台風21号および北海道地震の被災者の方に励ましが与えられるように祈ります。
同盟教団の災害連絡室からの情報では人的被害を受けた教会はないようですが、ライフラインが一日も早く復旧しますように。
台風に関しては、関西地方のような直撃はありませんでしたが、豊栄でも強風が吹き荒れました。
築ウン十年の牧師館もガタガタ揺れて眠れない夜を過ごした翌朝、洗面所に立つと窓の向こう側から誰かが手を振っています。
びっくりして目をやると、か細いクモの糸に繋がった枯れ葉が一枚、さかんに風に揺られて動いていました。
上下左右に激しく動いていので、誰かが外で手を振っているように見えたのですね。
びっくりしたと同時に、あの強風の中で、よく飛ばされなかったものだと感動しました。
芥川龍之介が「蜘蛛の糸」を書きたかった気持ちがよくわかります。肝心のクモはどこへ行ってしまったのでしょうか。
ともあれ、主のいなくなった枯れ葉は、その後も飛ばされることなく、今日も洗面所の外から元気に手を振っています。
外から写真を撮ってみたのですが、糸は細すぎて映りませんでした。

というか、窓ぎわにこれでもかと並べられている洗剤やら化粧品やらのほうが気になります。
自分のうちなのに。お恥ずかしい。空になっても捨てないで放置しているとこうなります。週報はこちらです。
聖書箇所 『マルコの福音書』14章17-31節
1.
茶道には様々な流派がありますが、まず薄茶から始めて、徐々に濃茶に進んでいくことはおおむね共通しているようです。
薄茶、濃茶とは文字通り薄いお茶と濃いお茶のことです。
原則、薄茶は一人ひとりに別の茶碗があてがわれ、濃茶は回し飲みをする流派が多いようです。
この回し飲みを作法として完成させた千利休は、一説では当時のカトリック教会の聖餐式で行われていた杯の回し飲みに触れたと言われます。そしてそこに込められている恵みの共有という教えからも影響を受けたのだ、と。
こんなエピソードがあります。関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に敗れた石田三成の親友に、大谷吉継という武将がいました。
二人の出会いは、彼らがまだ若かりし頃に行われた、豊臣秀吉の大茶会だったそうです。
大谷吉継は有能な武将でしたが、あの旧約聖書に出てくるナアマンのように、うみやただれを生じる重い皮膚病を患っていました。
そのため茶会ではどの武将も近くに寄ろうとしなかったところ、石田三成は彼の隣に自分から座りました。
ところが濃茶の回し飲みがこの大谷のところに来た時、あってはならないことですが、茶碗の中に膿が落ちてしまいました。
しかし石田三成は慌てる大谷からその茶碗をつかみ取ると、膿の入った茶ごと全部飲み干したというのです。
これ以来、吉継は三成のために死ぬことこそ本望と言い、関ヶ原の戦いでは三成を逃がすために壮絶な最期を迎えたとのことです。
私たちの教会では、聖餐の杯を回し飲みするということはしません。
しかし聖餐式が茶道に影響を与えたとすれば、次のことを改めて心に刻みつけたいものです。
この杯に注がれているのはまぎれもなくキリストの血潮であり、兄弟姉妹とともに、喜びも苦しみも飲み干す場にあずかっているのだ、ということを。
しかし一方で、同じように聖餐にあずかっても喜びが沸き起こるクリスチャンもいればそうでない者もいるという違いはどこにあるのでしょう。
次のことがらをおぼえるべきです。聖餐は私たちが当然のごとく参加できる権利ではありません。
だからこそ、バプテスマを受けていなければ、どんなに熱心な方でも聖餐にあずかることが赦されていないのです。
聖餐の本質、それは受けとる資格のない者に与えられる恵みです。
本来招かれるはずもない罪人を、ただキリストの十字架によって永遠の大茶会に招いてくださった神の恵みです。
それは決してあたりまえのことではありません。聖餐は恵み以外の何物でもないのです。
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2.
ぜひ、今日与えられた聖餐のみことばの前後をじっくりと見つめてみましょう。
前には何が書いてありますか。イスカリオテ・ユダの裏切りです。イエスはこう語られていました。
「人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」。
後ろには何が書いてあるでしょうか。自分の愛情と力を過信し、イエスの前で胸を張る弟子ペテロの姿です。
彼は言いました。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」。
ユダの裏切りと、ペテロの高慢。その両者にはさまれるような形で、最初の聖餐式がイエスご自身によって進められていきます。
イエスはパンを取り、祝福して後、これを割き、弟子たちに与えられました。「取りなさい。これはわたしのからだです」。
このときイエスは、それから数時間後には十字架にかけられて、文字どおり裂かれていくご自身のからだのことを思っていたかもしれません。
そして杯も取り、感謝をささげて後、こう言って与えられました。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです」。
聖餐の本質が恵みであるとすれば、十字架の本質はあわれみです。
ユダの裏切りも、ペテロの高ぶりも、すべてを包み込んでしまうあわれみの中で、イエスは十字架にご自分から進んで行かれました。
ユダだけではない、ペテロだけではない、私たち罪をもって生まれ、生き、蠢くすべての人間たちを救う神の愛、それが十字架です。
聖書66巻には、神のことばそのものよりも、人間の罪のほうがはるかに筆が費やされています。
しかし罪の現実に挟まれるようにして十字架が語られるように、ユダの裏切りとペテロの高慢に挟まれて聖餐の恵みはいまも輝きます。
この最初の聖餐の場がすでに証しされている十字架のすばらしさを、
すべてのクリスチャンがこの聖餐の場でかみしめて、キリストが再び来られる日まで、世に伝えていかなければなりません。
3.
自らを振り返ってみると、私たちはなんとたやすく十字架の恵みを忘れてしまうことでしょうか。
ユダのように簡単に誘惑と妥協する私たちは、私たちの古い人がキリストと共に十字架に打ちつけられたことを忘れてしまいます。
ペテロのようにすぐに自分の力を誇る私たちは、キリストが力ではなく弱さに生きる道を選ばれて十字架についてくださったことを忘れてしまいます。
その代わり、私たちの中に入り込んでくるもの。いや、入り込んでくるのではなく、死にかけていたものが私たちの中で息を吹き返すもの。
それが聖書で肉の思いと言われているもの。肉の思いは人を罪へと駆り立てるものですが、罪そのものではありません。
それだけに厄介です。なぜならば、肉の思いは、一見、人に好ましいものの姿をとるからです。
ウィリアム・ローという19世紀の神学者はこういう言葉を残しています。「人間のどんな良いわざも、プライドを増長させる機会となる」。
ユダはイエスを銀貨で売り渡し、ペテロはイエスを剣によって取り返そうとしました。
しかし神の子どもたちが富を得、力を得たとしても、それが神のみこころを聞こうとしない肉の思いから生まれたものであれば、
それはイエスが聖餐の場で明らかにした十字架による犠牲の道とは正反対であり、私たちを高ぶらせます。
だからこそ聖餐を受けるたびごとに、自らをよく吟味し、十字架を心に焼き印として刻みつけなければなりません。
十字架による勝利は、一見すると敗北であり、十字架で証しされた神の力は、一見すると無力のしるしでした。
私たちクリスチャンの生き様は、世の人が憧れるようなものではなく、むしろ敗北と無力の現れのようにしか見えないほど厳しいものです。
しかしイエスは最初の聖餐を通して弟子たちに真理を教え、教会はそれから二千年間、その真理を守り続けてきました。
その真理とは、あなたを救うのは富でも力でもなく、ご自分を恥と屈辱にゆだねられたイエス・キリストにゆだねることだけなのだということです。
聖餐を受けるたびに私たちは確信します。私の罪は、いや私たち兄弟姉妹の罪を、イエス様はことごとく十字架で身代わりとなってくださった。
それを信じる者には、永遠のいのちが与えられると約束されている。そして今、私はそのいのちを手にしているのだ、と。
どうか一人ひとりが改めて十字架と聖餐の喜びにあずかることができるように。