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2018.9.9「教会はこの岩(ペトラ)の上に」(マタイ16:13-20)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
北海道胆振(いぶり)東部地震の犠牲者のご遺族、また被災者の方々に慰めと励ましが与えられるように祈ります。
北海道の教会について、被災状況などはこちらをご参照ください。
日本同盟基督教団 緊急災害情報掲示板
北海道クリスチャン宣教ネットワーク(ホクミン)災害緊急支援本部

同盟教団の教会に関しては、教会員やその家族に人的被害はないということですが、
厚真町から近い苫小牧の教会では、人工透析を受けておられる方がおられるのでお祈りくださいとのことでした。
神学校の友人が「(本土の)台風は北海道に抜けました」と報道されるたびに道民としては悲しくなると言っていましたが、
いま北海道の教会のために何ができるのか、何をしなければならないのかを考えていきたいと思います。
ちなみに先週報告した「飛ばされない葉っぱ」は、まだ洗面所の窓のそとで手を振っていますのでご安心ください。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』16章13-20節 


1.
 「あなたは、生ける神の子キリストです」。このように告白したシモン・ペテロに対して、イエスさまはこのように言われました。
18節前半、「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」。
「岩」はギリシャ語でペトラと言います。人の名前であるペテロと音の響きが似ていますが、決して同じ意味ではありません。
イエスは、ペテロとペトラという言葉を並べることで、教会がペテロという人ではなく、ペトラ、つまり岩の上に建つということを強調しておられます。
ペテロは自他共に認める、イエス様の一番弟子でした。しかし人は必ず失敗するものであって、教会の土台はそこにはありません。
では教会の土台である岩とは何でしょうか。その答えは、「あなたは神の御子キリストです」という告白です。
しかし人間が頭で考えての告白ではありません。イエス様が次のように言われたとおりです。
「バルヨナ、シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」
イエス様は、ペテロというひとりの人のリーダーシップにではなく、神が示されたこの告白の上にわたしの教会を建てると言われます。
その告白こそ、「あなたは生ける神の子キリストです」。この方以外に、私たちが望みをおくことのできるものは決して存在しません。

 わたしの教会、つまりそこがキリストの教会である証拠は、看板に「キリスト」や「教会」ということばが入っていることではありません。
建物の上に十字架が立っていることでもないし、オルガンや燭台のような内装が示すわけでもありません。
ましてや、牧師や信徒の人間的魅力だとか、教会のアットホームな雰囲気だとか、−まあ、あれば良いに越したことはありませんが−、
そのこと自体が、その教会がキリストの認める「わたしの教会」であるしるしではありません。
人間的な欠点や、組織的な欠陥がたとえどれほど詰まっているような教会であろうとも、その教会が教会であるしるしは次のことです。
すなわち、「イエス・キリストこそ神のひとり子であり、ただ一人の救い主である」と告白する教会なのか、そうでないか、です。
それは単に主日礼拝といった公の集会の中で、イエスこそ神の御子であると告白している、ということではありません。
一人ひとりのクリスチャンは、それらの礼拝や祈祷会から、それぞれの家庭や社会、すなわち世に遣わされています。
その中で、イエスこそ神の御子であると、大胆に喜びをもって告白しているかどうか、ということを自分自身に問いかけていきましょう。

2.
 「あなたは生ける神の御子キリストです」とペテロは告白しました。しかしこの言葉そのものが魔法じみた力があるわけではありません。
聖書の中には、これとまったく同じではないけれども、イエスを神の子、救い主として告白している人々が多く登場します。
新約聖書における最初の殉教者となったバプテスマのヨハネは、イエスを見たときにこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
また弟をイエスに蘇らせていただいたマルタもまた、こう言いました。「私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております」。
それぞれが言葉は少しずつ違っていますが、イエスこそ神が私たちに与えてくださったひとり子であり、救い主であると告白しました。
 神は、ペテロをはじめそれぞれの心に示してくださり、イエスが主であるという告白を与えてくださいました。私たちもそうなのです。
あなたがキリストを信じてきた人生は、他の誰とも違います。イエスがあなたに与えてくれた証しは、あなただけのものです。
「わたしの教会をこの岩の上に建てる」とは、週報に信仰告白を印刷し礼拝の中で朗読することだけでは意味がありません。
それぞれの信者が、今日まで導かれた人生の中で受けとった恵みを、人々に語らずにはいられないような生き方を。
どんな証しでも良い、しかしそこには必ず一本の心棒がある。「私の語っている方こそ、神の子キリストなのだ」という、揺るぎない確信が。

 私が神学生の頃、ひとつの事件がありました。
ある集会に参加したとき、講師が「クリスチャンもエホバの証人のやり方をまねてもっと伝道すべきだ」と言ったので、苦情を申し立てました。
十数年後に教団の委員会で一緒のメンバーになりましたので若気の至りでしたと言って謝りましたが、今もそのときの思いは変わりません。
大切なのは、伝道方法をマニュアル化して、みんなが同じように伝道できるようにすることではないのです。
エホバの証人の情熱は学ぶべきだという人もいましたが、彼らのは情熱ではなく、むしろ伝道しなければ救いに漏れるという恐怖感です。
クリスチャンはイエス・キリストを信じた時、たとい何もしなくても、すでに救いに入れられています。
しかし救われた喜びにあずかったものは、主のために何かをせずにはいられません。
そこには恐怖感ではなく、喜ばせたいという思いがあります。たとえ力にならなくても、神はそのような子どもたちを喜んでくださいます。

3.
 10歳のこどもが親にイエス様のことを語るとき、そこには10年分の人生が凝縮されています。40歳には40年分、80歳には80年分です。
あなたが誰かにイエス様のことを伝えるとき、そこにはあなたの人生を、あなただけ特別な方法で初めから導いてくださった感謝があふれます。
私を導き、私を変えてくださったイエスこそ神の御子であり、ただ一人の救い主なのだという確信をいつも心に置いていきたいものです。
そうすれば、私たちの語る言葉、私たちの行動、それを通して、人は変えられていきます。それが19節に語られている、イエス様の約束です。
「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。
何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」。

 キリストの教会につながっている、私たちひとり一人に、天の御国のかぎがゆだねられています。
その鍵とは、今まで繰り返し語ってきた、「あなたは生ける神の御子キリストです」という信仰告白に他なりません。
私たちがイエスは主であるという確信に基づいて証しを立てていくときに、神は必ずそれに応じて、救われる人々を起こしてくださいます。
確かに日本でキリスト教が根づき、1%のクリスチャンが2%になり、10%になり、となっていったらすばらしいことです。
しかし神が私たちに求めておられるのは、何万人という数、あるいは国民の何%という、顔の見えない、言葉だけの成長ではありません。
実際、ローマ帝国でクリスチャンが爆発的に増えた時期は、キリスト教が国家公認の宗教となって、世俗化したときだったのです。
大切なことは、どれだけ人が集まるかとかいうことではありません。あなた自身が、この福音に触れて、どのように変えられたのか。
ひとりひとりが、救われた後、生きることの方向性がまったく変わり、生きることに感謝と恵みをおぼえて歩んでいるか。
もしこれらの問いにイエスと答えることができるならば、そのような人々が集められている教会こそ、イエスの言われる「わたしの教会」です。
そこに集う人々は、決して福音を恥としません。福音によって変えられた者は、福音をどんな形でも人々に伝えずにはいられません。
そのような教会が日本に満ちることに私は憧れてきたし、今もそのために祈っています。
「私の信じているイエス・キリストこそ、永遠の救い主である」という信仰の確信に立って、一人ひとりが歩んでいきましょう。

posted by 近 at 21:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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