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2018.7.1「礼拝はいそがしい」(マタイ12:1-14)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先日、新潟聖書学院でカウンセリング技法の特別講義に参加してきました。
現在、牧会の中でカウンセリングは不可欠なものですが、私が神学校に在籍していた当時はあまり重要視されていませんでした。
むしろ説教を磨け!という感じでした。そんな潮目が変わったのは東日本大震災かもしれません。
被災者のケアのために「傾聴」ということがよく言われるようになりました。
 しかし今回改めて講義に参加してみて、実際の傾聴とはじっくり聞くことだけではないということがわかりました。
相手の話を聞きながら、相手の言葉を繰り返し、明確化し、質問を行い、相手が自分自身で考えていくことを促していく。
聞くだけではなくて、五感を目まぐるしく働かせて、相手を理解することが傾聴だということを改めて思った次第です。
人間相手でさえそうなのだから、ましてや神の御前に自らをささげる礼拝で、私たちはどれほど五感を働かせているだろう。
今日の説教は、そんな視点から語っています。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』12章1-14節 


1.
 今から十年以上前ですが、朝日新聞に玉村豊男さんという方が、おもしろいエッセイを連載していました。
この方はもともと作家ですが、ちょうどその頃、信州の山の中に農園を開いて、自給自足の生活を始めておられました。
すると取材に来た記者たちが、目の前の雄大な山並みを眺めながら、口を揃えてこう言ったそうです。
「都会の慌ただしさから離れて、ゆったりとした時間を楽しむ。先生、これぞまさしくスローライフですね。まったくうらやましい限りです」。
しかし玉村さんはその言葉に頷きながらも、田舎暮らしをスローライフと呼ぶ風潮を快く思っていなかったということでした。
都会では、誰かが運転するバスや電車に乗り、誰かが作った食べ物を買い、ゴミをステーションに出せば誰かが持って行ってくれる。
しかしこんな山の中ではそうはいかない。畑仕事も台所仕事もなんでも自分でやらなければならないし、手間もかかる。
とてもとても、これぞ自然に生きる人間的な生活、スローライフはすばらしいとか言っているような暇はない。
そしてその回のエッセイを、こんな言葉で閉じていました。「他人まかせの暮らしと違い、スローライフは忙しいのだ」。

 この「スローライフ」と同じようにイメージばかりが先走っているのが、じつはキリスト教会の礼拝ではないかと思います。
平均的日本人が連想する教会の礼拝のイメージを挙げてみましょう。高い天井の会堂。金属製の燭台や十字架といった調度品。
荘厳な雰囲気に包まれながら、歴史の重みを感じさせる長椅子に腰をかけながら、牧師だか神父だかのありがたい話に耳を傾ける。
たまに起立して讃美歌を歌うことはあっても、ほとんどは長椅子に座って過ごし、そしてなんとなくきよめられたように感じながら教会を後にする。

 しかし実際に、うちの教会を含めて、各地の教会に行けばわかりますが、そういう礼拝の姿はまさにイメージ、虚像でしかありません。
問題は、会堂の外観や内装がイメージしていたものとは違うというよりも、もっと本質的なことを人々は誤解しています。
礼拝とは、座っていればメニューが自然に出されるような、受け身のものではないのです。それこそ、礼拝はいそがしいのです。
忙しいという言葉を誤解しないでください。賛美の時に立ち上がり、献金の時に財布を取り出すという、その程度の忙しさではありません。
礼拝の初めから終わりに至るまで、自分の持っているすべての感覚を働かせて、全体のプログラムを通して神に近づいていくのが礼拝です。

2.
 礼拝について、クリスチャンのあいだでも様々な考え方の違いがあることは間違いありません。
しかし日本の教会の弱さは、礼拝があまりにも受け身的なものになりすぎているということではないかと考えています。
それは、座っていれば私たちの心の状態に関わりなくいつもと変わりなく進んでいく、礼拝です。
私たちはそのような礼拝に慣れてしまっています。
しかし聖書が伝えていることは、それこそパリサイ人や律法学者が人々に強制していた礼拝の姿勢だった、ということです。
彼らの合い言葉は、「安息日には何もしてはならない」です。

 しかしイエス様は、安息日は何もしてはならない日ではなく、良いことを行う日であると言われました。
貧しい者が他人の麦畑に入って穂を摘むことを、モーセは律法の中で認めていました。
それは、貧しい者を隣人が愛をもって助けることは、神のみこころだったからです。
安息日に手の萎えた人をいやすこと。安息日に穴に落ちた羊を引っ張り上げて助けること。すべてが神の喜ばれる、良いことです。
安息日に良いことを行うのが神の願いです。
であれば、安息日の中心である礼拝そのものに、神はどれだけのことを求めておられることでしょうか。
礼拝は、それ自体が神に近づく営みです。椅子にもたれかかって時を過ごす、受け身の時間ではありません。
あなたの持っているすべての力をふりしぼって神をほめたたえるために立ち上がる、積極的な時間です。

3.
 こうしてみなさんが礼拝に集まってくるとき、そこにはひとり一人が苦しい重荷を抱えていることは承知しているつもりです。
月曜から土曜まで家族を養うために仕事に明け暮れ、子育てや人間関係に悩み、疲れた体を引きずりながら、礼拝を選び取った皆さんです。
疲れたからだを椅子にゆだねて、心静かに聖書のことばにゆだねたい、という礼拝のイメージもあるでしょう。
しかし礼拝の時がそのような受け身の時間であるというのは、旧約聖書、新約聖書それぞれが記す礼拝の光景からは浮かんできません。
むしろ神は聖書の至るところでこう言われています。あなたの力を尽くしてわたしに近づけ。そうすればわたしもあなたに近づこう、と。

 前奏が流されるとき、過ぎ去った一週間のなかで神を離れて生きていた自分の姿が走馬灯のように心に思い浮かんできます。
招きのことばが朗読されるとき、にもかかわらず、罪深いこの者を神の前に立たせてくださるあわれみが大波のように押し寄せてきます。
開会の賛美を、立ち上がるのを待ちきれない思いで声をあげて歌います。司会者の祈りに、心からアーメンと同意します。

 日曜日のさまざまな誘惑を振り切って、この主日礼拝を勝ち取った人々に、私は牧師として、兄弟姉妹として尊敬の念を抱きます。
しかしあえて言うならば、礼拝の時間までにここにたどり着くことが、聖書の言う「神に近づくこと」ではありません。
この礼拝の中で、礼拝の初めから終わりまで、どれだけ命がけで神と向き合っているだろうか。自分自身にそう問いかけましょう。
受け身ではなく、身を乗り出すほどの礼拝、そこにあなたの一日、一週間を育み、この世の困難を戦う力を与える秘訣があります。

結.
 イエス様は、安息日によいことをするのは正しいことだ、と言われました。そして安息日とは、神への礼拝のために確保された日です。
そこから言えるのは、礼拝が始まる前や終わった後、あるいは午後の時間、帰宅後、礼拝への応答として善を行う、ということではありません。
礼拝そのものを通して、私たちは神の前に善を行うのです。
 礼拝とはあなたのすべての五感を研ぎ澄ませて神の恵みを受けとり、からだと心を精一杯用いて、神を喜ぶことです。
心の目を通して、自分自身の本当の姿が見えましたか。心の嗅覚を働かせて、自分の罪が漂わせている腐臭を嗅ぎ取りましたか。
心の舌を用いて、神のことばをおいしく味わいましたか。心の耳に、兄弟姉妹や求道者の方々の、言葉にならない声が聞こえましたか。
たった今、自分が受け取ったみことばを用いて、そんな人々の痛みに触れたいと願いますか。
そう考えてみると、礼拝はまさに忙しいと言わざるを得ません。しかしそのように積極的な礼拝こそが、人々にいのちを与えるのです。
この礼拝を通して、イエス様がひとり一人の礼拝を変えてくださり、積極的な人生へと歩ませてくださるようにと願います。

posted by 近 at 21:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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