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2018.9.30「私たちはみな罪人(We are all sinners)」(ロマ3:9-18、23-24)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週の月〜木まで、同盟教団の伝道懇談会及び研修会のために松原湖へ行ってまいりました。更新が遅れてすみません。
補教師になりたての頃、私はこれらの集会に参加するのが重荷でした。知らない人(=先輩牧師)が多かったからです。
しかし教師になって十数年経つと、だんだんとお互いにお名前や人柄を知ることができて、今はとても楽しいです。
ただ「自分が知らない人が減ってきている」というのは「新しく入ってくる先生が少ない」ということでもあります。献身者が少ないのです。
それでも同盟教団は比較的献身者がいると言われます。毎年10名前後、補教師として准允(じゅんいん)を受けます。
しかしそのうちの四割は韓国人の方、そして残りの六割のうちの半分は知った名字、つまり牧師子弟です。
それが悪いということではありませんが、かつてのように未信者家庭から救われ、牧師になるために勘当も覚悟、というのはもう死語でしょうか。
牧師の生き様と死に様が、教会から献身者を生み出します。自分自身がその模範たり得ていないことを悔い改めて歩んでいきます。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ローマ人への手紙』3章9-18、23-24節 


1.
 「十年後には、町から本屋が消える」。
まさかと思われるかもしれませんが、それほど、いわゆる町の本屋さんの閉店が増えているそうです。
その理由はインターネットで本が買えてしまうようになったからです。買うだけではなく、ネットを通して立ち読みやレンタルもできてしまいます。
これを便利と考えるか、それとも嘆かわしいと考えるかは人によって違うでしょう。しかしよく考えてみれば、自然な流れと言うこともできます。
知識の伝達方法は、口伝えから手書きの本へ、手書きから印刷へ、印刷からインターネットへ、と数千年かけて変わってきたからです。
しかしどんなに時代が変わっても、決して内容が変わらず、売れ行きも下がらない、むしろ上がっている本があります。
何でしょうか。言うまでもありません。この「聖書」です。そして日本では、この「聖書」に関して、世界でも珍しい現象が起こっています。
日本のクリスチャンは、全国民1億2千万人のわずか0.6%程度であり、教会に定期的に通う人もわずかであると言われます。
ところが、国民の中でどれだけの人が聖書について知っているかということに関しては、じつは日本は世界一ではないかと言う人もいます。
いや、アメリカか韓国のようなキリスト教国のほうが高いだろう。だれもがそう思うかもしれません。
しかし、都会は言うまでもなく、どんな田舎に行っても、民家や自動販売機のそばに聖書の言葉を書いた札が貼ってあります。
「豚に真珠」「目からうろこが落ちる」「右の頬を打たれたら左の頬も出せ」など、聖書の言葉がことわざのように知られています。
インターネット、実店舗かかわらず、ベストセラーのデータが示すのは、じつに多くの人々が聖書を手に取って読んでいるということです。
残念ながら救いの書としてではなくて、知識と教養を深める書物としてですが、それでもこれほど聖書を知っている国民は他にありません。
しかしある青年がこう言っていたそうです。
「聖書の話を聞いてみたいのですが、教会に来ると無理矢理クリスチャンにされそうで、怖くて入れません。
それでも一回だけ礼拝に行ってみて牧師の話を聞いたことがあるのですが、『罪』という言葉が連発されて、もう二度と来るかと思いました。」

2.
 「聖書の話を聞いてみたいが、罪という言葉がどうも面白くない」。これは、まさに多くの日本人に共通しているものかもしれません。
少し横道にそれますが、日本人と聞いて多くの外国人が連想するのは、こそばゆいですが、まじめな国民というイメージだそうです。
どんなにひどい災害の時にもパニックに陥ることなく、粛々と給水車の列に並ぶ映像を見た外国のメディアは、日本人を賞賛します。
確かに自暴自棄にならずに互いに助け合いことを知っている民族です。しかしだからこそ、人と同じ考えからはみ出ることを恐れます。
多くの人々がこう言います。「私は今までの人生で、他人に迷惑をかけたことはないばかりか、社会を支えてきた者たちのひとりだ。
もちろん警察の厄介になったことなど一度もない。それでも私も、罪人と言われるのか。」
人々が聖書につまずく理由は、この「罪」です。
処女降誕やパンを増やす奇跡はすんなりと受け入れても、あなたは罪人なのですという指摘は決して受け入れることができません。
もし「私も罪人なのか」と知人に質問されたら、クリスチャンはどう答えるでしょうか。
「そのとおりです」しかありません。あなたも私も罪人なのです。
罪は、行動に現れたもののことではありません。私たちは行動を抑えます。とくに日本人は、人からはみ出る行動を抑える術に長けています。
しかしどんなに行動で抑えたとしても、すでに罪は心の中に生まれているのです。
ねたみ、不平不満、つぶやき、ぐち、怒り陰口、偽り、うらみ、どん欲、高ぶり、・・・
それはたとえ口に出さず、行動に移さなくても、心の中に湧き起こったとき、すでに私たちは罪を犯しています。
そこから逃れることができる者は、だれ一人としておりません。だれの心の中でも、無数の罪の火種がいつもくすぶり続けています。

3.
 私が小学3年生頃の話ですが、うちはお小遣いがもらえない家庭でした。
親以外の優しい親戚からいただく、唯一の収入源、お年玉も、早々に取り上げられ、預金されてしまいます。
両親は私たちきょうだいによく言っていました。「お前たちが無駄遣いしないためなんだ。
その代わり、必要なものがあったらいつでも言いなさい。それがお前たちに本当に必要なものは、言えばいつでも買ってあげるから」と。
しかし実際に試してみましたが、いざほしいものをねだると、「それは『ほしいもの』であって『必要なもの』ではない」とはぐらかされます。
 でもあるとき、どうしてもほしいものがあったのです。親にはわかってもらえなくても、そのときの私には絶対に必要なものだったのです。
でもねだっても買ってくれないとわかっていました。そのとき、今まで決して手をつけなかった、ある禁じ手が思い浮かびました。
私のお年玉が積み立てられている郵便通帳が、タンスの何段目の引き出しに保管されているかを、わたしはすでに知っていました。
うちは両親共働きで、私がポストに入っている合い鍵を使って、最初に家に入るという生活でした。
その日も、家に帰ってもだれもいません。しめしめ。タンスから通帳を取り出して、さっそく郵便局に向かいました。
 ところがなんということでしょう。窓口のおじさんから「印鑑が必要だよ」と言われたのです。「インカンって何?」「ハンコのことだよ」
しかも小学生がひとりで通帳をもってお金を下ろしに来るという圧倒的な違和感が漂っているのを子供心に感じました。
そこで一度家に帰り、ハンコを探そうとすると、なんということでしょう。
ふだんはまず日が暮れるまで帰ってこないはずの姉が、茶の間のテレビの前、すなわちタンスの向かい側に寝そべっているではありませんか。
姉がトイレに立ったすきに、何とか通帳はもとあったところに戻しましたが、とても印鑑を探すどころではありません。
 しかしそれから数週間は不安の洪水でした。家に電話がかかってくると、郵便局のおじさんからではないかとおびえます。
郵便局の名前が印刷されている、今で言うダイレクトメールが届くと、中身はあのことではないかと心臓が凍り付きそうになりました。
結局、私の様子がおかしいことに気づいた姉が両親にチクったので、私は郵便局に通帳を見せにいったことを告白せざるを得ませんでした。
そのときには怒られましたが、両親も自分たちの教育方針が、ここまで息子を追い詰めていたのかと反省したようでした。
翌年には若干の軌道修正がなされ、お年玉の何割かは私の手元に残るようになりました。

結.
 罪と言うにはかわいいものだったかもしれません。
しかしどんな罪でも、それを隠し続けていれば、親子の関係に緊張をもたらし、愛情を疑わせ、不安に陥らせてしまいます。
私たちをご自分の子どもとして愛してやまない、まことの神さまは、そのような関係を悲しく思われます。
私たちの心に平安や確信がないのはなぜでしょうか。
それは、私たち神の子どもであるべき者たちと、父なる神さまとの愛の関係において、隠れた罪がもとでゆがみが生まれているからです。
まだイエス様を信じておられない方々は、そのゆがみ、すなわち人生への不安が自分の中にないか、心を見つめてみてください。
そのような不安を感じるならば、次のことばをぜひ心にとめてください。
神さまは私を神の子どもとするために、イエス様を十字架にかけてくださったのだ、それを信じるならば罪赦され、平安が与えられるのだ、と。
クリスチャンはすでに、その「子とされる」恵みを味わっています。しかし心の中に罪を隠したままで歩むならば、そこには喜びと平安がありません。
もし隠している罪があれば、クリスチャンの中に生きておられる聖霊が、はっきりと示してくださいます。
私たちにできるのは、聖霊のうながしを受け入れるか、受け入れないかです。もしうながされたなら、示された罪を神さまに言い表しましょう。
そうすれば、必ず神の子どもとされた者としての、言葉に言い尽くすことのできない平安を取り戻すことができます。
神さまが私たちに与えようとしているのは、不安ではなく平安です。悪しき計画ではなく、幸いの計画です。
それを受けとる鍵は、イエス・キリストを心の中に受け入れるかどうかです。このイエス・キリストを求めましょう。

posted by 近 at 18:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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