こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先日、大学病院でたまたまCT検査を受けたら、主治医から「骨密度が相当に低い」と言われました。
なんでも「65歳相当」だということ。ちなみにいま46歳。どうりで最近、妙にからだが軽いと思ってたわ。
「牧師からひと言」でも少し触れていますが、私は14歳から約二年のあいだ、骨肉腫の治療のために抗がん剤を使用していました。
その副作用で骨が脆くなっているそうです。30年経ってようやく知らされた真実。前から軽かったのね。
80歳くらいになれば年相応の骨密度に回復すると言われましたが、それ回復と言えるのか。微妙なところです。
ちょうどこの日曜日は恒例の召天者記念会でした。
骨密度が低いから転倒しないように足もとに気をつけるのも大事ですが、それ以上に天を見上げて歩んでいきたいものです。
週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』25章31-46節
1.
「水戸黄門」「遠山の金さん」「暴れん坊将軍」。
すでに放送が終了して久しいものもありますが、今挙げた三つの時代劇は、ひとつのことで共通しておりますが、何でしょうか。
それは、初めの登場シーンで、彼らは善人、悪人の前に身分を隠して登場します。
しかし終盤では本当の身分を明かし、悪人にはさばきを、善人にはゆるしを与えるということです。
もしこれらの時代劇がお好きな方がおられるようであれば、今日の聖書のお話もよくわかってくださると思います。
まさにこれらの変身もの時代劇の原型ともいうべきお話が今日のお話、イエス様は二度別の姿でやってこられます。
最初は優しい救い主として地上に生まれ、十字架にかけられて殺され、よみがえられたイエス様。
しかし次に地上に来られるときには、厳かに御使いを引き連れて現れる、さばき主として来られます。
神ご自身であるイエス様が、人として地上にお生まれになったのは、私たちのたちの罪を十字架で背負うためでした。
そして二度目に来られるとき、それは、いつかはわかりませんが、この地上のすべてが終わりを告げるときです。
ある日、突然に天の御使いたちを従えて、栄光に輝いた姿でこの地上においでになります。
世界じゅう、いや宇宙そのものが、キリストの栄光によって照らされます。
地球の裏側にいたからイエス様が来たなんてわからなかったとかいうことのありえない、そんな日がやってきます。
その日には、人類の歴史が始まってから生まれ死んでいったすべての人間がよみがえります。
いま生きている80億人だけでなく、気の遠くなるような数になりますが、あらゆる人間が一人残らずキリストの前に集められます。
そしてすべての人間が、イエス・キリストの前にふたつの列に分けられます。
羊飼いが、羊とやぎを選別するように、すべての人は永遠のいのちにはいる羊と、永遠の刑罰に入るやぎとして、はっきりと分けられてしまいます。
2.
そんなことが起きるわけがない。多くの人々がそう言います。しかし否定しながらも、もしかしたらあるかもしれないという不安が残ります。
なぜなら、世界には数え切れないほど多彩な宗教がありますが、ほとんどすべての宗教が、この最後のさばきを語っているからです。
キリスト教だけではなく、仏教、神道、ヒンズー教、イスラム教、新興宗教や部族信仰に至るまで、
さばき主はその宗教独自の神であるとしても、必ずこの世界とすべての人間はさばきを受けて、すべてが無になるか、新しくされると説きます。
それは、生まれた国や時代、宗教は違っても、人の心はだれであっても、必ず最後のさばきがやってくるという恐れを持っているのです。
生きている間は信仰や救いなど必要ないと言っている人たちでも、自分の死期が近づくと、死後のさばきへの恐れに駆られます。
そして自分はさばかれない、自分は神に選ばれるという安心材料を何とかして探して、平安の中で死んでいこうとします。
人々がさばきの恐怖から逃れるためにしがみつくのは何でしょうか。それは「よい行い」です。
確かに悪いこともしたかもしれない、でも悪いことよりも良いことの方をたくさんした。だから私はさばかれないはずだ。
しかし聖書は、この最後のさばきのなかで、やぎではなく羊の列に並ぶための基準は何だと教えているでしょうか。
それが今日の聖書箇所に記されている、イエスの言葉です。
永遠の祝福を受ける羊の列、永遠の滅びを受けるやぎの列双方に、語られていることばを拾い出してみます。
「食べる物を与え、飲ませ、宿を貸し、着る物を与え、見舞い、たずねてくれた」、あるいはそれをしなかったかどうか。
そこだけを見れば、聖書もまた、永遠の救いへの鍵は行いと言っているように見えます。
しかし注意して読んでください。そららの行いは、「わたしにしてくれたか、してくれなかったか」ということが問われていることを。
かつて自分が関わった、あるいはまわりで苦しんでいた、小さな者たちをイエス・キリストそのものとして見ていたかということを。
ここからはっきりとわかることがあります。
永遠の行き先を決めるのは、よい行いをしたかしなかったかではなくて、イエス・キリストを救い主として信じたかどうかの信仰なのです。
3.
ここからとくに大事な話になりますので、私の言うことをよく聞いてください。
イエス・キリストは、すべての人間を、それぞれがイエス・キリストを信じたかどうかによって、ふたつの群にわけます。
イエスを信じた人々は、その信仰によって、生涯に犯した悪い行いは一切忘れ去られ、ただよい行いだけをほめられて、
「この世界が始まる前から用意されていた御国を受け継ぎなさい」と言われます。
およそ、人生の中で良いことばかりをできる人など存在しません。この羊の人たちが、自分のした良いことを忘れていたというのは、
聖人君子だからだったではなく、悪い行いを繰り返してきた人生に、良い行いがちょびっとだけ入っているからにすぎません。
しかし、キリストを信じた者は、罪や悪事をすべてキリストの十字架の血によって赦されています。
人生が99%罪にまみれていて、よいことはわずか1%だったとしても、もしイエス・キリストを信じたならば、
99%の悪ははじめからなかったものとされて、1%の善だけがその人のすべてとなります。
しかしちょうどその反対のことが、ついに最後までイエスを救い主と信じなかった人の上にも起こります。
たとえその人が、ちょうど逆で、世間的な感覚で言えば小さな悪事を帳消しにするくらい、
多くの良い行いを積み重ねて生きてきたとしても、イエス・キリストを信じるという信仰がなければ、99%の良い行いはなかったこととされ、
1%の、わずかになおざりにした罪だけが残り、それが地上でなしたことのすべてとみなされてしまうのです。
「のろわれた者たち」と言われ、悪魔とその使いのために用意されている永遠の刑罰に、自分たちも入れられてしまいます。
なんという不公平な話でしょうか。たしかに良い行いを積み重ねてきたと思う人には不公平かもしれません。
しかし、良い行いをしたくても自分の心がいつも悪に向いてきたことに苦しんできた人にとって、これはまさにあわれみです。
恵みというのは、受ける資格がないものに与えられるから恵みというのです。受ける資格があったら、それは恵みじゃなくて報酬です。
私たちの救いは報酬ではなく、恵みです。ある意味不公平ではあります。
しかし神は、そこまでねじ曲げてこそ、罪と悪に弱い私たちをイエス・キリストによって救おうとされていることを信じましょう。
結.
みなさんはいかがでしょうか。
まず、クリスチャンの方は、たとえどんなに罪と悪に対する弱さを抱え、自分で自分のことを責めるような人間だとしても、
−もちろん神様は、あなたがキリストのものというその名にふさわしい生き方を願っていますが−、
しかしどんなにあなたが不十分な人間だとしても、決してさばきに会うことはありません。
それは、イエス・キリストが、あなたのすべての罪を背負ってくださったからです。
イエス・キリストをすでに信じた私たちは、たとえ今日何があったとしても、まさに身ひとつで、最後のさばきにおいては祝福が約束されています。
しかしまだイエス・キリストを信じていない方は、たとえどんなに善人として生きてきて、社会にこれだけ貢献してきた、という自負があっても、
それら一切はあなたを永遠の滅びから守る盾にはなってくれないということに気づかなければなりません。
人が誇ることのできる正しさなど、神の正しさの前では闇に等しいのです。
きょうイエス・キリストを信じて、平安をいただいてほしいと心から願います。
イエス・キリストは二千年前、救い主としておいでになりました。しかしいまだに最後のさばきは起きていません。
神は、ひとりでも多くの人が救われるために、最後のさばきを二千年間引き延ばしてくださっているのです。
それは私たちが生きている間は続くかも知れません。しかしそれでもすべての死人がよみがえり、さばきを受ける時はやってきます。
光あるうちに、光を信じましょう。光とはイエス・キリストです。死んだ後には、信じる機会は与えられず、すべてが手遅れになってしまいます。
祈りましょう。
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