今さらで申し訳ないのですが、イースターの日、教会員有志がイースター・リースをささげてくださったのでご覧ください。
力作ですね。私の方はというと、風邪をこじらせてしまって、今回はマスクをつけながらの説教です。
お聞き苦しいところがありましたら、ご容赦ください。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』20章19-31節
序.
いまどきの言葉に「キャラが立つ」という表現があります。
新年度が始まるこの時期、学校や会社では「今年うちに入ってきたやつはキャラが立っているなあ」というような使われ方をします。
「キャラ」というのは「キャラクター」の略ですが、日本語に訳すと「個性」とでもなるのでしょうか、
転じて「キャラが立っている」というのは、個性的だからおおぜい似たようなのがいるなかでもおぼえやすいという意味になるようです。
この表現を借りると、トマスは、イエスの12弟子の中でもペテロやイスカリオテのユダと並んで「キャラが立っている」と言えます。
英語辞書で「トマス」をひくと、「疑いやすい人」という説明が出てきます。
あわてんぼうのペテロ、裏切り者のユダと並んで、疑心暗鬼のトマス、イエスの12弟子の中での問題児3羽ガラスと言ったところでしょうか。
しかしトマスが登場する場面は決してここだけではありません。
このヨハネ福音書の中で、トマスのセリフはこの20章を合わせて全部で三回出て来ます。
それをひとつひとつひもといてみると、トマスが決してただの疑心暗鬼の、あまり親しくなりたくないタイプの人ではないということがわかります。
1.
トマスの最初の言葉はヨハネ11章、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」。
かっこいいですね。熱心党員シモンなんかよりよっぽど熱いトマスの姿が描かれています。
二回目の言葉は、最後の晩餐でイエス様が長ーい説教を弟子たちにしていたときに質問した言葉。
「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」。
ほとんどの弟子にとって、大学の哲学講座レベルの話に、トマスはついてきていました。
以上のふたつのことばからわかるのは、トマスは情熱的な面と、理性的な面の両方を持っていた弟子であったということです。
しかしその情熱と理性が、この最後の場面では裏目に出ます。
25節後半「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」。
このことばを、多くの人々はトマスの疑いやすい性格を表すものとして受け止めてきました。
しかし、この言葉は不信仰から出たものではあっても、疑いやすい性格を表しているわけではありません。
トマスはイエスが弟子たちの前に現れたとき、そこにいなかった。なぜ一人だけいなかったのでしょうか。
これがイエスが死んで三日目によみがえられた当日であったこと、そして彼らはユダヤ人の追跡を恐れて一つ所に隠れていたことを考えると、
彼だけがその場にいなかった理由は用事があったとかではなく、彼が意図的に弟子たちの交わりから離れていたと理解すべきです。
イエスがユダの裏切りによって群衆に捕らえられたとき、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。
その逃げる者たちの中にはこのトマスもいた。彼は逃げ隠れながら、何度も自分に叫んだことでしょう。
かつてはイエス様と一緒に死のうとまで言っていた自分がなぜ、どうして。
その深い心の傷はトマスの心をかたくなにし、残された弟子たちと共に励まし合うという思いもすべて拒絶してしまったのでしょう。
2.
「われは信ず、公同の教会、聖徒の交わり」という『使徒信条』の一節を、私たちは毎週の礼拝の中で声を合わせて唱和します。
聖徒の交わりとは、時々開かれる教会の枠を越えた集会とか、礼拝後の愛餐会のことを指している言葉ではありません。
聖徒の交わりは、毎週の礼拝、毎日の集会、主を信じ求める民が一つ所に集まってささげる、ありとあらゆる礼拝の中に生きています。
どんなに悲しみが大きく、人との関係を拒絶したい時であっても、私たちは決して聖徒の交わりから離れるべきではありません。
トマスが悲しみと痛みのゆえに弟子たちの交わりから離れてしまったその復活の日曜日、彼は多くのものを失っていました。
よみがえったイエス様に出会う機会を失っていただけではありません。
彼は、目で見なければ信じないというかたくなな心の状態に陥ってしまったのです。
私たちにとって、信じるとはどういうことでしょうか。それは、この世界と私を造り、いのちと死を握っておられる神様に対する、無条件降伏です。
私が、俺が、と心の中心にはいつも自分自身がふんぞり返っていた者が、それを追い出し、イエス様を心の中心にお迎えする、それが信仰です。
そこにはもしこれこれをしてくれたら、という条件をつける余地はまったくありません。
神様の前にまいりましたと、自分のエゴを100%、十字架につけてしまうことです。
トマスは言います。「私はその手に釘の跡を見、指を釘の跡に差し入れてみなければ、決して信じない。」
そして人々は言います。「もし神が実在するというならば見せてくれ。この目で見たら信じてみよう」。
愚か、あまりにも愚か。神が本当に存在するのであれば、私たちの存在など、その永遠の栄光の前では一瞬にして消え果ててしまうのです。
神は私たちを必要としているほど、脆弱で孤独ではない。私たちが神を必要としているのです。
たとえまわりにどれだけ人が溢れていても孤独で、存在が消え去る恐怖を除き去ることのできない私たちだから、神を必要としているのです。
それなのにこちらから条件をつけるとは、自ら救われる機会を捨てていると同じではありませんか。
神様が何何してくれたら私は信じます。私たちはそんなトマスに似たところははあっても彼のこの言葉をまねるべきではありません。
むしろまねるならば、ダニエルの友人たちのことばをまねましょう。
「もし神が私たちを火の中から助け出してくださらないとしても、私たちは決して神以外のものを拝むことはありません」。
その信仰告白に生きる者は、なんと幸いな人たちでしょうか。
3.
しかし神のあわれみは尽きることがありません。次の週、トマスのところにもイエス様は現れて、そして優しく言葉をかけてくださいました。
27節、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。
これはその前の週のトマスの言葉に完全に対応していることがわかるでしょう。
私たちの思い、言葉をイエス様はすべてご存じであり、完全な答えをくださる方です。
日曜日、私たちが教会の門をくぐりさえすれば、そこには人生のすべての答えが待っているのです。
日曜日、教会へ行けば、イエス様が語ってくださるのです。今までの人生のすべての問題に対する答えがあるのです。
トマスが告白した「わたしの主。わたしの神」は、私たちひとり一人にとっても、主であり神であるお方です。
もし指をつっこんだら私は神を信じるといったトマスのかたくなな心は、イエスとの再会によって露と砕け散りました。
私たちもまた、この日曜礼拝がそのような恵みの時であることをおぼえ、疲れた心、かたくなな心をイエス様に砕いてほしいと願うのです。
最後にイエス様は言われます。「見ずに信じる者は幸いです」と。
私たちは、イエス様を見たことはないけれど、愛しています。いま見てはいないけれども、信じています。
神は目に見える姿ではなく、目には見えないけれど確かに存在し、働かれる聖霊のみわざを通して、私たちに救いを伝えようとされます。
しかし私たちが心のドアを開かなければ、決して入ってくることができません。
だからこそ信仰は、100%神のわざであると同時に、100%人のわざでもあるとも言われます。
あなたのすべての力と思いを尽くして、心の扉を開いてください。
そのときに、イエス・キリストが私たちの心の中心の座に着いてくださり、私たちの人生をただ神が導いてくださるのです。
今から、とこしえまで。お祈りします。