更新が遅くなって申し訳ありません。イエス様が十字架にかかられた受難週・・・・どうして年度末と重なるの。忙しすぎます。
逆に考えると、当時のユダヤの宗教指導者たちが過越の前にイエス様の処刑をねじ込もうとした姿は、
様々な仕事を、年度を繰り越さないように淡々と処理していく私たちの姿にも重なるわけで、
イエス様をそこまで貶めたのは自分自身の罪であるということが迫ってきます。とくに今年の場合は。
いのちと誠実を尽くすべき事柄を、忙しさと年度末を理由に適当に済ませてしまったことはなかったか、心の中を探られているところです。
さて、そんなわけで、いよいよ村上教会の1年9ヶ月に及んだ代務も引き継ぎを終え、新任の面f先生へゆだねられました。
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しばらくトップを飾っていた献金趣意書も向こうのブログへ移転しました。募集期間の前半を終え、ちょうど目標額の半分に達しました。
こうして見ると当教会の旧ブログ「村の小さな教会」のテイストをかなり残していますね。だって作った人が同じですもの。
どうぞ姉妹ブログをよろしく。勝手に姉妹にしてしまいました。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』23章32-43節
序.
今日から、キリスト教の暦では受難週に入ります。
受難週というのは、イエス・キリストの地上での生涯の最後の一週間をあらわします。
その中でも、イエス様が十字架にかけられた日である金曜日は、英語ではグッド・フライデーと呼ばれています。
日本では受難日、苦難を受けた日と書く同じ日が、アメリカではグッド・フライデー、よい金曜日と呼ばれる。面白いですね。
日本人の感覚でいうと、救い主が十字架につけられた金曜日ですもの、むしろバッド・フライデーではないでしょうか。でもグッド・フライデー。
グッドとかバッドというのは人間の受け取り方で変わります。しかし神のご計画においては、グッドもバッドもありません。
「禍福はあざなえる縄のごとし」ということわざがあります。不幸や幸せは、撚り合わせた縄のようにかわりばんこにやってくるという意味です。
しかし実のところ、不幸と幸せは待っていればかわりばんこにやってくるということではありません。
私たち自身が、自分自身を、人生をどのようなものとして見ているか。
その態度が、不幸を幸いへの下ごしらえと受け止めることもできるし、せっかくの幸いに気づかず、不幸のまま終わってしまうこともあります。
ではどうすれば、不幸を幸いに変えることができるでしょうか。
神を中心とする正しい人生観を持つこと、そしてそのみことばの基準に基づいて、正しい選択を行うことです。
1.
今日、私たちは三本の十字架を見つめています。しかしちょっと考えてみてください。なぜ三本なのでしょうか。
ローマ帝国は皇帝による独裁とはいえ、曲がりなりにも法治国家としての形を取っていました。
ローマの法律に限りませんが、同じ日、同じ場所、同じ方法による刑罰を受けるのは、同じ罪を犯した者に限られます。
つまり、イエスがユダヤ人の告発どおりに神を冒とくした罪で十字架につけられるとすれば、
同じ死刑囚とはいえ、強盗殺人を犯した者たちといっしょに処刑するということは、本来ローマの法律ではあり得ないことでした。
しかし歴史を治めておられる神は、このとき、人の作った決まりを越えて、イエスと他のふたりを一緒に十字架につけたのです。
なぜでしょうか。色々な理由が考えられます。
たとえば、神の子が強盗たちと一緒に処刑されるという耐えがたい恥を背負うほどに、イエスは罪人のために命を捨てられたことを示すため。
あるいは、このひとりの強盗が回心し救われるために、この日イエスは彼らと共に十字架へと向かわれたということかもしれません。
これは取税人ザアカイが救われるために、イエスがわざわざエリコへと向かわれたということに似ています。
しかし、三本の十字架が立っている情景を思い描きながら、もっと大胆に思い巡らしてみましょう。
イエスのかけられた真ん中の十字架を中心として、右に十字架、左にも十字架。でも別にイエスが真ん中じゃなくてもよかったのではないか。
いや、罪人のひとりとして、とことんまで恥をすする人生を選ばれたならば、中央よりもむしろ端の十字架のほうがふさわしいような気さえします。
しかしイエスを真ん中に、一人は右に、一人は左に。
片方の十字架につけられた強盗は信じて救われ、もう片方の十字架につけられた強盗は信じず嘲り続けました。
イエスを中心として、右に、左に。その鮮烈なイメージの中で、永遠のいのちと永遠の滅びがはっきりと分けられています。
三本の十字架は、選択という二文字を私たちに呼びかけています。
イエスの十字架を前にし、私たちは右を選ぶか、左を選ぶか。いのちを選ぶか、死を選ぶか。信じるほうを選ぶか、信じないほうを選ぶか。
イエス様は、たとえ話の中で数え切れないくらい、二つからひとつを選ぶことについて語っておられます。
広い門、狭い門。岩の上に建てた家、砂の上に建てた家。神に仕えるか、富に仕えるか。この世の水と、いのちの水。
しかしこの三本の十字架ほど、数々の二者択一の話の中で、最も切迫した箇所はありません。
三本の十字架は、私たちが真ん中の十字架を見つめつつ、どちらの十字架を選ぶべきかということを呼びかけているのです。
2.
あなたはどちらを選びますか。右の十字架か、それとも左の十字架か。
左右の強盗たちは、最初はいっしょになってイエス様をののしっていました。
しかし一方は最後までイエスを拒み、そしてもう一方は最後にはイエスを信じました。
一方は自分の罪を棚に上げて言いました。「神ならば、自分と私たちを救え」。
しかしもう一方は自分の罪を見つめながら願いました。「あなたが御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」。
私たちはどちらの言葉をイエス様に伝えることになるのでしょうか。
生きている間は、私たちは「選ばない自由」というのもあります。
しかしこの世を去る前にどこかの時点で、信じるか信じないか、選ばなければなりません。
聖書は死後の世界についてこう語っています。あらゆる人間が例外なく、死んだ後、束の間の眠りにつく。
そしていつかはわからないが、キリストが地上に戻ってこられるとき、眠りから目覚め、神の前に立って最後の審判を受ける、と。
そのとき、この地球に生まれ死んでいった、数え切れないすべての人々が、さばきを受けるために並びます。
しかしそこには二つの列しかありません。イエスを信じて死んだか、それとも信じないで死んだか、の二列です。
すべての人間は、この二種類に分けられます。
信じた者には永遠のいのちが約束されています。しかし信じなかった者を待ち受けているのは永遠の滅びです。
第三の道、すなわち中立の道はありません。そして死んだ後、もう悔い改めてイエスを信じる機会はありません。
だからこそ、生きている間に、今日、信じてほしいのです。手遅れにならないうちに。
3.
今から百年以上前、アメリカでひとりの青年が、遊ぶ金ほしさに強盗を働いたあげく、年老いた女主人を殺害するという事件がありました。
彼は捕まり、牢獄の中でようやく自分の犯した罪の大きさに気づかされました。
遺族に対して毎日お詫びの手紙を書き送り、模範囚として真面目に牢獄生活を送りました。
彼が送った手紙を、遺族は中身も読まずに焼き捨てていましたが、青年の手紙が途絶えないことに気づくと、毎回目を通すようになりました。
驚くべきことに遺族はやがてこの青年を赦したいという気持ちに変えられ、裁判官に嘆願書を送って死刑の取りやめを願いました。
裁判官はこの異例の事態に戸惑いながら、自ら牢獄に赴いてこの青年と面接し、遺族の気持ちを伝えました。
ところがこの青年は裁判官にこう言いました。「私は、あの人たちのたったひとりのお母様をお金のために殺したような人間です。
そんなひどい人間をゆるしてくれる人がいるはずありません。こんな所にまでやって来てからかうのはやめてください」。
裁判官が、これは冗談などではない、遺族は本気で君の助命を懇願しているのだ、といくら言っても、彼は信じようとしませんでした。
裁判官は説得をあきらめ、その数か月後、彼は絞首台に消えていきました。
その裁判官は、職を辞した後、回想録の中でこの青年についてこう綴りました。
「彼を絞首台での死に至らしめたのは、彼が犯した殺人罪のゆえではなかった。
遺族の嘆願を信じなかったがゆえに、彼は死刑への道から逃れられなかったのである。
人は、たとえ殺人を犯しても、その後の生き方次第ではその罪さえも赦してもらえることがある。
だが、遺族の嘆願を信じないという選択、その致命的な選択を間違えたがゆえに、彼のいのちと人生は絞首台へ消えていった」。
結.
私たちは、人生で数え切れないほどの選択をします。そのほとんどは、間違えてもやり直しがきくものにすぎません。
しかしひとつだけ、キリストを信じるか信じないかという選択だけは、間違えてはなりません。
神はイエス・キリストの十字架を通して、私たちを永遠の滅びから救おうと願っておられます。
しかし、信じなければ、私たちは永遠に命を失うばかりか、イエス・キリストの犠牲さえも無駄にしてしまうのです。
信じるか、信じないままで生きていくか。今日、神がその選択を促しておられるといううずきはありませんか。
もしそれを感じるならば、今日が選びの時です。もし感じないのであれば、神がまた別の時を用意してくださっているのかもしれません。
しかし、次の機会が必ずあるとは限らないのです。
聖霊が自分の心にはっきりと語っておられることを感じながら、「また今度」と言うならば、次の機会はありません。
しかし今、イエス・キリストがあなたの罪のために十字架にかかってくださったことを信じるならば、イエス様はこう語りかけてくださいます。
「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。どうかこのすばらしい救いを受け取ってください。