先月あたりから、再びCS成長センターの『成長』の年間カリキュラムに合わせて、礼拝説教をしております。
『成長』とは直接関係ありませんが、このブログの読者に紹介したいサイトがあります。

凄まじい量の、CS教材の宝庫。
インターネットという名の大海で、ついにひと繋ぎの財宝が隠された小島にたどり着いた、海賊王の気分です。ワンピース!
しかも「教会の働きのために自由にお使いください」という気前のよさ。い○ち○こ○ば社にも見習ってほしいものです。
わが同盟教団も、過去60年分の教団機関紙をPDF化していますが、現在は教師専用ページからしかアクセスできません。
所属教会には、価格×教会員数の金額を送金することが建前になっているので、ただでは見せられん、ということでしょうか。
バックナンバーくらい他教団の方でも自由に見られるようにしたらいいのに。出版局の方が見ていたら、ご検討ください。
なお『こひつじ』では運営のための献金も募集しています。私もあとでやっておきます。(←適当)
週報はこちらです。
聖書箇所 『士師記』6章11-24節
1.
私は説教のタイトルをつけるのにずいぶんと悩む口ですが、今回はすぐに決まりました。「反抗期ギデオン」。
主の使いが何を語りかけても、ギデオンはことごとく逆らう、まるで反抗期の少年のようだからです。
御使いは開口一番、こう呼びかけました。「勇士よ、主があなたといっしょにおられる」。
ところが彼はこう答えます。「もし【主】が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか」。
もう少し新潟っぽく訳すと「なんでこんげなん」となるでしょう。万事この調子です。
「主があなたを遣わすのだ」と言えば、「俺みたいなのが、そんなことできるわけねえねっか」。
そして最後には「おめさん、本物だろうな。神さまだったら、しるし見せれや」。
ただ不思議なのは、神さまが、こんな反抗青年であるギデオンを叱ることもなく、いつまでも、どこまでも譲歩されているということです。
人一倍臆病なくせに、口だけは達者なギデオンになぜ神はここまで執着するのか。
当時のイスラエルは、そこまで人材不足であったのか。
いや、むしろ、私たちがイエス・キリストによって神さまに選ばれたということが、どれだけの恵みであるのか、ということを改めてかみしめます。
ギデオンがどれだけ臆病であろうが、どれだけ自信なさげであろうが、どれだけ近視眼的な人間であろうが、まったく神さまは動じません。
彼がどんな人間性を持っていようが関係ない。
どんな能力があるかないかということも関係ない。
ましてやマナセ部族の中でどのくらいの家柄なのか、本家か分家かという一切関係がない。
私たちもそうです。私たちが神を愛したからではなく、神が私たちを愛したがゆえに、私たちは選ばれました。
私たちがいのちをかけて努力したからではなく、イエス・キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださったからこそ救われました。
ただ永遠に定められていた神のご計画のゆえに、ギデオン、そして私たちは選ばれたのです。
だから私たちは、自分の能力や実績で、神との親子関係を疑う必要はないし、決してしてはなりません。
日々の信仰生活の中で、自分自身に失望してしまうときにも、神は私たちに失望していないことを心に刻みましょう。
神は私たちができないことを命じません。
ただ信仰をもって決断さえすれば、後は神がすべてを支え、導いてくださるのです。
神はここでも、ギデオンにめいっぱいあわれみを示されるのですね。
見えるものしか信じられないギデオンは、そんな生き方にふさわしく、かたちから入ります。
贈り物をしますから、しるしを見せてください。
こんな要求に対して、神はそれを叱ることも否定することもなく、「あなたが戻ってくるまで待つ」と言われるのです。
2.
ギデオンは、家に帰って、いけにえを調理しました。
彼が用意したものは、やぎの子1匹と、1エパの小麦粉でこしらえた、種を入れないパン。
1エパは今の単位に直すと、23ℓにあたります。
ミデヤン人に収穫を奪われていたイスラエルにとって、1エパの小麦粉は決して小さなものではありません。
確かにギデオンは、目に見えるしるしを求めずには信じられない、そんな人間でした。
しかし彼は彼なりに、その自分自身の枠の中で用意できる最上のものを用意したのです。
私たちは、なんだかんだ言っていても、神を信じられないときというのがあるのです。
クリスチャンだって、いつどんなことがあっても神さまを確かに信じています、というわけではありません。疲れるし怯えることもあります。
もし神を疑ったことがありませんというクリスチャンがいたら本当の苦労を知らない人、と言ったらさすがに怒られますか。
しかし見えるものしか信じられない、というときだって確かにあるのです。
神さまが生きているのなら、どうして立ち上がってくださらないのですか。
すぐに結果を見せてください、と言ってやりたいときもあるのです。
しかしそんな無様な姿をさらしながら、もがき、弱さに傷つきながら、あきらめない。
そんな姿を神さまは必ず見つめておられます。そしてそのうえで、私たちの心を砕いてくださいます。
神はギデオンが自分の考えや力をフル稼働させて、たくさんのパンを持ってくるのを待っておられました。
やれるところまでやってみろ、と。しかしそのがんばって用意したものを、神は一瞬で燃やし尽くしてしまうのです。
じつは信仰においては、そういう経験こそが大事です。人間的な力を尽くしてこれだけのことをやってみた。
しかし神の使いが杖でちょっと触れただけで、自分が本気出して準備したものなど、あっという間に消えてしまう。
そのとき本当の意味で、神の恐ろしさがわかります。私が本当に恐れなければならない相手は何か、と。
この方が私の味方であるなら、いったい何を恐れる必要があるのか、とわかるのです。
この神のしるしを見たときに、ミデヤン人への恐れは、それよりもはるかに大きな神への恐れに飲み込まれました。
死を覚悟するギデオンに、神はそこで平安の言葉を語りかけ、そしてギデオンは「主は平和」を意味する祭壇を築きました。
結.
神に対する恐れは、世への恐れを飲み込みます。そしてそこからどんなものにも揺るがされない、平和が与えられます。
ギデオンは、自分の考え、自分の力、自分のいけにえ、とにかく自分流を駆使して、最後には神に全部を燃やされてしまいました。
でも、自分の力を出し尽くした彼だからこそ、この後で神の力だけに拠り頼んで勝利を収めるという絶対法則を学んだのです。
もがけ。苦しめ。這いずり回れ。そうしたら、あなたは、わたしのおきてを学ぶだろう。
そんな問いかけを今受けている人もいるかもしれません。
しかしその先に、必ず神の主権があります。反抗期を経験しなければ、親の痛みがわからず、大人にはなれません。
ギデオンが経験した道を、私たちも歩みます。ギデオンの姿を見つめながら、私たちも、主に用いられる喜びを求めましょう。