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2018.7.29「人生を裏返す出会い」(ヨハネ4:1-30)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
この教会ブログを開設したのは2012年からですが、それ以前の約10年間の説教原稿も一応データで残してあります。
8年前(2010年)の礼拝説教に、今回と同じ聖書箇所から語った「水がめ下ろしたサチコさん」というメッセージがありました。
今は、幸いなことに教会に子どもたちが増えたので、こんなオトナ向けの導入はなかなかできませんが、懐かしかったので参考までに。
 私の名前はサチコ。幸せな子と書く。幸せな人生を歩めますように、と数年前に死んだ母親がつけた。
でもその願いとは裏腹に、もう5回、結婚に失敗した。同棲相手はいるけれど、最近は二週間に一回しか帰ってこない。
母親は彼を連れてきた時、開口一番「お前はつくづく男運がないね」とため息をついた。
でも私に男運がないのは母親のせい。母親だって結婚に失敗したじゃないか。私は父親の顔を知らないまま大人になった。
もし子どもが生まれたら、私や母親と同じような痛みは与えたくない。両親が揃っている家族の温かさを教えてあげたい。
だけど5回の結婚生活は、どれも子どもが生まれる前に終わってしまった。
 今は派遣社員として隣町の自動車部品工場で働いている。
毎朝、工場から迎えに来るマイクロバスに乗り、一日部品を組み立て、夕方になるとまたバスに揺られて安アパートに帰ってくる。
帰宅後の楽しみは新聞の折り込みチラシに目を通すことくらい。タイムセールの文字を見つけると、宝島を発見したような気分になる。
でも私は絶対タイムセールには行かない。客が一番少ない時間を見計らって、必要なものだけをさっと買い、さっと帰る。
知り合いに会いたくないし、話したくないからだ。誰にも私の生活を見られたくない。誰にも私の心の中身を見せたくない。
当時はリーマンショックからまだ立ち上がれていないような頃で、派遣切りや生活保護のことがマスコミでよく取り上げられていました。
あれから8年、アベノミクスで株価は2倍になりましたが、多くの人の生活は変わっていないどころかむしろ悪化しているかもしれません。
二千年前のサマリヤ人女性の姿に、生活に苦しむ現代人の姿を重ねる説教の視点は、あの時も今も変わりません。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』4章1-30節 


1.
 「依存症」という言葉を聞いたことがあるかと思います。
よく言われているのは、やめたくてもやめられない、それが依存症である、と。
アルコール依存、薬物依存、ニコチン依存、カフェイン依存という物質系のものから、
ギャンプル依存、買い物依存、インターネット依存、仕事依存、パチンコ依存、
しかしアルコール依存の人がアルコールを断つ、ネット依存の若者がパソコンやスマホを捨てる、
それは本当の解決にはならない、と専門家は言います。
「なになに依存」の「なになに」に問題があるのではない、
問題はそれらにすがらなければ自分をありのままで受け入れることができない、という心の深みにあるものだ、と。
 これらに関しては、人の受け売りである私の説明よりも、
実際に家族や本人が経験し、戦っている方々がこの中にもおられるかもしれません。
しかしこの問題は、決して現代特有のものではないということを聖書は伝えています。
二千年前の人物であるこのサマリヤ人の女性は、男性への依存を抱えていました。
彼女が今まで5人の男性を夫とし、いま一緒に暮らしているのはあなたの夫ではない、とイエス・キリストは彼女の人生をえぐりました。
幸せな結婚生活、理想的な夫婦生活をだれよりも望んでいながら、それを何度リセットしても途中で破綻してしまう、
それを繰り返し続ける人生パターンの中に、彼女は苦しんでいます。
自分ではその苦しみを認めようとしないけれど、心の奥に深い痛みを抱えています。
その証拠に、彼女は第6時、すなわち正午に水を汲みに来ました。
当時のイスラエルでは、井戸に水をくみに来る仕事は早朝と夕暮れ前、女性たちが行う日課でした。
そして井戸端が女性たちにとってのコミュニケーションの場になっていたのは、イスラエルに限らず万国共通です。
しかし彼女が正午に井戸に水をくみに来たのは、彼女が他の人々と関わりを避けていたということを表しています。

2.
 しかし自分から交わりを求めようとしないこの女性に対し、イエス様は交わりを求めていました。
4節にこうあります。「しかしサマリヤを通って行かなければならなかった」と。
このときイエス様一行は、エルサレムからガリラヤへ行こうとしていました。
それは、必ずしもサマリヤを通っていかなければならない一本道ではありません。
しかし「サマリヤを通って行かなければならなかった」、その理由は、そのサマリヤに、救いを必要としていた人がいたからです。
誰とも交わりをしようとしない、ひとりの女性。
彼女が神も救いも求めていないとしても、イエス様のほうは神ご自身であるお方として、彼女を求めていました。
だからサマリヤを通って行かなければならなかった。
 ここに書かれてある出会いは、偶然の出来事ではありません。
イエス様がこのスカルの町のひとつの井戸でこの女性に話しかけたことから始まる救いの物語は、
この世界が造られる前から、神によって計画されていたことの実現でした。
 私たちもそうなのです。
教会員の方々がこの教会の一員であり、求道者や客会員の方々がこの礼拝に導かれていること、それもまた偶然ではありません。
そこには神のご計画があります。
いまこの瞬間だけでなく、私たちが過去に通ってきた、楽しかったり辛かったりのあらゆる出来事の中にも、神のご計画が働いています。
神は、私たちを救いへと導くために、傷や痛みを含めてあらゆることを用いて、私たちの人生を闇から光へと裏返してくださるのです。

3.
 神がここにひとり一人を招いてくださった以上、私たちはいま神に受け入れられている者たちです。
この女性は、イエス様が与える永遠のいのちの水を、別の水と誤解しました。
そしてもう汲んでこなくてもいいようにその水をくださいと言います。
それをイエスさまは怒りません。さばきません。彼女の生活の苦しみを知っているからです。
たとえ生ける水の意味を彼女がすぐにわからなくても、イエスさまはわかるまでいつまでも待ってくださいます。
 しかし「聖書がわかる」ということは、多くの場合、痛みを伴います。
人は、何も失うことなく、新たな圧倒的な何かを手に入れることはできません。
このサマリヤの女性にとっては、自分が触れてほしくないことに触れられるというのが、その「痛み」であり、救いを得るための犠牲でした。
イエスさまは唐突にこう質問します。「あなたの夫を呼んできなさい」。
おそらく、そこから彼女が次の返事をするまでに、彼女はつばを飲み込んだことでしょう。
彼女は短く、こう答えます。「私には夫はありません」。
この時、イエスさまは彼女の心の中に切り込みました。彼女が変わるために。
彼女自身を苦しめてきた男性への依存、いや束縛を振り払い、新しい解放を得るために。
 多くの宗教や、また自己啓発セミナーのたぐいでも、他人を変えるんじゃない、自分を変えるんだ、と言います。
ではどうしたら自分を変えることができるのか。聖書にはその答えがあります。
あなたが変わらないように押さえつけている罪をすべて告白し、公に捨て去って、代わりにイエス・キリストをその心に受け入れるのだ、と。
しかしそれも自分の力ではできません。
自分の力では罪を認めることも、罪を捨て去ることも、救い主イエス様、と叫ぶこともできません。
だから、神の御霊が私の心を動かしてくださるように、求めましょう。
自分の力ではどうすることもできない私の心を開くことのできる唯一のお方、神ご自身を、心の中に受け入れてください。

結.
 問題を人のせいにする人生は楽です。つい最近、ある女性タレントが「夫源病」という言葉を使っていました。
「夫がストレスの源である病気」という意味だそうで、このタレントの造語ではなく、ある医師の考えた病名だそうです。
そんな病気にかかったら楽なものです。
妻が原因の「妻源病」、会社が原因の「社源病」、学校が原因の「校源病」、ほぼ無限に作れます。
しかし私たちが自分の罪を認めず、だれかのせいにし続けるならば、罪はいつまでも私たちの心に居座ります。
自分の罪を認めて、神のひとり子イエス・キリストがその罪をすべて引き受けてくださったことを信じるなら、私たちの人生は解放されます。
いつまでも私たちを放そうとしない罪の重荷から解放され、まったく新しい人生、永遠のいのちを楽しむ人生に入ることができるのです。
 この女性の前半と後半の圧倒的な違いを今日の聖書の言葉から味わっていきましょう。
「水瓶をおいて、町の人々のところへ行った」というのは、彼女の人生が、イエス様との出会いの前後でまったく変えられたことを意味しています。
この新しい人生を、今日受け取ってみませんか。
飲んでも飲んでもすぐに渇く水の繰り返しのような人生に別れを告げましょう。
決して渇くことのない、イエス・キリストを心に受け入れて歩んでいきましょう。
そのためにお祈りをしたいと思います。

posted by 近 at 14:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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