来週日曜は、毎年恒例の教会バザーの日。普段はネコの子一匹寄りつかない教会もこの日だけは近所の人で大わらわ(オイ)
今回のチラシも貧乏教会の救世主、ラクスルさんにお願いしましたが、オンラインデザインなるものを初利用。
すでに用意されているテンプレートをちょこちょこ直していくというものです。
面倒くさいことはイヤだけどWORDで作ったような素人っぽいチラシはもっとイヤというどこぞの牧師先生には最適です。
修正前(左)と修正後(中央)を並べるとこんな感じになります。結局、リスと背景以外はほとんど変えていますが。



また今回のチラシの裏面(右)は、ショートメッセージではなく、私(牧師)の救いの証しを入れました。
牧師プロフィールにある出来事を、少し詳しく書き直しました。
県内の方は、よろしければおいでください。県外の方は、来会者が礼拝に繋がりますようにお祈りください。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨシュア記』6章1-21節
1.
「下手の考え休むに似たり」ということわざがあります。
広辞苑によれば、「よい知恵もないのにいくら考えても、 時間がたつばかりで何の効果もない」という意味です。
私たちにとって、人生に起こるほとんどの問題は未経験なものばかりで、このことわざを本当に痛感することしきりです。
ところでクリスチャンは、こんなことを経験したことはないでしょうか。
祈祷会で、役員会で、家庭集会で、一つの課題を分かちあい、何人かで心を合わせて祈る。
そのとき、その問題を神にゆだねて祈った。確かにそのように祈り、平安を得た。
しかしお祈りが終わって世間話のような時間のなかで、ふたたびあーだこーだと素人の考えでそれを繰り返してしまうということが。
一度神に祈ったものを再び人の考えの上で蒸し返し、祈りの時間と経験をだいなしにしてしまうということはないでしょうか。
エリコの戦いは、そんな私たちに対して教えてくれます。
エリコの門を打ち破るという、極めて現実的な問題に対して、イスラエルは神のやり方に従うことで勝利しました。
神のやり方とは、ここでは六日間にわたって神の箱と祭司たちが町を回る、ということです。
そして私たちにとっては、自分の考えややり方であーだこーだではなく、神の御手に完全にゆだねるということです。
私たちは、しょっちゅう神にゆだねます。しかし完全にゆだねることはめったにありません。
一度ゆだねたはずのことを再び自分の手に取り返し、あーだこーだと蒸し返します。
そのような私たちのことを、ヤコブは手紙の中で「二心の人たち」と呼びました。
神にゆだねると言いながら、自分でナントカしようとすることも一応試みる。二心の私たちは、その繰り返しです。
しかし、ゆだねるということは、完全に自分の手から離すこと。それがエリコの戦いです。
みことば、信仰、祈り、この世の人が聞いたらぷっと吹き出されそうなものだとしても、私たちはただそこにだけ従います。
神の手段に徹する者にのみ、門を破るどころか、城壁そのものが崩れ去るという圧倒的勝利が与えられます。
あなたはいかがでしょうか。
2.
神はすでにこう宣言されていることをおぼえましょう。2節、「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した」。
ここで「渡した」と訳されている言葉は、まぎれもない完了形です。
これから渡す予定でもなく、今渡しているところでもなく、すでに渡した、完了したのです。
このエリコの戦いは旧約聖書の物語ですが、
この出来事からおよそ千年を経て地上に来てくださったイエス様は、十字架に向かっていかれる直前、弟子たちに力強くこう語りました。
「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハ16:33)。
またパウロも、ガラテヤ教会に向けて書かれた手紙の中で、人々に次のようなすばらしい約束を思い起こさせようとしています。
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」。(ガラ5:24)
キリストはすでに世に勝たれました。
そして、キリストを信じる者もまた、自分を引きずり回す「肉」の性質をすでに十字架につけてしまっています。
私たちは勝利に向かって戦っているのではありません。むしろ、キリストがすでに勝利されたあと、戦利品を分け合っているところなのです。
頑張らなければならない。努力しなければならない。必死で戦わなければならない。そんな心配は無用です。
すでにキリストが戦い、勝利してくださいました。その戦利品に私たちはあずかっています。しかしそれを受けとるのに必要なことは何でしょうか。
自分が戦ってきた、ただの肉でしかないものから手を離し、ただ神の前に静まることです。
詩篇を通して、神はこう呼びかけておられます。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩4:4口語訳)と。
3.
イスラエルが神からエリコを受け取るための方法は、奇妙なものでした。奇妙というよりは、愚かにさえ見えます。
しかし愚かで結構。神はこの世の愚かな者を選んでご自分の民とされたのです。
ヨシュアには角笛、ギデオンにはつぼとたいまつ、ダビデには五つの石。
敵があざ笑うほど、私たちの目に見える武器は最低限、最小限のものです。
私たちの武器の本質は目に見えるものではなく、目に見えないものにあります。
みことば、祈り、とりなし、礼拝、交わり。その力により頼むとき、私たちは勝利を与えられます。
イスラエルはエリコを攻略するにあたり、七日間を要しました。祭司を先頭に、神の箱が一日一回、エリコの周りを一周します。
これを六日間続け、そして七日目には七周まわり、角笛を吹き鳴らしたならば民はときの声を挙げよ、と。
ここで私たちがおぼえたいのは、これはまさに安息日を七日目とする礼拝の一週間を表しているということです。
私たちは日曜日の礼拝を一週間の出発点として受け止めています。
しかし日曜日がスタートであると同時に、ゴールでもあるという見方を忘れてはなりません。
月曜日から土曜日は、その前の日曜日にいただいた霊的恵みで食いつないでいくということではないのです。
むしろ月曜から土曜日まで祈りと証しに励み、それらが次の日曜日に完成させるのだ、と心がけていくことが大切です。
イスラエルは六日間、黙々と、粛々と、ただ神の命令を守り行いました。
11節をご覧ください。「彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした」。
この言葉は、彼らの一日のエネルギーがこのエリコの一周だけに集約されていたことを表しているようです。
とはいえ、ただ神が命じたことだけに力を注ぐこと、それは簡単なようでいて、じつはたいへんに難しいことです。
エリコの住民は、最初の二、三日は緊張して見下ろしていたかもしれません。
しかしそのうちにただ回るだけのイスラエル軍を見下して、嘲りの声を壁の向こうから投げつけたことでしょう。
礼拝というのは、まさに世の中の人々からもっと有効的に過ごせばいいのに、と揶揄されても不思議ではない時です。
しかし私たちは、色々な楽しみを謳歌するのが日曜日の使い方ではなく、神の前に出て行くことの大切さを知っています。
結.
活動的なことはよいこととして、私たちは子供の頃から教えられてきました。クリスチャンになってもそれを引きずっています。
しかし、神の前に静まるということを、何よりも大事なものにしたいと思います。
エリコの戦いは、戦闘行為ではなくて、礼拝行為でした。この戦いの中では、終始、角笛だけが用いられています。
旧約聖書には、戦争の命令はラッパを吹き鳴らしましたが、礼拝の命令は、角笛が用いられました。
エリコを一周回る六日間も、ときの声を挙げて城壁が崩れた七日目も、どちらも角笛です。
あなたの目の前にそびえている巨大な壁を崩すためには、ラッパの音で始まる、肉の戦いではなく、角笛によって始まる、礼拝が必要です。
神の前に静まり、私たちの思いわずらいを神に知って頂きましょう。
いや、神は全地全能の方だから、私が何をしていたって、私の課題を知っているはず。そういう方もいるでしょう。確かにそうです。
しかしまず私たちが自分の心を神さまの前に連れてきて、静まらなければ、神の声は聞こえません。
忙しければ忙しいほど祈るという人がいます。
忙しいからたくさん祈るのか、祈りに多くの時間を割いているから忙しくなるのか、わかりませんが、そんな人に私はなりたいと思います。
エリコの城壁を打ち破るためには、そのような祈りの人々、ただ神のみこころの前に自分を従わせる人々が必要です。
ぜひ一人ひとりが、このエリコの戦いを通して、神のやり方で勝利する人になっていただきたいと願います。