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2018.8.5「美味くて不味いもの」(マタイ5:10-16)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
当教会では日曜午前9:00〜10:00までが教会学校の時間なのですが、実際には9:30から賛美やメッセージが始まります。
それまでの30分、子どもたちは少しずつ集まってくるのですが、やや時間を持て余しているような感じになっています。そこで考えました。
子どもも大人も時間を忘れて夢中になれる遊びはないか。できれば遊びに疲れて、メッセージの時静かになるようなやつ。
あります。ピンポンです。いや卓球です。もと中条中学校卓球部の私が言うのですから間違いありません。
とはいえ本格的な卓球台を導入するには会堂がちと狭すぎます。子どもたちにも本格卓球は敷居が高すぎるでしょう。
そこでコンパクトかつ折りたためて、アウトドアでも使えるようなものを探してみました。参考にしていただけたら幸いです。

1)キャプテンスタッグ 卓球台ポータブルセット UX-2549 (市場平均価格19,000円)

キャンプ用品のシェアNo.1、ヘラジカのマークで有名な「キャプテンスタッグ」(パール金属)の製品です。
うちの洗面所で使っているマグカップもキャプテンスタッグです。新潟県三条市に本社があります。
バーベキューの後はピンポン!みたいなノリでしょうか。足元は普通のアルミテーブルと変わらないじゃんと突っ込みたくなります。

2)カイザー ミニ卓球台 KW-363 (市場平均価格9,000円)

見かけは上記キャプテンスタッグ製品とほとんど変わらないように見えますが、価格は半額です。
その分、造りが甘いのかもしれませんが、高さを二段階に調節できるので、子どもから大人まで楽しめそうです。

3)ニッタク ミニ卓球台「ピポン」(NT-3301) (市場平均価格16,000円)

卓球少年少女のあいだで知らない者はいない、卓球用品メーカーの帝王「Nittaku(ニッタク)」。
当時、Nittakuのボール(ピンポン玉)は一つ星(ワンスター)から三つ星(スリースター)まで販売されていて、
違いがわからないのに三つ星を持っているだけで上手いと思われていた中坊時代でした。Nittakuのせいじゃないけど。
そんな卓球界の専制君主Nittakuが、まさか邪道ともいうべきコンパクト台に手を広げていたとは。フランス革命よりビックリです。
とはいえさすがNittaku。いかにも卓球台という黒板色がなんとも言えません。しかもキャプテンスタッグより安いのね。

ところが帝王Nittakuの威光さえ軽く吹き飛んでしまうような、驚愕の卓球台を発見しました!
4)三英(サンエイ) ITTF公認卓球台 インフィニティー (市場平均価格860,000円)

ククク・・・・この圧倒的デザイン、ほとんど聖餐卓。
教会学校では卓球台として、礼拝では聖餐卓として使用したら夢のようです。そんな不埒な考えさえ起こしてしまうインフィニティ(無限)。
ただしお値段は税込86万円とまさに悪夢です。妄想だけで満足すべきですね。今週の物欲のコーナーでした。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』5章10-16節 


1.
 イエス様は、ご自分の弟子たちに語りました。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」。
義とは、正義という意味ではありません。何が正義は、その時代において変わってくるからです。
今から73年前の1945年8月5日、広島に原爆が落とされる前日、現人神である天皇のために命を捨てることがその時代の正義でした。
しかしわずか10日後の8月15日には戦争が終結し、天皇の人間宣言をもって、正義の意味は変わりました。
日本だけではなく、世界中がその時代ごとで正義とは何かをころころ変えてきました。
「義のために」とは、そのような人の正義、世の正義ではなく、神の正義です。
神の正義とは、聖書に示された神のみこころ。それにしたがって生きていくことです。
そして移りゆく人の正義と、変わらない神の義とはしばしば対立します。しかしイエス様はそこで私たちにこのように語られているのです。
「この二つの義が対立する世界において、あなたはどちらを選ぶのか。・・・神の義を選ぶ者は幸いである。
人の義を第一とする者たちが、ありもしないことであなたをののしり、迫害し、悪口を浴びせるとき、あなたは幸いである。
そのとき、天の御国は、すでにあなたのものなのだから。」
 先日、『沈黙』という映画を有志で鑑賞しました。小説を読んだのは高校生の時でしたが、その時私はまだクリスチャンではありませんでした。
数十年経ってその映画を見たときに、キリシタンたちが命を賭けた「踏み絵」や「逆さ十字架」を、リアルな思いをもって受けとめました。
「殉教者の血は教会の種子である」という言葉が映画の中でも語られます。
これはイエス様がこれを語られたときから約200年後、ローマ帝国による大迫害の時代に生きたクリスチャン、テルトゥリアヌスのことばです。
その言葉のとおり、帝国から迫害を受け続けたクリスチャンは、約300年間の忍耐のあと、勝利を勝ち取るのです。
 対して、日本の教会はどうでしょうか。歴史の中で、キリスト教が大ブームになった時代が3回ありました。
一度目は、戦国時代から安土桃山時代。映画「沈黙」はその直後にあたります。この時の宣教師がフランシスコ・ザビエルです。
二度目は、明治から大正にかけての頃。ローマ字で有名なヘボン、また「少年よ大志を抱け」のクラーク博士もそこに入るかもしれません。
そして三度目は昭和の終戦後からのしばらくの期間。マッカーサーの肝いりで、とくにアメリカから宣教師がたくさん来日しました。
しかしその三つのどれも、人々が惹かれたのは聖書の教えでもイエス・キリストでもなく、宣教師が持ち込む珍しい文化の香りでした。
最初の時代には南蛮文化、明治大正期には欧米文化、終戦後は豊かな物質文化、
しかしそのいずれも、人々は聖書の教えを受け入れる前に文化に飽きてしまい、教会から去って行ったのです。

2.
 日本人として、そしてこの時代に生きるクリスチャンとして、「迫害されている者は幸いです」というイエス様の言葉を改めて心に刻みつけます。
私たちはこの言葉を受け入れず、むしろ迫害されないように知恵を凝らしてまわりを操作することにエネルギーを費やしてきたのではないか、と。
確かに自分がクリスチャンであることを公言しなければ迫害されることはありません。
周囲にひしめく矛盾に見て見ぬふりをすれば、うまくやり過ごすこともできます。
しかし使徒パウロは「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」とテモテへの手紙に書き残しています。
「敬虔に生きる」とは、修道院に入って世と隔絶して生きる暮らしのことではありません。それは、クリスチャンとして無理をしない生き方です。
人はイエス・キリストを信じて救われた時、心を作り変えられて、たましいの自由を受けとります。
そして自由にされた者は、幼子のような者です。後先のことは親に任せて心配せず、自然に口を開きます。
無理をして沈黙したり我慢するということがありません。
真の敬虔さは、私たちが心からイエス様を喜び、この方をいつもかたわらに感じ、誰かに聞かれたら教えてあげたいという自由な心の状態です。
 それが、「あなたがたは世の光です」というイエス様の言葉です。これは命令ではなくて、いまそうされているという事実です。
神を喜び、自然に笑顔が溢れてくる、キリストにある敬虔さに生きようとするとき、イエス様の香りが隠そうとしても内側から漏れていきます。
まさに「山の上にある町は隠れることができない」のです。
しかし誤った正義に口を閉ざさず、神の義を優先する、その敬虔な生き方に対しては、パウロの言葉のとおりに、必ず迫害が起こるのです。
しかし恐れてはなりません。小手先で操作して避けてもいけません。
クリスチャンにとって、迫害はバリウム検査のようなものです。喜んで飲みたいと思うものではありません。
逆さ十字架の刑ではありませんがぐるぐる回されたあげく、げっぷしたらやり直しとか言われます。
こんなたとえは不謹慎と言われるかもしれませんが、はじめから検査について知っているから耐えられないものではありません。
そしてこのささやかな忍耐を通して、胃腸に潜む悪しきものがX線によって映し出され、ある人はその後直接、生活習慣を指導されたりします。
バリウムならぬ迫害を通さなければ、私たちは見えない何かにいつも怯え続け、誤った信仰理解に気づかないまま歩むかもしれません。
もちろん、迫害は死さえも繋がります。しかし天の御国が約束されている私たちは、地上の死はただの通過点でしかないことを知っています。
神様はそれにまさる喜びを心に与え、唇には証しの言葉を与えてくださいます。
そしてこの暗やみの世を唯一照らすことのできる光として、私たちを用いてくださいます。

3.
 最後に、「地の塩」と関連して、江戸時代初期に「天下のご意見番」と呼ばれた大久保彦左衛門の逸話を紹介します。
ある時、将軍家光が戯れに「天下一の美味は何であろうか」と聞くと、彦左衛門は即座に「それは塩でございまする」と答えました。
家光が理由を尋ねると、
「鶴にしても鯛にしても、塩気がありませんでは食べられたものではございませぬ。塩さえあれば、それだけでも飯はおいしくたべられまする」
「塩が天下一の美味とはまことにおもしろい。それでは天下一の悪味は何であるか」
すると彦左衛門、即座に「それも塩でございまする」
「なぜか」
「他のものならどれだけでも食べられますが、塩と申すものはそれだけではひとさじも食べることはできず、こんなまずいものはございません」。
そしてそそそと膝立ちで若き将軍、家光のそばに近づき、さらにひと言。
「本当に結構なものを人は喜びませぬ。諌言もまたその通りでございまする」。
 作り話かもしれませんが、イエス様を信じる者たちが「地の塩」とたとえられているのは、まさにこのとおりではないでしょうか。
塩は味付け役でもあり、防腐剤でもあります。そして地の塩たる私たちは、己の幸せではなく世を活かすために存在しています。
しかし神の義をいつもその中心に置くがゆえに、人々からは喜ばれず、むしろ迫害を受けることもあります。
しかし恐れてはならないのです。世の光、地の塩として神に期待されていることを忘れずに歩んでいきましょう。
必ず、人々がその歩みを見て、神をほめたたえる恵みが与えられるのですから。

posted by 近 at 23:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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