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2018.3.11「信じ続けること」(ルカ8:40-42,49-56)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
もうあと一回になりましたが、今年度は二週間に一回、村上教会の奉仕がある日は教会に泊まって月曜日に帰ってきていました。
年内はよかったのですが、1〜2月はとにかく大雪。一晩泊まっただけで車が埋もれているということもざらでした。
しかし2月も終わりになり、ようやく春の気配。教会の玄関から見える光景を撮影する余裕も出てきました。
狙って撮ったわけではないのですが、たまたまアングルが定点観測みたいになったのでご紹介します。
DSC01157.jpgDSC01172.jpg
左が2/25(日)、右が二週間後の3/11(日)。2月末の雪景色の方が、陽光が差していて明るい感じがします。
いよいよ4月からは、主任牧師を迎えての本格的なスタートです。お祈りください。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』8章40-42,49-56節 

1.
 41節、「するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである」。
ここで私たちが忘れてはならないのは、ヤイロにとってイエス・キリストに助けを求めることは文字通り命がけの行為であった、ということです。
ヤイロは会堂管理者でありました。
そしていわばこのとき、ヤイロの上司にあたるエルサレムの祭司長や律法学者たちはイエスを危険人物と見なしていました。
ヤイロがイエスに助けを求めた姿は、すぐに数百キロ離れたエルサレムにまで伝えられるでしょう。
そしてそれによってヤイロが地位、財産、人間関係、多くのものを失うことになるのは間違いありません。
しかし彼にとって、娘の命はそれらすべてをかき集めても足りない、かけがえのないものでした。
そのために彼は人々が注視する中、人波をかきわけてイエスの前に出てきたのです。どうか私の娘を助けてください、と。

 長血の女性の信仰も確かにすばらしいものでした。しかし彼女には逃げ道がありました。
イエスの着物にさわり、そのまま人波に紛れて何事もなかったかのようにその場を去ることができました。
しかしヤイロはそうではない。彼は自分の逃げ道を自ら塞いでイエスのもとにやって来ました。
娘がいやされても、いやされなくても、彼の取った行動はエルサレムの祭司長たちの怒りを買うでしょう。
しかしそれでも彼はイエスの足もとにひれ伏した。ここに、すべての人にも当てはまる真理があります。
もしイエス・キリストの救いを得たいと思うなら、安全なところに隠れたままではならない、イエスの前に出てこなければならないのです。
長血の女性も、イエスの前に出て、真実を打ち明けたときに、病だけでなくたましいの救いをも得ました。
ヤイロもまた、イエスの前にひれ伏し、自分のすべてを明らかにしたところから救いの道が開けていったのです。
もしあなたがイエス・キリストから永遠のいのちを受け取りたいのなら、まず立ち上がらなければなりません。

2.
 ヤイロにとって、ことは一刻を争うものでした。彼は言います。私の小さな娘が死にかけております、と。
イエスの手をつかんで、彼は家まで駆け出そうとします。しかし群衆はヤイロとイエス様の周りを壁のように塞ぎました。
さらにキリストが突然立ち止まり、自分に触ったのは誰ですかと訳のわからないことで足を止めてしまう。
さらには一人の女性が人波から現れて、身の上話を始めてしまう。本来は感動的な場面であっても、今のヤイロにとっては、邪魔なだけです。
やがてあまりにも残酷な知らせが届きました。イエスがまだ話しておられるとき、家から人がやって来てヤイロにこう告げました。
「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません」と。
 ヤイロは目の前が真っ暗になったことでしょう。もう群衆も、長血の女性も、イエス・キリストも見えません。
愛する者を永遠に失ってしまった、闇だけが彼の前に広がります。しかしその時、闇の向こうから一つの声が聞こえました。
「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります」。
この「ただ信じなさい」を直訳すると、「ひたすら信じ続けなさい」という意味になります。イエス様は言われるのです。
ヤイロよ、ひたすら信じ続けよ、と。犠牲を恐れずに私の前に出てきた、あの信仰を忘れるな。
あなたの目の前で完全にいやされた女性の信仰から目を離すな。そして私が死から命を取り戻すことのできる者であることを疑うな。
 ある意味、「信じる」ことは簡単です。「信じる」ことにかけては、日本人ほど長けた民族はいないでしょう。鰯の頭でも何でも信じます。
しかし「信じ続ける」ことは決して容易ではありません。
ある宗教を信じて、しばらく通ってみたが効果がなかったから、また別の宗教に鞍替えする。それを信じ続けるとは言いません。
「信じ続ける」というのは、その信じたものに留まり続けることです。しかしこれほど難しいことはない。
結婚生活で言えば、もうこの人しかあり得ない、と信じて結婚しても、二、三年もすれば、もうこの人との生活はあり得ない、となりがちです。
 イエス様との関係で「信じ続ける」を学ぶために、夫婦の関係で「信じ続ける」秘訣は何かということを考えてみることは役に立ちます。
結婚生活のバロメーターは、コミュニケーションがどれだけかということで測られます。
仲の良い夫婦はおしどり夫婦と言われますが、実際のおしどりはただメスがオスについていくだけで、コミュニケーションはありません。
本当のおしどり夫婦になりたいのであれば、ことばを交わさなければなりません。
もちろんただ何かを言えばいいということではなく、話題も選ぶ必要があります。
夫婦の例をイエス・キリストへの信仰に適用しましょう。
毎日の生活の中で、キリストと顔と顔を合わせる思いをもって、みことばを受け取り、祈りに自分のことばを載せていくことが必要です。
キリストは、ヤイロと使いの者のやりとりをそばで聞いておられました。そしてヤイロに最も必要な励ましの言葉を与えてくださいました。
キリストは、あなたの苦しみを知っておられ、見つめておられる。そしてそこで最も必要な励まし、慰めの言葉を与えてくださる。
それを今生きている私たちは、聖書を通して受け取るのです。

3.
 ヤイロの家に着いたイエス・キリストは、まわりに向かって宣言されました。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです」。
今まで子どもの死を悼み、悲しみ嘆いていた場所が一転して、敵意と嘲りを含んだ笑い声に覆われました。
困惑するヤイロは、しかしこのとき、キリストの語りかけを心の内に感じたのです。
「人々は私をあざ笑っている。しかしヤイロよ、それでもあなたは私を信じるか。信じ続けるか」。
私たちがキリストを信じるとき、人々からののしられ、嘲られ、家族からも理解されないことも起こります。
イエスを信じることは殺されることをも意味する国や時代もあります。
しかしそれでもイエス・キリストを信じ続ける者は最後には勝利を得ると聖書は約束しています。
ヤイロは信じました。いや、信じ続けました。イエス・キリストが死をも支配されているお方であるということを。
そしてイエス・キリストは娘の手を取って、叫びました。「子どもよ。起きなさい」と。
そしてヤイロは奇跡を見ました。そして知ったのです。キリストを信じ続ける者は、必ず勝利を得るということを。
 12年間、長血の女性を苦しめ続けていた病を解決したお方は、ヤイロの娘を奪おうとしていた死に対しても完全に勝利されました。
ヤイロは、このイエス・キリストを信じ続けたがゆえに、ふたたび食事する娘の姿を見ることができました。
キリストを信じればどんな病や死を経験することがなくなるということではありません。
しかし、キリストを信じる、いや、信じ続ける者にとって、病や死さえもその心を脅かすことはできません。
イエス・キリストをこの心に受け入れるとき、病も、死も、どんな災いも、私たちをキリストの愛と平和から引き離すことができないのです。
その恵みを私たちはかみしめて、歩んでいきたいと願います。

posted by 近 at 21:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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