こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の中で、原稿にはなかった、童謡「おおブレネリ」をアドリブで紹介しています。(05:00頃)
「おおブレネリ あなたの仕事は何」「わたしの仕事は羊飼いよ おおかみ出るのでこわいのよ」
得意げに「これがまさに古今東西、羊飼いのイメージです」みたいなことを言っていますが、
あとで調べたら、この歌詞は原曲にはなく、訳詞者(元大阪YMCA主事・松田稔氏)の創作らしいです。
とはいえ、YMCAといえばキリスト教に関係も深く、松田氏も聖書の羊飼いのイメージを織り込んだのかもしれません。
それにしても「わたしのおうちはスイッツランド(=スイス)よ」という台詞には「範囲広すぎだろ!」とクラスのみんなでツッコんだものです。
「わたしのお国は」ならわかりますが。自宅を特定されたくなかったのでしょうか。とりあえずスケールのでかさは幼心にも伝わりました。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』2章1-20節
1.
マイナビという、就職情報を提供している会社が、新社会人300人を対象にこんなアンケートをとりました。
「会社から内定の通知をもらったときに、その喜びを一番最初にだれに伝えましたか?」
あえて下の方から紹介すると、3位が友だち、全体の10%。2位が恋人、11.4%。
1位は、おわかりですね。そう、親です。300人中200人の、65.5%。意外性も何もない、回答でした。
子どもは、人生の中でそう何度もないであろう、とっておきの嬉しいことを、まず親に伝えたいと願います。
そして神さまは、気の遠くなるような時のあいだ、ずっと伝えたかったとっておきの良い知らせ、救い主があなたがたのために生まれた、
これを親ならぬ、羊飼いたちに真っ先に伝えました。
羊飼いは、当時のユダヤでもっとも貧しく、見下されていた者たちでした。彼らは羊の所有者ではなく、羊を預けられていた人たちです。
じつは彼らのいのちは羊よりも軽いものでした。もし羊が狼に襲われそうになったら、自分の身を差し出してでも守れ。
当時の慣習では、預けられた羊を狼に食べられたしまった羊飼いは、羊の耳たぶを取り返すことで、罰から免れたと言います。
そのとき、ベツレヘムの町は、住民登録のためにやってきた人々でごった返していました。
しかし神は、その普通の人々にではなく、この軽んじられていた羊飼いたちに「すばらしい喜び」を最初に伝えました。
なぜでしょうか。御使い自身がこう言っています。「この民全体のためのすばらしい知らせ」と。羊飼いこそ、「この民全体」の代表者でした。
私たちは、この羊飼いたちこそが「民全体の代表」として、神様に見られていたのだということをまずおぼえたいと思います。
羊飼いたちは、決してこぎれいな人々ではありません。生活に余裕のある人々ではありません。
むしろ人々がなんとなく避けたいと思うような人たち。羊一匹のためにいのちを張らなければ自分が食べていけない人たち。
でも、それが神の目には民全体を表している人たちです。彼ら羊飼いの姿、それがあらゆる人間の共通の姿として、神の目には映っています。
2.
でも多くの人々は、「私は彼らのように、貧しく、みじめで、蔑まれているような者ではない」と言います。
警察とか捕まったこともない、普通の人間だから、罪とかさばきとか、そういうの、いいから。
私もそうでした。宗教を信じているとか、そういうのは、少なくとも普通じゃない人たちのものだと思っていました。
しかし普通だと思っていた自分自身が、じつは普通じゃないとわかったのは、自分の中にある汚い部分を知ってしまったからです。
一生、それに気づかないという生き方もあったはずです。実際、自分の罪に気づかない、あるいは見ようとしない人々は多くいます。
しかし、一度自分の汚い部分に気づいてしまうと、もうそれまでと同じ自分ではいられません。いつも心が責められるような自分になりました。
しかしその中で、こんな私を救うために、神のひとり子が飼い葉桶に生まれて、身代わりになって死んでくださったと聞いたのです。
私はその良い知らせを聞いても、それを本当に心の中に受け入れるまで、何年もかかりました。
しかし今は、はっきりと信じています。信じているだけでなく、このようにして語っています。これが、人を生かす唯一の道なのだと信じています。
羊飼いたちは、この神の招きに答えました。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」。
よく、聖画や彫刻などでは、羊飼いたちが二、三匹の羊を連れて馬小屋を訪れている場面が描かれています。
しかし、おそらく彼らに預けられていた羊は、何十頭というものだったと思います。
それらの羊は野原に置いてきたのでしょうか。町に連れて行ったのでしょうか。
聖書はそれにまったく触れていません。触れる必要がないのです。
それは、羊飼いたちの関心の対象が、羊から神の御子へと完全に移ったのだということを現しています。
これは、神の招きに答えた者たちに共通して起こることです。私たちの関心がこの世のことから、ただ救い主に向かうのです。
キリストを信じるとき、私たちは生活と人生の関心が、この羊飼いのように、キリストを求めることへと変えられていきます。
そして、そうなると、昨日までと同じ生き方をすることはできなくなります。それは悲しいことでしょうか。
いいえ、それまでの生き方より圧倒的な光をいただいて、むしろそこには喜びが生まれます。
3.
この中には、苦しみを抱えながらクリスマスに誘われてきた人もいるかもしれません。
これから一週間の生活費にも不安を抱えているような人もいるかもしれません。
イエス・キリストを信じたら、その問題が劇的に解決を迎えるとは限りません。
しかし私たちのまわりは変わらなくても、私たちの内側の世界はさっきまでとはまるで変わります。
生活の糧を得るために戦い続ける毎日は変わらなくても、昨日までの戦い方と今日の戦い方は明らかに変わります。
イエス・キリストはこの世界を造られた、ただひとりの神であるお方です。神ご自身が、人としてこの地上に来てくれました。
誰のために?私のために。あなたのために。
この羊飼いたちと同じように神の招きに答えるとき、私たちは昨日までのようなむなしい戦い方はしません。いや、できません。
この目に見える世界を遥かに超える、目に見えない永遠の世界があることを知った者は、昨日までと同じように生きることはできません。
昨日までの羊飼いたちの目は、地上でメエメエ鳴いている羊の番をすることだけしか使いませんでした。
だが今日からは、彼らの目は天を向き、神を見上げ、喜びをもって神を賛美して歩むことができるようになったのです。
福音を聞いても、信じなければ、私たちは変わりません。しかし聞いて、信じるならば、確実に変わります。
そして神は、私たちの人生を変えるために、イエス・キリストというプレゼントを与えてくださいました。
羊飼いのように、手ぶらで受け取ればよいのです。この世の貧しい者、罪に苦しむ者、傷ついた者に、ただで与えられるプレゼントです。
ただ感謝して、受け取るだけでいいのです。これがクリスマスのとっておきの贈りものです。どうか受け取ってください。
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