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2018.4.8「教会とは何か」(第一コリント1:1-3)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
当教会では、今年の教会総会で将来の会堂建築を決議しました。これから教会員を対象に、会堂建築についての学びを始めます。
しかし会堂建築に関する参考書籍は決して多いとは言えません。今、私の手元にある本は、
田淵諭「教会堂建築−構想から献堂まで−」(新教出版社、2006年)
加藤常昭ほか「教会建築」(日本基督教団出版局、1985年)
長久清「教会と教会堂」(日本基督教団出版局、1991年)
手束正昭「信仰の表現としての教会建築」(キリスト新聞社、1990年)
くらいでしょうか。他にもいくつか建築関係の本がありますが、写真や図面ばかりであまり役に立ちません。
福音派からの教会建築に関する発信が待たれます。いのち○ことば社さんに期待です。
 上記の書籍の中で一番とっつきやすいは、200頁もあるのにほぼフルカラー!なんと豪勢な田淵諭氏の本でしょうか。
その「まえがき」にこんな言葉が書いてありましたので、紹介します。
教会堂の設計では建物を建てることに目がいきがちですが、それ以前に、教会堂建築を通して一人ひとりが「教会とは何か」ということを改めて考える機会を、主が与えてくださったということに大きな意味があります。
至言ですね。建つもよし、建たぬもよし、いずれにしても教会と信仰を見つめ直す、最善の機会になります。
今日の説教は、そんな思いを込めて準備したものでした。とはいえ求道者の方には難しかったかもしれません。反省。
期待していきたいと思います。会堂建築も、牧会も、人生も。週報はこちらです。

聖書箇所 『コリント人への手紙 第一』1章1-3節 

序.
 さる2月末の教会総会にて、将来の会堂建築を決議しました。あるクリスチャンの建築家がこのように言っています。
「会堂建設とは、建物を建てることではない。ひとり一人が「教会とは何か」ということを改めて考える機会を、主が与えてくださったのだ」と。
そういう意味では、私たちは「教会とは何か」ということについて、今までどれだけ考えたことがあったでしょうか。
そして私も考え込みます。今までどれだけ「教会とは何か」について語ってきただろうか、と。
これから一年間、この毎月第二週は、教会の来たるべき会堂建築のために、学び、分かち合い、祈る日とします。
礼拝でそのテーマに即した説教が語られたあと、礼拝後にはグループになって短く分かち合いをします。
そして昼食後はまたそれをもとにして分かち合いながら学びを深め、祈り、備えていきたいと願っています。
 さて、まず私たちは「教会とは何か」について、考えていきましょう。
「教会とは何か」ということを一番わかりやすく教えている聖書箇所はどこだろうかと考えたとき、今日の聖書箇所のほかにはないと思われます。
多くの人々は、教会と聞くと建物のほうを連想しますが、聖書が教えているのはそうではありません。2節をご覧ください。
「私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、
聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた」者たち、それこそが教会であるとパウロは言います。
この言葉の中から、教会について三つの大事なことを学びましょう。
第一に、教会とはイエス・キリストを救い主として信じ、その御名を呼び求めている人たちのことなのだ、ということ。
第二に、教会とは自分の教会だけではなく、世界じゅうの至る所でキリストの御名を呼び求めている、すべての人々を指しているということ。
そして第三に、キリストにあって聖なるものとされた人々のことなのだ、ということ。
「聖なるもの」とは神にささげられる聖なるいけにえとしてのクリスチャンを指します。教会は、自らを神にささげる者たちが集められたところです。

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1.
 まず、教会はイエス様の御名を呼び求めている者たちのことです。
「呼び求めている」とはかつてではなく、今このとき、求めている人々のことです。
「求道者」という呼び名が教会に来たがまだ信じていない人々を指すことばとされたのはいったいいつからでしょうか。
私は、クリスチャンこそある意味求道者であるべきだと思います。
聖書ではクリスチャンは「この道の者」と言われていますが、道にたどり着いたからと言ってそこで終わるわけではありません。
信仰生活とは、その道を究めていくことであると考えれば、クリスチャンこそ求道者と呼ばれるべきでしょう。
そして私たちが主を呼び求めるとは何を指すのでしょうか。それは、教会にとって一番大事なことは何か、という答えへと繋がります。
教会が主を呼び求める人たちの集まりであるとは、逆に言えば、主を呼び求めているときに教会は教会たり得るということです。
だとすれば、教会にとって最も大事なこと、それは「礼拝」です。礼拝こそ、まさにキリストの御名を呼び求めるという営みです。
 その意味で、私たちはなぜ会堂建築を神様からのチャレンジとして与えられたのかという意味を見失ってはいけません。
それは礼拝のためです。今までにまして、さらに神に喜ばれ、受け入れられる、みこころにかなった礼拝をささげるためです。
そのために駐車場の問題や、その他もろもろの問題が派生してくるのであって、先にそういった現実問題への対策ではないのです。
しかしよりよい礼拝をささげるために新しい会堂が必要なのかという疑問も起きてくるでしょう。
それをこれから私たちはじっくり話し合っていかなければなりません。ですが一例を挙げるならば、
食事のたびに講壇を動かしている状況の中で、会堂の中でもっとも聖なるところがこの講壇であるという意識を持つことができるでしょうか。
主の肉と血がささげられる聖卓が受付テーブルとして使用せざるをえない状況はどうでしょうか。
確かに礼拝は野原でもできるし、講壇がなくてもみことばを語ることはできます。
しかし人は教会堂に入ってきたときに、そこに聖なるものが聖とされている姿に触れて、そこで神の臨在に打たれるのです。
教会は、聖なるものが聖なるものとされている、みこころにかなった礼拝を通して、教会であり続けるということをおぼえていきましょう。

2.
 二番目の、教会とは自分のところだけでなく、至るところで主の御名を呼び求めている人々の集まりであるということについてですが、
これに関しては、私は豊栄の教会員に対してくどくどと言う必要は感じません。
それほど、みなさんの愛は、自分の教会を満たすだけではなく、他の教会や宣教団体へも十分に向けられているからです。
私たち同盟教団では、年度末に各教会が財務報告書を提出し、それが一覧になって教団総会のときに配布されます。
比較するのはよくないかもしれませんが、宣教区の他の教会に比べ、豊栄教会が際だって高いデータが二つありました。
ひとつは、献金の中で感謝献金の比率がとても高いこと。
これはひとり一人が、生活の中のことある毎に神に感謝をささげていることを示していると思います。
そしてもうひとつは、他の教会や団体への献金が、宣教区全体の平均の二倍から三倍あったこと。
これは見方を変えれば、その金額を豊栄への一般会計にささげれば会計さんの精神的負担が減るのに、と思わないでもありません。
しかしむしろ、自分の教会を潤すことよりも、私たちの愛を必要としている他の教会や団体のことを忘れない教会になっていることに感謝します。
そのような人々が犠牲を顧みずにささげている愛のわざに対して、神が豊かに報いてくださらないはずがありません。
私が村上教会の代務をしていた約二年間のあいだ、豊栄教会からの毎月の献金通知がどれほどまでに励ましになったことでしょうか。
金額は問題ではありません。毎月、確かにおぼえてくれている人たちがいるということが嬉しかったのです。
みなさんがそれぞれ、村上だけでなく、ある人は新発田へ、ある人は山形へ、ある人は神学校や宣教師へ、とささげています。
ささげる恵みを知っているのです。受けるより与えるほうが幸いであるというみことばを体験しているのです。
教会がその喜びに包まれるならば、たとえ会堂建築という多くの犠牲を必要とするわざであっても、必ず進んでいくことができます。

3.
 最後に、教会とはキリストにあってささげられた聖なるものなのだということについておぼえましょう。
パウロがコリント教会への手紙の冒頭に、この言葉を書いていることには特別な意味があります。
この手紙は、コリント教会で起きていた数々の問題、とくに教会内での罪や対立に対処するために書かれたものでした。
しかしパウロがまず彼らに思い起こさせたのは、あなたがたは聖徒として召され、聖なる者とされた者なのだということでした。
「召され」も「された」も、すでに起こった、完了した事実を表します。
たとえ問題を次から次へと起こしていくようなコリント教会であったとしても、聖徒として召され、聖なるものとされたことは決して揺るがない、と。
二千年間、教会にはたくさんの問題が起きてきました。教えの違いによる分裂や、武器をとって殺し合ったことさえもありました。
しかしそれでもなお、私たちは聖なるものとされた者だというのです。なぜなら、聖なるものとしているのは私たちではなく、神だからです。
神が選ばれた者を、何人たりとも汚れているとは言うことができないのです。何という恵みでしょうか。
 みなさんひとり一人の人生にも、さまざまな問題が起きてきたかと思います。それを引きずりながら、生きている人もいるでしょう。
しかし神が私たちの人生に起こすことには、無駄なものは何一つありません。必ずそれが何のためだったかわかる時がやってきます。
そして歯車一個一個の歯がぴったりとかみ合うように、
すべての悲しいこと、苦しいこと、ひとつでも欠けたならば、今の私はなかったと思える日が必ずやってくるはずです。
教会というのは、そのような経験をした人々が集められているところです。
私がどんな人間であろうとも、イエス・キリストによって神は私を聖なるものとしてくださった。
あなたが経験したその物語を、さらに多くの方々に知ってもらうために、教会はいま、会堂建築というひとつの課題に向かって歩み始めました。
よりよい礼拝のために、そしてさらに積極的な伝道の拠点として、私たちはじっくりと御霊の語りかけを聞いていきたいと願います。
神が私たちに志を与えてくださったことを確信しながら、期待と希望をもって歩んでいきましょう。

posted by 近 at 23:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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