先日、豊栄図書館で見つけた「教会ねずみとのんきなねこ」。幼児向け絵本なのに「Ministry」顔負けの牧会批評に思わずグッときました
ねずみのアーサーは、ネコのサムソンと、仲良く教会にくらしていましたが、仲間がほしくなり、町からたくさんのねずみを連れてきました。ある日、ネコのサムソンが、礼拝をめちゃめちゃにしてしまう事件を起こします。ネコがあばれる原因となったネズミたちは教会を追い出されそうになりますが、みんなで泥棒退治で活躍し、無事、教会でくらし続けられることになりました。(出版社のあらすじ紹介より)


サムソンが寝ぼけてネズミたちを追いかけ回して礼拝が破綻した後、なぜか普通にネコと会話できる牧師が、寝ぼけた理由を聞きました。
サムソン「いやあ、先生がまた同じような話をするもんで・・・あ、すいません、言いすぎました」 ネコのくせに言うことが役員レベル。


めちゃくちゃになった礼拝に、会衆は怒り心頭。一斉に立ち上がり家に帰り始める。そして牧師にこんなひと言。
「このバカネコを追いだしてください。さもないと、もう礼拝には来ません!」 ネコが役員レベルで、教会員は・・・お客様レベル?


一件落着のあと、ネズミたちがまたうるさくすると「ああ眠い。また寝ぼけて追いかけてしまうかも」と聞こえよがしに大あくびをするサムソン。
「そうすると二日くらいは静かになるのでした」とのナレーターのひと言。人間、そう簡単には変わりません。ネズミですが
二日という日数に、努力が続かないオトナの人生の酸っぱさを感じます。問題は幼児に果たして伝わるかどうか
かつて70年代にポプラ社、90年代にすぐ書房からシリーズが出されていましたが、今は絶版。
2011年以降、徳間書店から以下の3冊が出版されているようです。続きが読みたくなりました。週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』5章4節
1.
「悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」。
イエス・キリストのことばはいつも私たちの心を揺さぶります。いやむしろ逆撫ですると言ったほうがよいかもしれません。
「心の貧しい者は幸いである」という言葉が、もともとは乞食や物乞いを意味すると前回の説教で話しました。
いったい、乞食や物乞いと言われてああ私は幸せです、と思う人がいるでしょうか。
そしてそれに続く言葉が今日のこの言葉です。「悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」。
悲しむのが幸いだって?だったら私と代わってくれよ、こんな状態になっても、あんたは本当に幸せだと言えるのかい。
いま心から悲しんでいる人々がこの言葉を聞いたならば、そう反応してもおかしくありません。
イエス・キリストのことばは、聞く人の心を逆撫でします。しかしじつは逆撫でしているわけではありません。
人生の視点を変えて、いつも見ているところの裏側から見てごらん、
あなたが貧しくて不幸だと思っていたものがじつは神だけにしがみつける幸いなんだ、
悲しくて不幸だと思っていたものがじつは慰めに満ちた幸いなんだ、それがイエス様の伝えたかったことです。
ある人はそれを刺しゅう、糸と針を使う方の刺しゅうにたとえています。
どんなに美しい刺しゅうであっても、裏側から見たら糸が固まっていて、必ずどこかに見苦しいところがあります。
でもそんな不完全な裏側があるからこそ、表のほうではすばらしい刺しゅうが作られている。
貧しいこと、悲しいこと、苦しいこと、それがなかったら、人生の刺しゅうの表側は永遠に完成しない。
まず私たちは、悲しみは不幸だという思い込みを捨てるべきです。
私もまた自分にこう問いかけます。悲しみが私の中にもたらされるとき、私は不幸なのだろうか。
いや、むしろ悲しみがあるからこそ、私はいま生きているのだ、と。
2.
人生に「悲しみ」なんて必要ない、と考える人もいるでしょう。
エデンの楽園にはもともと怒りや悲しみは存在していませんでした。天国にも怒りや悲しみはありません。
しかし私たちの生きている世界はエデンの園でも天国でもありません。生まれてから死ぬまで罪に溢れた世界で私たちはもがきます。
悲しみや怒りは、この苦しい世界でも、私たちが生きることから逃げ出さないために与えてくださったものです。
怒りをコントロールする必要はありますが、悪に対しての怒りを失ってはなりません。
悲しみの中に沈みっぱなしではいけませんが、自分の罪に対してとことん悲しむこと、それを真実の悔い改めと呼びます。
私が高校で演劇部に入ったとき、嬉しいという感情を表す演技は苦労しませんでしたが、しかし怒ったり、悲しんだりするのは大変でした。
まだ告白もしていないクラスの女子にふられた場面を想像したりして、ようやく涙を絞り出したり、と苦労したことをおぼえています。
不自然な感情だからではなく、人間の本質に関わる感情だからこそ難しいのです。怒り、悲しみは人間を人間らしくする必要な感情です。
実際、多くのクリスチャンがこんな経験をしてことがあるのではないでしょうか。
悲しみの中にあった時には、神に怒りを挙げるかのようにしがみつき、聖書をむさぼり読み、神のみ声を聞き逃すまいとした。
しかしその悲しみが過ぎ去ってしまうと、みことばがなくても何とかやっていけるという風に、祈りがおざなりになってしまうということが。
神を信じる者、そして神を求める者は、悲しみの経験の中で、むしろ神を近くに感じます。
確かに悲しみはつらい。苦しい。できることなら取り去ってほしいと願う。
しかし悲しみを通して心に開いたすき間を通してでしか見えないもの、というのが確かにある。
パウロは、コリントの教会にあてて書いた手紙の冒頭でこう述べています。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(第二コリント1:4)あなたが経験する悲しみを他の人に話しても、そんなの私がいま経験していることに比べたらたいしたことない、と言われるでしょう。
しかし聖書は、「どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができる」と約束します。
それは、穴の大きさ、すき間の深さにかかわらず、その奥で待っておられる方は同じだからです。
言うまでもなく、その方こそイエス・キリストです。私たちのためにいのちを捨ててくださった、救い主です。
3.
イエス様は言われました。「悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」。
ここで「慰められる」と訳されている言葉は、直訳すると、「あなたがたは慰められるでしょう」という未来を指す言葉です。
イエス様のことばを生で聞いていた群衆の中に、思わずこう呟いた人がいたかもしれません。
「イエス様、遠い未来に慰められてもしょうがないんです、私は今慰めがほしいんです。未来じゃない、今が大事で、今が必要なんです!」。
しかしイエス様の言葉をよく聞いてください、「幸いです」という言葉は未来ではない、現在のことです。
たとえ慰められることがまだ起きていない、将来のことであろうとも、あなたがたはいま、幸いなのだ、と。
未来への約束をはっきりと信じるとき、今がたとえどれだけ悲しみに満ちていたとしても、「私は幸いだ」と叫ぶことができる。
今だけじゃない、過去がどれだけ悲しみに満ちていても、未来への限りない約束のゆえに、私は幸いだと叫ぶことができるのだ、と。
悲しみという漢字の上にある、「非」という字は、ひとつの背骨が二つに裂けてしまっていることを表すのだそうです。
心が二つに裂けているというのは、一見悪いことのように思えます。
しかしむしろ、私たちの心が、神への信頼に向かうか、自己憐憫へと向かうか、という分かれ道が「悲しみ」なのではないでしょうか。
悲しみがこのイエス・キリストに近づく道への扉であるならば、悲しみは決して人生にとってマイナスではありません。
悲しんでいる者は幸いです。なぜなら、その扉を開いて、イエス・キリストへと向かうことができるからです。
実際この中にも、悲しみを通して、友人に誘われ、真理を求め、キリスト・キリストに出会った方々がいるのではないでしょうか。
しかしそれは、神が私たちを悲しみという扉を通らせてくださって、ご自分のもとへまでしかるべくして導いてくださった、ということに他なりません。
悲しみもまた、神が私たちに備えてくださる恵みのひとつです。だから無駄にしないでください。
こんなはずではなかったと人生を恨むほどの悲しみの中でこそ聞こえてくる、神の招きの声があります。
その御声を聞き逃すことがないように、イエス様のみことばをもう一度かみしめましょう。
「悲しむ者は幸いです、彼らは慰められるからです」と。