。
イエス様を含め、もし誰かにとがめられそうになったときにはいつでも逃げることができるために、後ろからさわったのです。

2.
 信仰者といえども、人間の心はふたつのものが同居しています。
ひとつの目的のためなら命を賭けて、いくらでも大胆になる部分と、一方でいつでも逃げられるようにしておくという安全策をとる部分が。
それは二心の態度であって信仰ではないと言われるでしょうか。
しかし私たちは完全主義者になる必要はありません。
たとえ二心であっても、イエス様に向かって一歩ふみだすことに意味があります。
そのあとの軌道修正は神様がしてくださいます。
この女性が、いざというときの逃げ道を用意しても、イエス様にさわったのが着物にでも触れればきっと治るという信仰から出たことは確かです。
信仰をもって神の恵みの座に近づくならば、それがだれであろうと神は決して拒むことはありません。
だからイエス様と顔を合わせることなく、イエス様がこの女性が誰かもわからずに、確かにいやしが起きたという珍しいことが起こりました。
しかしイエス様は、それだけで終わりたくなかったのです。当時のひとびとにとって、救いとはいやしでした。いやし以上の救いを知らないのです。
キリストはいやし以上のものを彼女に与えようとされました。それはいやしというこの世かぎりのものではなく、永遠のいのちです。
永遠のいのちは、永遠に続く、神との親しい交わりと言うこともできます。そしてそれは、イエス様の前に出て行くことから始まります。
病気だけいやされても、救いではありません。病のいやしは、そこからたましいの救いにたどり着かなければ、結局意味はありません。

 イエス様は、彼女がさらなる信仰の高嶺へとよじ登ることを願っておられました。
病気がいやされて満足するのではなく、さらにたましいの救いを得るために。
イエス様に対して匿名希望では、本当の救いをいただくことはできません。
群衆にまぎれて、遠くからイエス様を眺めているだけでは、本当の恵みの雨を浴びることはできません。
イエス様とつかず離れずの関係であり続けてはなりません。
イエス様の前に、自分のすべてをさらけ出す思いをもって正面から近づくなら、決してイエス様があなたを拒まれることはありません。
イエス様はあなたが正面から恵みの座に近づくことを待っておられます。
そして彼女は、「隠しきれないと思って」という消極的な理由であったとしても、それでも確かにイエス様の前に出て来ました。
ましてや私たちが仕方なくではなく、自ら主の御前に出るならば、イエス様は必ず私たちを、その着物のすそで優しく包んでくださいます。

3.
イエス様の前に出たとき、この女性は本当の救いを得ました。
彼女が見上げたイエス様の瞳は、なんと優しい光をたたえていたことでしょうか。
そして彼女の心には、イエス様の内なる声が聞こえてきたはずです。

「あなたは確かにいやされた、しかしたとえ病はいやされても、あなたの失われた12年間は決して戻ってこない。
人々から疎まれ、礼拝からも締め出されてきた、その心の傷口は塞がれない。
しかしあなたが今、心のすべてを私に打ち明けるなら、あなたの12年間はすべて意味あるものとして戻ってくる。
今日の出会いのために過去12年間の痛みがあったということを。そして永遠のいのちのために、今日の出会いがあるということを。」

 聖書は記録しています。この女性が「御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した」。
その告白に対して、イエス様は優しく声をかけられました。「娘よ」と。
長血の病は、婦人病ですから、彼女はもはや娘と呼べるような年齢ではなかったはずです。
しかしこの日の彼女にとって、娘という呼びかけはなんとふさわしいことでしょうか。
12年間の苦痛の日々さえが愛おしく思えるほどに、空は青く晴れ渡り、喜びが心に満ちてくる。彼女は圧倒的な解放感を経験しました。
それは私たち、イエス・キリストを信じる者たちに与えられると約束しています。
いまそれを見失っているとしたら、後ろからではなく、イエス様と顔と顔を合わせて近づいていくならば、取り戻すことができます。
 イエス・キリストは失われた羊を夜通し捜される羊飼い、病に苦しむ娘を捜し回っていた父のようなお方です。
そして私たちが病のいやしにとどまらず、本当の救いを受け取ることを望んでおられます。
今、主の前に心を開きましょう。どんな小さな信仰でも、神は受け入れてくださいます。
ひとり一人が、いま恵みの御座に近づいていきましょう。

posted by 近 at 22:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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