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2018.12.9「イエスの懐に飛び込むならば」(ルツ3:1-18)

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今年トヨサカのクリスマス諸集会は、こんな感じで行います。お近くの方はぜひおいでください。

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週報はこちらです。

聖書箇所 『ルツ記』3章1-18節 


1.
 昨日の新発田朝祷会にて、引退された、ある婦人牧師が、次のような証しをしてくださいました。
数か月前に、本屋さんに行ったときのこと、店内で、何か落ち着かない様子の、同年配の方を見かけたそうです。
最初、通り過ぎようとしましたが、そこで内なる声を感じ、声をかけてみました。すると探している本が見つからない、とのこと。
店員さんに聞けば話は早いのですが、この方のためにあなたにできることをしなさい、という内なる声を今一度感じて、その本を探してあげました。
本が見つかった後、その方がこのように言われたそうです。
「わざわざ本を探してくださるような方に出会えたのも偶然とは思えません。どうか私の悩みを聞いてくださらないでしょうか」。
それから別の店で長い時間、ご家族やご自分の健康についての悩みとかに耳を傾けて、そこからその方にちょくちょく付き合うことになりました。
 その後、忙しくて連絡があまり取れなくなった日のこと、その方にすぐに連絡を取るようにという内なる声を聞いたような気がしました。
そこでご自宅に電話すると、娘さんが出て、「母はつい先日亡くなりました」と言われたそうです。
突然の死だったため、娘さんも混乱していて納骨もまだ済んでいない、というので、急いでご自宅へ駆けつけて、娘さんとお話をしました。
「先生のことは母からよく聞かされていました。私もひとりで苦しいので、これからも家に来ていただいて、お話を聞いてください」
そして今はその娘さんとの繋がりが生まれているとのことでした。
私と一緒に出席した方々からは、神様がふさわしい時と場所を用いて導いてくださった、という感想が出ました。私も同感です。
 ただ、今のような証しはクリスチャンにとって、必ずしも特別な経験ではありません。
神はすべてのクリスチャンを、自分のために生きる者ではなく、他の人のために生きる者となるように、自ら召してくださったからです。
召しというのは私たちが召されたいと思って召されるのではなくて、100%神様の主導権の中で起こる事柄です。
すべてのことに偶然はなく、背後に神のご計画があって、その中で私たちクリスチャンは神のお働きのために用いられます。
ある人は、公に知られる働きに用いられるでしょう。また別の人は、隠れた働きに用いられることがあるでしょう。
しかしどちらも、神様にとっては同じ働きであることは間違いありません。
どのような出来事も、それを用意されたのは神様ご自身です。
そして私たちはその中でさらに神様にふさわしい器として整えられていきます。そのことを信じて歩んでいきたいと思います。

2.
 同じことが、この聖書の箇所を通して、ナオミにも起こっていたことがわかります。1節で彼女は嫁のルツに、次のように言いました。
「娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか」。
別のより正確な翻訳では、「身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません」と、ナオミの決意をにじませたものとなっています。
故郷ベツレヘムに戻ってきたときのナオミは、自分の人生に起きた出来事を受け入れることができていませんでした。
私の名前はナオミではない、マラです、喜びなんかない、苦しみばかりだからです、と言うほどに、彼女は人生と神に失望していました。
しかしいまは違います。過去を恨んで生きる者から、未来を待ち望んで生きる者へと変えられています。
嫁であるルツの幸せのために、自分にできることを行おうという、生きる気力、生きがいが与えられています。
ナオミは、神があらゆる人生の出来事を通して、彼女を幸せへと導こうとしておられるということを知り、同じ喜びをルツにも与えようとします。
私たちも同じ経験をします。人生の中には、受け入れがたい苦しみがあり、許しがたい自らの失敗があります。
しかしそのようなことを通してでないと、頑なな自分自身が砕かれるということがありません。
そして私たちは自分の心が砕かれないと、いつまで経っても頼りない自分自身にしがみつき、本当に頼るべき方は神であることがわかりません。
神様を信じたからと言って、財産や健康がいつも保証されるということはありません。
しかしもっとすばらしいものが与えられます。財産や健康が損なわれても、永遠のいのちは私に与えられているという確信です。
この確信が与えられるとき、私たちはほかの人の幸せをねたむ者ではなく、ほかの人の喜びを心から自分の喜びとすることができるのです。
ナオミもまた、自分のことばかりを気にしていた者から、ルツの幸せを自分の幸せとして心から願う者へと変えられていきました。

3.
 ナオミが変えられていったように、ルツもまた変えられていきました。このルツ記には、「モアブ人の女ルツ」という言葉が11回も出て来ます。
「モアブ人の女」というレッテルは、ルツが超えようとしても超えられない壁でした。
しかし神は、人には超えられない壁を一打ちで壊すことのできるお方です。
ナオミのアドバイスに従って、ルツはボアズのあわれみにすがろうと、夜中に打ち場へと忍び込み、ボアズの足下にうずくまりました。
目を覚ましたボアズは、当然のように驚いて、「お前はだれだ」と尋ねます。
以前のルツであれば、モアブ人の女ルツと答えたでしょう。しかし彼女はここでこう答えました。9節をご覧ください。
「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しの権利のある親類です」
買い戻しについては、来週のメッセージの中で詳しく説明したいと思いますが、
ここには、ボアズと向き合い、そこで一対一の、私とあなたという関係に生きようとするルツの決意が表れています。
 ルツはボアズの足もとにひれ伏し、私たちはイエス様のふところに飛び込みます。どちらも、そのとき、人生が変わります。
人はその長い人生の中で、まわりの人間から受けるさまざまなことばや態度を通して、影響を受けていきます。
しかしそれが良い影響を与えるのであれば問題ありませんが、多くの場合は逆です。
人から言われた言葉にすぎないのに、自分で自分にレッテルを貼り付けてしまい、その枠の中で生きてしまいます。
子どもの頃から親に言われ続けてきた言葉、学校での教師や友人からの評価、会社での上司や部下からの声。
 瓶の中のノミという有名な逸話があります。透明なガラス瓶に蓋をして、ノミを閉じ込める。
最初はノミはその中でさかんに飛び跳ねているが、高く跳んでも蓋にぶつかってしまうので、やがてほどほどの高さにしか跳ばなくなる。
そして蓋を外しても、それよりも高く跳ばないので、いつまでもガラス瓶の中から出ていけない、と。
それは人の評価がきっかけにせよ、自分で自分に「どうせ○○だから」というレッテルを貼り付けてしまう、多くの人々の姿です。
しかしイエス・キリストのもとに飛び込むなら、私たちはまったく新しいレッテルを神様の手でこの身に貼られます。
「あなたはわたしのもの」「あなたはわたしに選ばれた者」と。

結.
 ルツはボアズの優しさに触れて、自分はもはやモアブ人に属する者ではなく、ボアズに属する者なのだと信じました。
彼女はもはやモアブ人ではありません。
ボアズの懐に飛び込んで、本当に頼るべき方に頼り切ることを学び、「私はあの方のもの」という平安に生きる者となったのです。
私たちもイエス・キリストを信じるとき、ルツと同じことが起こります。
ナオミもルツも、私たちがキリストを信じたときに必ず人生が変えられるのだという証しを与えています。
待降節の恵みの中で、一人ひとりが、キリストの懐に飛び込むすばらしさを味わって歩んでいきましょう。

posted by 近 at 20:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ
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