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2018.9.23「しもべゆえの苦しみ」(ヨブ1:1-12)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨブ記』1章1-12節 


1.
 自分が最も信頼していた友人が、誰かから自分の悪評、中傷を吹き込まれて、信頼関係を失ってしまう。
私が初めてそれを経験したのは、中学生の時でした。
夏休みが終わると、親友が私をあからさまに避けるようになっていたので、おかしいなと思いました。
別の友人からその理由を明かされるまで、私はなぜ親友の態度がここまで変わってしまったのか、見当もつきませんでした。
もう一度話しをして関係を修復できたらよかったのですが、
その前に私が病気にかかってそのまま転校してしまったので、誤解を受けたままです。
『ヨブ記』を読みながら、そんな30年以上前のことを思い出しました。

 悪魔が天の会議で、神にヨブのことを吹き込んでいることは、読者は知っていますが、当のヨブにはいっさい知らされません。
この後、ヨブには次から次へと、筆舌に尽くしがたいほどの災厄が起こります。
そして友人たちは、ヨブに罪があるから、神がさばきとしてこのような目に会わせているのだ、悔い改めれば解決する、と諭します。
しかしヨブは決して悔い改めません。
なぜなら、ヨブにとって神とは、まさに永遠の親友、あるいは戦友ともいうべき存在だったからです。
もし私に罪があれば、友である神は、無言で罰を与えるのではなく、ことばによって教えてくださる。
それがこのヨブ記を貫く、信仰の神髄です。

 ヨブは、不幸には必ず原因があるというこの世の原理と闘っていました。
この原理は、「因果応報」ということばでよく知られています。
正しいことを行えば幸福があり、悪いことを行えば不幸がある、という考え方です。
わかりやすいがゆえに、人々を納得させる力があります。
年端もいかぬ保育園児でさえ、転んでしまったときに「やーい、バチが当たったんだ」とはやし立てられます。
それほどまでに、この因果応報という原理は、人々の心を支配しています。
この後に登場するヨブの友人たちも、この因果応報の原理にとりつかれていました。
ヨブ、君は自分では気づいていないかも知れないけれども、罪を犯しているのだ。だからそれが何か思い出して、すぐに悔い改めなさい。
そうすれば、神はあなたのすべてをまた元に戻してくれるにちがいない、と。
しかしヨブはそのような原理を決して認めません。友人たちに向き合う代わりに、天に向かってこう叫びます。
神よ、あなたは決して私に隠しごとをなさらないお方です。もし私に罪があるのなら、どうかことばを与えてください。
彼はひたすらそれだけを求めます。

2.
 私たちクリスチャンは、ヨブにまさるとも劣らない、神との信頼関係に入れられた者です。
しかしにもかかわらず、私たちは因果応報の考えのほうに立つことが多いのです。
「ヨブ記」を理解するうえで見落としてはならないキーワードは、「しもべ」という言葉です。
神はサタンに対して、ヨブを「わたしのしもべ」と呼びます。それは「奴隷」とか「召使い」という意味ではありません。
主人である神と、しもべであるヨブとは、強い信頼関係で結ばれています。
いや、結ばれていたはずなのに、なぜ神は沈黙したまま、無言で苦しみを与えるのか。それがヨブの叫びです。
私に罪があるのなら、あなたがそう私に語ってください。これがヨブの戦いです。
神は私が間違えた時には必ず教えてくださる。わたしに罪があるなら、必ずそう語ってくださる。
それが聖書が私たちに教える、神と、神の子どもたちとの信頼関係です。
すべての人は罪人であり、罪を悔い改めなければならない、確かにそうです。
しかし何が罪なのか、神は必ず子どもたちに示してくださいます。

 ヨブ記の冒頭で、ヨブはこのように紹介されます。「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」。
それは完全無欠な人間を意味する言葉ではありません。
迷信に惑わされる昔の人々のように、闇雲に神を恐れていたのではありません。
しもべが主人の好みを知り尽くしているかごとくに神が何を求めているかを知っていて、その愛に根ざした、恐れです。
様々な問題を、自分の気づいていない罪や、悪魔悪霊に原因があるとまことしやかにささやき、
悔い改めないからその問題が去らないのだ、という歪んだ考え方に私たちは支配されてはなりません。

 すべてのクリスチャンはみな、聖霊をいただいた者たちです。聖霊は、私たちに罪を教え、悔い改めへと促します。
生まれつきの人間には、罪の正体も、罪にとらわれている自分自身もわかりません。
しかしクリスチャンは違います。罪を犯したなら、聖霊が心の中で示してくださいます。
そうでなかったら、どうして父なる神の子供と言えるでしょうか。子供が悪いことに向かおうとすれば、親はそれをとどめます。
子供が知らずに危険なものに触ろうとすれば、親はそれを注意し、場合によっては子供の体を引っ張って、そこから連れ出します。

 私たちも、イエス・キリストの十字架を通して、ヨブと同じ、いやヨブ以上の愛を受けとっています。
神と私たちのあいだには秘密や隠し事がありません。私たちが罪を犯した時にはそれが何か示してくださいます。
心にたくわえられたみことばを通して、いつも励ましを与えてくださいます。

3.
 サタン、悪魔は神の許可がなければ、何もできません。
悪魔は神の子どもたちの、ありもしない欠点をただあげつらうしかできません。
神は決してそのサタンのことばに惑わされるようなことはありません。
しかしここでは、サタンの偽りの告発を受け入れたかのように見えます。
それは、ヨブの信仰を訓練するためでした。そして私たちに突然降りかかるように見える問題の数々も、同じ理由です。
神の許しがなければ、悪魔悪霊のたぐいはいっさい人に何もできません。ましてやクリスチャンに対してはどうでしょうか。
ヨハネの手紙のことばを通して、私たちは神の子であるがゆえに、悪い者はいっさい手出しができないのだと、確かに約束しています。

 私たちは、突然降りかかってきたかのように見える試練を通して、神さまがその子どもたちに与えてくださった祝福をかみしめます。
苦しみが去ることが祝福ではありません。
神の祝福においては、苦しみの中でも平安があります。
問題がいつまで経っても消えないように見えても、消え去らない希望が残っています。
どんなときも、どんなことがあっても、神はその子どもたちを見捨てることはありません。
ご自分のひとり子イエス・キリストのいのちを引き換えにするほどまでに愛された者が私たちクリスチャンです。
試練の中にあるからこそ、神の子どもである祝福をかみしめましょう。神は決して私たちをないがしろにすることはないのです。
ヨブが「わたしのしもべ」と呼ばれ、ヨブもまた自分のことを「しもべ」と言って神に呼びかけていくのは、まさにそれです。
主人である神は、しもべであるヨブに何も言わずにただ罰を与えるなどということはありません。
だからヨブ記は、ヨブが決して罪を認めないという姿をこれでもか、これでもか、とあきれるほどに描きます。
それはヨブの頑なさを示すのではなく、彼がいかに神との信頼関係に生きていて、苦難の中でもそれにしがみついたかを表しています。
罪を犯しているならば、神はそれをはっきりと私に言ってくださる。だからどうか、この苦しみのときに、あなたのことばを与えてください、と。

 試練からどうやって抜け出せるかではなく、この試練を通して神は私をどうされるのかを期待しましょう。
どんな苦しみであっても、それは神の視線の中で起きています。
だからこそ、そこからの脱出よりも、そこから何を受けとるのかをおぼえたいのです。
私たちの生活には、まるでヨブのように試練が次から次へと襲いかかります。
しかし私たちの父である神は、そのような、困難ではあるけれど永遠ではない、数々の試練を通して、私たちを強めようとしておられます。
あるいは、神はあらかじめ救いに定めておられる求道者の人々を、それらの試練を通して救いへと導こうとしておられます。
イエス・キリストは、すでに私たちに前もって筋道を示してくださいました。
苦しみの道の先にこそ、神を喜ばせるという私たちの喜びがあることを。
ひとり一人が試練の中でも、感謝して歩んでいくことができるように。

posted by 近 at 12:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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