こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日の説教原稿の中では「ひとつひとつ見ていく余裕はない」と言っている、
イスラエル人(旧約聖書)にとっての「相続地の大切さ」ですが、実際の説教の中では、いくつか例を挙げています。
・エフタの娘は、自分がいけにえにされることよりも、相続地を継承できないことのほうを悲しんだ(士師11章)
・ナボテは、アハブ王に反抗すれば危険にさらされることを知りつつも、相続地の売却はあり得ないと言った(T列王21章)
他にも多くの事例がありますが、地上の相続地に対してこれほど彼らが執着したのであれば、天上の相続地に対して私たちはどうなのか、
それが今回の説教のテーマの一つです。まさに「神の国とその義を求めよ」ということばに尽きるかと思います。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルツ記』4章1-22節
1.
星野富弘さんの詩に、「いのちよりたいせつなもの」というものがあります。
「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが辛かった いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」
じつは旧約聖書、つまりイスラエル人のなかにも、私たち日本人にはわからない、「いのちよりたいせつなもの」があります。
それは「土地」なのです。もう少し正確に言うと、「相続地」です。
自分の土地は先祖伝来のもの、そして先祖が神から授けられ、永遠に保証してくださったものなのだ、という信念、
まさにイスラエル人にとって、「いのちよりたいせつなもの」、それが土地であり、国土なのです。
約2000年間、世界に散らばっていたユダヤ人が、現在の場所に再びイスラエル国家を建国したのが今から70年前の1948年のことでした。
自分たちが神から与えられたと信じる土地を取り戻すのを、彼らは2000年間ひたすら待ち続けたのです。
それが現在の中東問題を生み出した原因でもありますが、その忍耐力というか、バイタリティは、驚嘆に値するでしょう。
旧約聖書のあらゆるところに、相続地がいのちよりも大切なものだという教えが残っていますが、ひとつひとつ見ていく余裕はありません。
しかしひとつだけ触れるならば、旧約聖書には次のような、神からの命令があります。
イスラエル人のうちに、もし土地を継がせることのできる子どもがいない者がいたならば、彼の土地はその者の兄弟に継がせよ、
もし兄弟もいなければ、その者の父親の兄弟に継がせよ、そしてその者の名前を土地と共に必ず引き継がなければならない、と。
これが、イスラエルの中で守られなければならない掟であり、この『ルツ記』のクライマックスに出てくる、親戚たちによる買い戻しの場面です。
『ルツ記』は、単にルツの再婚物語ではありません。またナオミが孫を得て幸せな老後を送るという、それだけの物語でもありません。
かつて土地を見捨てた者たちが、再び土地を取り戻す、それを通して永遠の祝福を与えられる、という物語なのです。
2.
イスラエルにとって、土地こそいのちです。いや、いのちより大切なものです。
私たちには、その感覚は理解できないかもしれません。老後のためにいまのうちに家と土地を売る、という新聞記事も見かける昨今です。
では、旧約聖書の中に「土地」「相続地」「ゆずりの地」といった言葉を見いだすとき、それは私たちには関係ない、と考えるべきでしょうか。
いや、むしろこう考えるべきでしょう。イスラエルが地上の土地にさえここまで情熱を注いだのであれば、
ましてや私たちは、イエス・キリストを信じた者に約束されている、永遠の御国に対して、どれほどの思いを向けているのだろうか、と。
今日はアドベント第三週です。アドベントは、待降節と書きます。
それはクリスマスを待ち望む時ではありません。すでにクリスマスは二千年も前に起こりました。どんなに待っても、クリスマスはもう起こりません。
クリスマスを通して、じつは私たちは、クリスチャンにしかわからない、見えない、もうひとつの主の来臨を待ち望んでいるのです。
言うまでもなく、それは再臨です。
イエス・キリストは、二千年前にベツレヘムの飼い葉桶の中に赤ん坊としてお生まれになりました。
しかし次に来られるときは、無数の御使いたちを引き連れて、信じない者たちをさばき、信じる者たちを永遠の御国に迎え入れてくださいます。
それはいつ、起こるのかわかりません。しかしたとえ今日、次の瞬間に主が来られても、いつでも主をお迎えできるように。
そして御国の門をくぐるときには、地上の教会で共に戦ってきたこの兄弟姉妹と共に一緒になって、イエス様の前にぬかずきたい。
そのような思いを日々かみしめながら、さらに互いに愛し合う者たちとして歩んでいく。そのためのアドベントだと言えるのです。
3.
ボアズともう一人の親戚によって繰り広げられる買い戻しのやりとりの中で、モアブ人であるルツの存在が大きな意味を持っています。
買い戻しの権利としては、もうひとりの親戚に優先順位がありました。
しかしモアブ人の女ルツの名前が出ると、それまで買い戻しに乗り気であった親戚は、途端に眉を曇らせるのです。
6節、「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから」。
まさにモアブ人とは、そこまでイスラエルにおいて忌み嫌われ、疎まれている存在であったことが容易に想像がつきます。
しかしボアズは、ルツとの再婚を絶対条件とする、土地の買い戻しを決断しました。
ここに私たちは、ボアズの姿を通して、罪人である私たちを買い戻してくださった、イエス様の愛をかみしめましょう。
「買い戻し」がその名を土地と共に消し去られることがないようにすることだと言いました。
まさにイエスが私たちを買い戻してくださったのは、私たちの名がいのちの書から消し去られてはならない、という神の愛があることをおぼえましょう。たとえ自分ではどんなにつまらない存在だと思っていても、神にとってはそうではありません。
だからこそイエス・キリストは、私たちのために十字架にかかり、ご自分の命を捨ててくださり、私たちに永遠のいのちを与えてくださったのです。
ボアズは確かに犠牲を払いましたが、命を捨てるまでではありませんでした。しかしキリストは事実、いのちを捨ててくださいました。
それはどんな犠牲を払っても、私たちを滅びから救い出そうとする愛です。
私たちは、当時のイスラエル人社会におけるモアブ人という名前よりも、はるかに忌まわしい罪人そのものでありました。
しかしイエス・キリストは、そんな私たちがまだ罪人であったとき、ご自分の花嫁にふさわしいと認めてくださったのです。
結.
ボアズによる土地の買い戻し、ルツとの再婚、そしてナオミは、望むべくもなかったはずの孫、オベデを胸に抱くことにまで至りました。
このとき、私の名前を喜びのナオミではなく、苦しみのマラと呼んでくださいと言ったナオミの人生の痛み、破れ、傷はすべてふさがれました。
そしてこのオベデこそ、ダビデの祖父にあたる人物であり、イエス・キリストの系図にも名前を見いだすことのできる人物です。
ナオミの人生に起こったことは、私たちの人生にも起こることです。家族を失い、財産を失い、生きがいを失うことがあります。
しかし少なくともナオミは、モアブに残された家族の墓にしがみついて生きる道は選びませんでした。
たとえどのような落ちぶれた姿になっても、彼女は神の与えたもうた故郷、ベツレヘムで死のうと考えました。
一度神の土地を捨てて異教徒の土地へ助けを求めた者が、生き恥をさらして戻ってくることは、私たちの想像を超えることであったでしょう。
しかしどんな姿であっても、神のもとに戻ったとき、神はナオミを抱きかかえてくださったのです。
どんな苦しい状況に陥ったとしても、イエス・キリストのもとへと一歩でも、一ミリでも、近づいていくことをあきらめてはなりません。
生きるということは苦しいことです。
プライドもすべても、ぐしゃぐしゃになりながら、汚い鼻水をたらしながら、ひたすら神に近づくのが生きるということです。
しかしそのときに、人生で起きたすべての出来事が意味を持ってきます。すべてはイエス・キリストに出会い、留まるために存在します。
このイエス・キリストこそ、私たちにとって花婿であり、富であり、相続地です。
与えられた恵みをかみしめながら、今週も歩んでいきましょう。
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