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2018.12.2「御翼(みつばさ)の下からもう一度」(ルツ2:1-23)

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。来週の土曜日、教会で子どもクリスマス会を行います。
まあ出席者の半分はおとな(教会関係者)ですけどね。
夏休みのアイスクリームパーティからもう半年近くが経ったなんて・・・・。時間が過ぎるのが早すぎて困ります
前回は地元のふたつの小学校の前で配りましたが、今回は折込チラシで配ります。
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来週は大人のクリスマス集会のチラシをアップする予定です。お楽しみに。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルツ記』2章1-23節 


1.
 今週の週報の表紙には、フランスの画家、ミレーの名作として知られる、「落ち穂拾い」を印刷しておきました。
ochibohiroi.jpg
旧約聖書の教えの中に、外国人、みなしご、やもめなどのために、収穫の際に取りこぼした麦の穂を残しておくというのがあります。
私はミレーがこの聖書の教えをもとに想像して描いたのがこの絵だと思っていましたが、どうも人物の服装が聖書の時代とは合っていません。
ミレーは、この絵について聞かれたとき、「私は見たままを描いただけだ」と答えています。
19世紀初めのフランスでは、実際に旧約聖書の教えに従って、貧しい未亡人などのために落ち穂が残されていたのだそうです。

 とはいえ、見るからに腰が痛くなりそうな絵です。
いくらフランスの社会が、キリスト教の国にふさわしく、貧しい人々に配慮していたと言っても、これは決して楽な作業ではなかったでしょう。
ルツは、ナオミのために、その決して楽ではない、落ち穂拾いという行動を始めていきました。
モアブ人であり、貧しいやもめである彼女にとって、何も頼りにできるものはありません。しかし何はなくてもルツは行動を始めました。
彼女の心にあるのは、イスラエルの神は、たとえ私が生粋のイスラエル人ではなくても、信じる者を拒むことはないという信仰でした。

 そして彼女は、その信仰のとおりのことを経験したのです。
神はボアズという人をルツのすぐそばに与えてくださり、そしてあらゆる配慮と優しい言葉を尽くして、彼女を守ってくださいました。
これはまさに神が私たちをイエス・キリストによって愛してくださった、ひな型と呼べます。
私たちは何をしたから救われたのでしょうか。何か誇るべきものを持っていたから救われることができたのでしょうか。
まったく何もありません。ただ恵みです。その恵みにとどまるならば、決して欠乏の中でも不安を感じることはないのです。
このボアズとルツは後に結ばれ、そしてその子孫からイエス・キリストが生まれます。
ルツがひたすら神に頼り切ったように、私たちもこのイエス様に信頼するならば、暗やみの人生に光が生まれます。
アドベントの期間、この神の恵みをひたすらかみしめるものとして歩んでいきましょう。

2.
 ルツに示された神の恵みを、みことばから味わいましょう。
ルツは、ただ神の恵みの中で、ボアズの所有する畑へと導かれ、そしてボアズは彼女を招き入れて食事をしました。
彼女はボアズが語りかける言葉を聞き、ボアズが取り分けてくれた炒り麦を味わい、ボアズの声、眼差し、気配りに圧倒されていました。
そして自分がモアブの女性であり、貧しいやもめであり、夫と死別した悲しみなどが、ボアズの優しさの中で溶けていく経験をしました。
これもまた、私たちがイエス・キリストを信じて、この方の交わりの中でいつまでも生きていく喜びのひな型です。

 クリスチャンも、まだクリスチャンでない方々も、「主イエスから目を離さないでいなさい」というみことばを忘れないでください。
そうすれば、私たちは目の前に起こる様々の患難の前に人生を飲み込まれることはないのです。
私たちの内側にいるイエス様よりも、自分自身の外側を飾ることに多くの時間を費やすならば、私たちに幸せはありません。
イエス様の完全さに身をゆだねるよりも、己の不完全さばかりを気にしているならば、そのために喜びを失ってしまいます。
自分の必要を満たすために礼拝に来ているのではありません。
どんな必要もはじめからご存じである神にお会いするためにここにいるのです。

 主イエスから目を離さないでいなさい、という言葉は、いつも自分が救われた原点に留まっていなさい、という意味でもあります。
ボアズは彼女に言いました。あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、【主】と。
私たちは、みなが神の御翼のかげに身を横たえるひな鳥です。
静かにイエス・キリストとそのみことばに留まり続ける信仰を持ち続けましょう。
自分ばかりを見るものはため息をつき、他人ばかりを見るものは押しつぶされます。
しかしキリストだけを見るものは心に喜びがあります。
地上でいかなる困難の中にあっても、決して取り去られることのない永遠のいのちの喜びが溢れています。

3.
 ルツがボアズの畑から帰ってきたとき、ナオミはおそらく目を丸くしたことでしょう。ルツが1エパもの大麦を持ち帰ってきたからです。
1エパはおよそ23リットル。お米に直せば約130合。1合が一食分と考えると、女性ふたりがゆうに一ヶ月食べていける量になります。
これをたった一日の落ち穂拾いで手に入れることができるなんて、あり得ないことです。そこでナオミは、ルツに問いかけます。
「きょう、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように」。

 「祝福がありますように!」。じつはここには、ナオミの驚くべき変化が生まれていることに気づいてください。
ルツが帰ってくるまで、ナオミは絶望の中にいました。彼女は故郷に戻ってきたとき、町の人々にこう言っています。
私をナオミ、喜びと呼ばず、マラ、苦しみ、と呼んでくれ、神が私をひどい苦しみに会わせ、今もその中にとどめておられるのだから、と。
ナオミは神に何も期待できません。ルツが落ち穂拾いに出かけるときも、ただ一言、「娘よ。行っておいで」と、それだけでした。
ルツの後ろ姿を見つめながら、ナオミは自分の10年間の歩みを思い出していたことでしょう。
ききんを逃れるために彼ら一家はモアブという外国へと逃げ込みました。
夫が死んだ後、残された二人の息子を守るために、聖書が禁じているモアブ人との結婚さえも選びました。
しかしそこまでしてでも途絶えさせないようにしたエリメレク家の血はもはやすべて失われ、モアブ人の嫁、ルツだけが残りました。
戻ってはきたものの、夫の土地はすでに人から人へと渡っており、ただ憐れみにすがって生きのびていくしかない毎日。
 
 しかし今、1エパの大麦を両手に抱えたルツを前に、「祝福がありますように」という言葉が自然とナオミの口から出てきました。
そしてルツからボアズという名を聞いたとき、彼女の心は、漠然とした喜びから、はっきりした確信へと変わりました。
ナオミはさらに祝福を口をします。
20節、「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない【主】が、その方を祝福されますように」。
親戚であるボアズをルツのすぐそばに置いてくださったことを聞いたとき、ナオミは神がすべてを導いてくださっていることを悟りました。
「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない方」。偶然ではない、家族を失った過去の日々さえも神の御手にある、と。
私たちもともに告白しましょう。そうすれば、何が起ころうとも、すべてを期待することのできる人生へと変えられていくのです。

結.
 ナオミにとってボアズの名がそうであったように、私たちにとってイエス・キリストの名こそ、人生に希望を与えるものです。
神が私たちにイエスの名によって与えてくださった希望は、ナオミのように一時的に神を見失ったとしても、決して取り去られることはありません。
信仰生活はマラソンにたとえられることがありますが、途中で歩いていしまったとしても、失格になることはありません。
また走れるようになるまで、神は忍耐強く待ち続け、疲れた私たちの隣で伴走してくださいます。
今年のアドベントは、このルツ記を通して、キリストの恵みを追いかけていきます。みことばをかみしめながら、歩んでいきましょう。

posted by 近 at 23:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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