最近のニュース記事を見かけ、思うことがありました。リンクはそのうち切れると思うので、見出しを残しておきます。
ご当地ヒーローの“正体”さらした町議が炎上し謝罪(日刊スポーツ)
内容については肖像権の侵害ということになるのでしょうが、感じている問題点はそこではありません。
いちいち、不特定多数の人が関わるツイッターやFacebookを経由して、抗議や抗弁をするのはどうしてなのでしょうか?
直接連絡を取って伝えればよいのに、なぜあえてSNSで拡散してでなければ向き合えないのか。
相手が匿名の存在であればSNSを使うのもわかりますが、事務所やプロダクションの連絡先もわかるはずです。
本人たちが気づいているかはともかく、おそらく自分に同意してくれる人たちの支持をとりつけるためなのでしょう。
しかしそのせいで、個人的に話し合えば納得できるものが多数の第三者を挟んでしまい、傷口を広げることが多いのです。
今回は、夫婦について説教で取り上げました。
一昔前、声をかければ届く距離にいる夫婦がわざわざ携帯メールで用件を伝えるやりとりが笑い話になったことがありました。
しかし今は、夫婦げんかが起こるとすぐにそれぞれがSNSで拡散して「自分は悪くないよね」という時代になっています。
「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」(マタイ18:15)二千年前に語られたイエス様の言葉は、今日の情報過飽和時代にも当てはまります。週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』2章18-25節
1.
今日の礼拝説教は、最初の人間、アダムとエバを神が創ったことを通して語られている、結婚についてです。
子どもたちや学生さんにはまだ早いかもしれません。
逆に、いまさら言われてもねェという、諦めの境地にある夫婦もいるやもしれません。
しかし聖書の教えは永遠に変わることがありません。そこから教えられることには、早すぎるということも、遅すぎるということもありません。
逆に、世間で語られる結婚は、目まぐるしく変わります。
私が結婚適齢期であった90年代には、女性が結婚相手に求める条件として「三高」が言われていました。高学歴、高収入、高身長です。
私が結婚した頃、それが「四低」に変わりました。女性に頼らない「低依存」、俺が俺がと押しつけがましくない「低姿勢」、
安定した仕事の「低リスク」、そして長男坊ではないこと。私はどれも満たしていませんでしたが。
そのあとも数字と漢字を掛け合わせたいくつかの言葉が生まれ、今は「三生」だそうです。生存力、生活力、生産力。
さらには、男性同士、女性同士の同性婚についてもわからないでは済ませられない時代に来ています。
このように、この社会の結婚観はまるでネコの瞳のようにくるくると変わっていきます。
しかしもう一度繰り返しますが、聖書が教えている結婚は、時代によって決して変わることがありません。18節にはこうあります。
「その後、神である主は仰せられた。人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」。
神は男性、女性をそれぞれにふさわしい相手として備えてくださっています。
さらに21節から24節までの言葉を通して、人間ではなく神さまのイニシアチブ、主導権の中で導いてくださいます。
その人の知らないうちに、その人の骨から造り、目の前に連れてきて、一心同体として結ばせてくださった、と。
2.
結婚というのは、男女お互いが、お互いの欠けを満たすことと言われます。
確かにそれは半分事実ですが、どんな二人でも組み合わされて100%になれるということではありません。
自分が大人として7割欠けている30点の人間なのに、祈っていれば70点のパートナーが与えられて、二人合わせて100点満点、
よく言えばロマンチスト、悪く言えば虫のいい話ですが、聖書が語っているのはそういうことではありません。
24節ではこうあります。「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」と。
ここで神が語られている結婚とは、父母という関係を離れて、夫もしくは妻とともに生きていく、という自立した心が前提とされています。
夫婦げんかが起きるときというのは、相手の言動にカチンとくることから始まるのですが、
それが見過ごせないほどになるのは、ふだんは心の奥に隠して認めたくない、自分自身の醜さを、その相手の姿の中に見いだすからです。
その自分自身の醜さというのは、多くの場合、子ども時代から見てきた父親、母親の姿にある醜さ、ということができます。
その意味で、親子関係が自立、独立していること、親の欠点と自分の欠点の繋がりを引きずっていないこと、
それが聖書のいう、「人は父母を離れて」、という大前提です。
しかしある人々は言うでしょう。だとすれば、世の中のほとんどの夫婦は、結婚するのが早すぎた、ということになってしまうのではないか、と。
もちろん最初から100%になれる夫婦はありません。しかし何としても結婚したい、という前に、自分自身を高める「努力」、
あえて努力と言いましたが、自分自身を高めていく営みを結婚する前にも結婚した後にもお勧めします。
確かに夫婦の欠けを満たしてくださるのがイエス・キリストです。しかしそのイエス・キリストに頼りつつも、相手のことを自分を愛するように愛する、
自分の欠点を相手の中に見いだしたときにはそれを赦し、自分自身の赦しも相手に乞いながら、キリストにある完全を目指して歩んでいく、
という夫婦像を私たちは聖書から受けとっていきたいものです。
これは夫婦一方だけがクリスチャン、あるいは神を求めている人という場合でもっても、同じことではないでしょうか。
3.
神様はふさわしい助け手として、アダムのあばら骨からエバを造られました。
ここに、夫婦とは、同じ骨からという同質性とともに、肋骨からからだ全体という異質性、ひらたくいえば似ているけれど確かに違うのです。
夫婦は、お互いに相手に対して、よくも悪くも自分自身と同じ姿と、やはりよくも悪くも違いを感じずにはいられない姿の両方を持っています。
その両方を受け入れながら、私たちはそれぞれがやがてキリストの花嫁として歩んでいく訓練を受けているのです。
神様が、その人だけのパートナーを、この世界が造られる前から定め、自分の知らないところで備えてくださったのは確かなことです。
自分とは違う考え方や好みを受け入れながら、生活を共にしていくことで忍耐と愛を学んでいくのが結婚生活です。
言い換えると、あなた自身からつくられた唯一のパートナーを通して、あなたという人格を完成させていく旅が結婚です。
私たちが神からふさわしい助け手を与えられ、お互いに愛し合い、お互いに仕え合う。
そんな地上の結婚生活は、私たちが地上の人生を終えた後、キリストの花嫁として迎えられる、永遠の御国のリハーサルと言ってよいでしょう。
リハーサルは失敗を繰り返して本番に備えるものです。本番への不安を消してくれるものです。
結婚生活を楽しんでいきたいと心から願います。口で言うのは簡単で、妻の視線がやや心に突き刺さってきますが。
最近は、嫌婚という言葉が生まれているようです。
ケンは嫌う、コンは結婚の婚です。これも、時代によって結婚観がどんどん変わってきていることのあらわれかもしれません。
結婚とはロマンチックな響きのある言葉ですが、決して永遠に続くものではないし、人間の失敗によって傷ついてしまうこともあります。
実際、神に導かれたこの最初の夫婦、アダムとエバは、次の章では誘惑に陥って罪を犯し、お互いに責任をなすりあうようになってしまいます。
しかしどんなに夫婦がかように不完全なものであったとしても、神様は結婚の教えを通し、
イエス・キリストにあって、異なる者同士がひとつとなり、ともに愛し合うすばらしさを教えています。
もし結婚や、実際の夫婦生活のなかに失望を感じていたとしても、
イエス・キリストをもう一度ふたりのあいだに迎え入れるならば、私たちはいつでも気づいたところからやり直すことができます。
まだ未婚の方々は、結婚を求める前に自分を高めることをおぼえてください。すでに結婚された方は、相手を高めることをおぼえてください。
神さまが人間に与えてくださった結婚という恵みをいつもかみしめながら歩んでいきたいと願います。