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2018.7.8「地上(ここ)から天へ」(マタイ20:1-16)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
西日本豪雨の被災者・ご遺族の方々、また現地の諸教会の上に励ましと慰めがありますように祈ります。
何というタイトルか忘れましたが、昔読んだ星新一氏のショート・ショートにこんなあらすじの作品がありました。
 男が朝、目を覚ます。なぜか目覚ましが鳴らなかった。トースターからパンが出てこない。テレビのリモコンがつかない。
電化製品だけでなく、新聞(印刷物)、テーブル(木製品)、およそ「モノ」と呼ばれるものすべての調子が悪くなっていた。
男はリモコンをあきらめて、テレビに近づいてスイッチを入れた。テレビは何十秒もかけてようやく、ぼんやりと画面を映し出した。
そこでは、今世界中で「モノ」が一斉に壊れていく事件について報道されていた。このおかしな現象は、男の家だけではなかったのだ。
番組の中でひとりの評論家が、「頭がおかしいと言われるかもしれないが」と前置きして、この現象の原因を説明していた。
「・・・あらゆる「モノ」が金属疲労を起こしているのです。いわば「モノ」たちが人間に奉仕することに疲れ果ててしまったのです・・・」
突然、映像が切れた。男はテレビにしがみついて懇願する。「頼むよ、もう一度映し出してくれ・・・」
そのとき、机、床、柱に亀裂が走る。電化製品が一斉に白煙をあげる。壁と土台が崩れ、闇が男と世界を飲み込んでいった。
小説はそこで終わっていました。30年以上前に読んだ作品なので、細かい所は違っているかもしれません。

 さきの大阪北部地震での小学校ブロック倒壊から始まった調査で、全国で小中学校だけで800以上の危険状況が見つかったそうです。
また今回、予想外の豪雨とは言え200人以上の死亡者を出したことによって、全国の治水行政は早急の見直しを迫られることでしょう。
今回の説教(録画)の中で、オウム真理教の何が若きエリートたちを惹きつけたのかについて触れています。
バブル経済の背後での個人のレゾンデートル(存在価値・存在理由)の喪失につけ込んだ洗脳、そして暴走。
その彼らの死刑執行が一斉になされたことと、今回の天災でより露わになった「日本というシステムの金属疲労」・・・・。
「幕引き」どころかむしろ巻き込み繋がりながら、より深淵に向かって転がり続けているように思えます。
その中で、信仰は何を私たちに問いかけているのか。答えを聖書の中から探し続けていきたいものです。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』20章1-16節 

序.
 昨年、教団の会議で千葉に出張した折り、新潟・成田間を往復する飛行機に乗ったことがありました。
ガラス窓におでこを貼り付けて下界をのぞき込む姿はいささか恥ずかしいものがありますが、
子どもの頃に飛行機に乗ったことがなかったので、もう40をすぎたいいおじさんになっても、いまだに童心に返ってしまいます。
景色にも感動するのですが、もっと感銘を受けるのは、地上で雨が降っていても、雲の上にはただ青空が広がっているということです。
今回、それを逆の形で経験しました。空の上では日光がまぶしいほどだったのに、新潟空港に下りたら雨がしとしと降っていました。
 意外かもしれませんが、福音書の中で「天の御国」という言葉を使っているのは、このマタイだけです。
マルコの福音書、またルカの福音書では、「神の国」という言葉を使います。しかしマタイに限って、必ず「天」という言葉を使っています。
マタイはおそらく飛行機に乗ったことはないと思いますが、天という言葉の持つ圧倒的な解放感を知っていたのではないかと思います。
今までも繰り返し語ってきましたが、「天の御国」というのは、人が死んだ後に行く天国のことではありません。
私たちがこの人生でイエス・キリストを信じたときにすぐに始まる、神に祝福された新しい生き方のことです。
しかし天国と誤解されることを恐れないで、イエス様が説かれた神の国をマタイが必ず「天の御国」と書いていること、
それは地上で生きていても、私たちはこの解放的な天の醍醐味を、キリストを信じたその瞬間から味わうことができるということです。
 もしかしたらクリスチャンの多くが、自分でもその醍醐味に気づいていないまま歩んでいるのかもしれません。
しかし私も実際に様々な失敗やトラブルを通してわかったことですが、神の知らないことはこの世界には何一つありません。
もう自分の手には負えない、と思うとき、そこには、すべてをはじめから終わりまでみつめておられる神のまなざしが必ずあるのです。

1.
 イエス様は、今日のたとえ話のなかで、天の御国は「労務者を雇いに出かけた主人のようなものです」と表現します。
ですからこの物語の主役は、雇われた人たちではありません。彼らを雇った主人、つまり神様のほうなのです。
 しかし雇われた人たちは、自分たちのほうをあたかも主役として考えているかのように、イエス様はこのたとえ話を語っています。
ある人は朝9時から夕方まで働きました。ある人は12時から夕方まで働きました。ある者は3時から夕方まで。
そして最後の者は5時から夕方まで、ほとんど働いていません。
だからいちばん働いた人は、最後の人にも同じように扱って同じ一デナリを与えた主人に対して、不公平だと訴えます。
働いた人が、働かなかった人から報酬を多くもらえるのは当然だからです。それが社会の一般常識ってもんです。
しかし神の思いは人間の常識とは違います。むしろ逆方向を向いているのです。
主人は、丸一日働こうが、一時間だけ働こうが、すべての人に同じように一デナリを与えました。
労務者たちはこの一デナリは働いた報酬と考えました。しかし主人にとって、これは報酬ではなく、プレゼントです。
 もう一度最初に戻ります。天の御国は、労務者を雇いに出かけた主人のようなものです、とイエス様は言っています。
これが、神が私たちに与える救いの本質です。私たちがどれだけ働いたかによるのではありません。
必要なことは神と出会うこと。そして人と比べるのではなく、ただ感謝をもって受けとること。
私たちがどれだけよい行いをしたかが救いを決めるのではありません。ただ神が私たちをあわれんでくださった。
その恵み、あわれみを神からのプレゼントとして受け取るとき、「天の御国」と呼ばれる、圧倒的な解放感にあふれた人生が始まります。

2.
 先週、オウム真理教の麻原教祖をはじめ、数名のオウムの幹部の死刑が執行されました。
いまだに麻原を救い主として崇める宗教団体が存在し、しかも若い人々を中心として信者を獲得しているそうです。
しかし実際には、驚くには値しないのかもしれません。それだけ、人々は救いに飢えているのです。
そして彼らは、救いというのは人間の努力や苦行によって得られるものであると信じています。
 しかし聖書は、人間は自分で自分を救うことができない、とはっきりと言います。
煩悩、因果、罪、・・・宗教によって表現は違いますが、
人の心に渦巻いている罪の性質はどれだけ体を痛めつけても、心を鍛えようとしても、決して解決することはできません。
二千年前の熱心なユダヤ教徒であったパウロもそのような方法で解決を求めました。
しかし彼はクリスチャンになった後でこう言うのです。「そのようなことをしても、かえって罪の意識が強くなるだけだった」と。
人間が、目が開かれれば開かれるほど、心が研ぎ澄まされればすまされるほどわかるのは、救いではなく、自分のみにくさです。
そのみにくさは、代わりに何か良いことをして帳消しにできるほど生やさしいものではないことに気づくのです。
ではどうすればよいのか。ここに聖書ははっきりと答えています。
その罪すべてを、イエス・キリストが十字架の上で引き受けてくださったと信じることだ、と。
 あらゆる人間は、やがて自分の罪の責任をとらなければなりません。
しかしその責任を、イエス・キリストが十字架の上ですべて代わりに引き受けてくださったのです。
イエス・キリストはまことの人であり、またまことの神でもありました。人であるゆえに私たちの身代わりになることができました。
神であるゆえに、完全に私たちの罪を帳消しにしてくださいました。
このキリストの十字架を信じるものは、あらゆる罪が赦されているのです。
過去犯してしまった罪も、現在犯している罪も、将来犯すかもしれない罪も。
永遠に、完全に人間の罪を引き受けたのがイエスの十字架です。これがキリスト教の恵みであり、救いです。
他の宗教が人間の努力で行おうとするものを、キリスト教はイエスにすべて背負ってもらったと告白するのです。

3.
 クリスチャンになった後も、罪の重荷と、良心の呵責に苦しみ続ける人々もいます。しかしいつまでもではありません。
救いの主役は人ではなく神であることをおぼえてください。私たちがどれだけ努力しても、罪は消えるどころか存在を強めていきます。
自分ががんばらねば、自分が努力せねばという思いを捨ててください。
私たちがどのような者であろうとも、神が私たちをきよくするために選んでくださったのです。
そしてイエス・キリストの十字架によって救いを与えてくださったのです。
そこに留まるとき、私たちの心は罪悪感ではなく感謝に満たされます。
クリスチャンが救われた後、神を喜ばせたいと思うのは当然のことです。
しかし努力によって神を喜ばせようとするならば、やがて疲れます。
むしろ神を喜ばせたいと願うならば、一週間の計画表に何かの行動をメモするときに、必ず「神が」とひと言書き入れてください。
私が、ではなく、神が、というひと言を、どんなことにも書き加えるのです。
私たちが自分の努力で礼拝に出席しているというよりも、神が私たちのうちで働いて、礼拝へと導いてくださいました。
この一週間で誰かにイエス様を伝えよう、という思いがあるならば、それが私が伝えるのではなく、私を通して神ご自身が伝えるのだ、と。
 救いの恵み、その主役はあくまでも神です。私たち人間ではなく、あくまでも神ご自身です。
救い、それは一日中、誠実に休むことなく働く人への報酬ではありません。
たとえほとんど働かなかった、働けなかったとしても、神様があなたに気前よく与えてくださる恵みなのです。
あなたにできることは、ただ神様のもとに近づき、「救い」という銘が刻まれている、天の一デナリをもらうことだけなのです。

posted by 近 at 21:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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