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2019.1.13「遥かなる時の果てに」(ルカ3:21-38)

 こんばんは、明日が原稿〆切の総会資料(牧会目標)がまだできていない、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 さて、今から10年以上前ですが、篠原涼子さん主演の「ハケンの品格」というドラマがありました。
水曜夜10時ということで、祈祷会が終わった後に妻と一緒に仲良く視聴していました。教会員にはナイショですが
派遣社員でありながら毎回ごとに資格を披露する、現代の水戸黄門のようなキャラクターを篠原さんが好演していました。
 しかし私にとってこのドラマはもう一つの楽しみがありました。
なんと、篠原さんの職場にいる正社員の一人に、「近」というネームプレートをつけた人がたまに出てくるのです!
後で、演じていた俳優さんが上地雄輔さんだったと知りましたが、原則、完全な脇役扱いです。
ネームプレートには「近」という漢字一文字が見えるものの、劇中で同僚からも名前を呼ばれることがほとんどありません。
果たして彼は「ちか」なのか「こん」なのか。残念ながら「こん」でした。チッ
今日の説教の導入では、そのように同姓同士でも気を抜けない「近」の名字のルーツについて触れています。
 ちなみにわが同盟教団の教職者名簿は、名字をローマ字のイニシャルで並べた索引がついていますが、
「C」のところは、私(Chika)と、次期理事長の呼び声高い、招待キリスト教会の趙南洙先生(Cho)の二人だけです。
だからどうしたと言われそうですが、不思議な一体感。しかも順番は私が先なので、ちょっと優越感。どうもすみません。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』3章21-38節 


1.
 私が初対面の方に自己紹介をするとき、「近という名字は珍しいですね」と、よく言われます。
日本には少なくとも約10万種類の名字があるそうです。インターネットで調べたら、近(ちか)または近(こん)は10万中、2890位。
数字が大きいのでいささかピンときませんが、上位3%の中に入っていますので、決して珍しい名字ではありません。
とはいえ日本で一番多い名字である佐藤さんが全国に200万人いるのに対して、近(ちか)または近(こん)は5000人。
上位3%に入っているとはいってもトップと400倍の開きがありますので、やはり珍しい、という印象を与える名字かもしれません。
小学生の頃、父に泣きついたことがありました。近なんて名字だからからかわれる、佐藤とか鈴木みたいな普通の名字がいい、と。
すると父が「そんなことを言ったら由緒正しい名字が泣くぞ」と言って、祖父から聞いたという名字のいわれを教えてくれました。
なんでも近藤さんの家来であったうちのご先祖様が、ある日の戦で、敵の大将を討ち取るという大手柄を立てたそうです。
そこで喜んだ主君が褒美として、わが先祖に恐れ多くも近藤の近(こん)の字を名乗ることを許した、
というたいへんうさんくさいありがたい話でした。だったら近(ちか)じゃなくて近(こん)だろ、と心の中で思ったものです。
しかしうちの家紋をインターネットで調べてみたら、近藤家と同じ「鹿角紋」というものでした。
実際にそれと近いことがあったのかもしれません。近だけに。
 聖書の中には、しばしば家系図が登場します。
今日の箇所もまたそのひとつですが、なんでこんなの聖書に必要なの、と思われる方もいるかもしれません。
しかし日本人一億二千万の中に10万の別々の名字があり、それぞれにエピソードがあります。
ましてや神に選ばれた約束を先祖から連綿と引き継いできたユダヤ人にとって、自分が属する家系を示すものは何よりも大事なことでした。
それが聖書の中に、頻繁に家系図が登場する理由です。
そして新約聖書には、このルカ福音書3章とマタイ福音書1章に、イエス・キリストについての家系図が記録されています。
マタイ福音書のほうは、おそらくみなさん必ず読んだことがあるでしょう。
なぜなら新約聖書を開くと最初にこれが書いてあるので、どうしても一度は読まざるを得ないからです。
そして多くの方が、その長ったらしい家系図につまずいて、そこから聖書を読み続けることに挫折します。
そのマタイ福音書の系図は、ユダヤ人の先祖アブラハムから始まり、王ダビデを経由して、救い主イエスの誕生へとつながっていきます。
ところがこのルカ福音書の系図は、マタイのものよりもはるかに大きなスケールでイエス・キリストの血統を描きます。
イエスの父ヨセフから始まり、やはりダビデを経由して、アブラハムの先を超えて、なんと人類の先祖、神の子アダムにまで遡るのです。

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2.
 マタイによる家系図には、特別な役割を果たした四人の女性を除くと、アブラハムからヨセフまで、40人の名前が書かれています。
対してこのルカによる家系図は、アブラハムからヨセフまで56人、さらにアブラハムからアダムまでを合わせると全部で76人、ほぼ二倍。
またアブラハムからダビデまではほとんど一致していますが、ダビデ以降はサラテルとゾロバベル以外はまったく異なっています。
同じイエス・キリストの系図なのに、どうしてここまで名前が違っているのか。人によって、異なる説明がなされます。
たとえば、一番ポピュラーな説明は、マタイのほうはヨセフの家系、ルカのほうは、マリヤの家系を描いている、というものです。
昔は名前というのは生涯で頻繁に変わるというのが珍しくなく、実際には同じ人物を表している、という人もおります。
ヘブル語、アラム語、ギリシャ語など、聖書の歴史で用いられていた言語による違い、という人もおり、真相は神のみぞ知るというところです。
 しかしきょう私たちは、ふたつの家系図を比べ、多くの違いよりも、わずかな共通点に目を留めてみたいと思うのです。
ダビデ以降、異なった名前で離れていく系図が、サラテル、ゾロバベルという二人の中でまたひとつとなる。
そしてそこからまた異なった名前で離れていく中、最後にヨセフでひとつとなり、そしてイエス・キリストへと続いていく。
このサラテル、ゾロバベルという名前は何を意味しているのか。それは、イスラエルの辿った歴史についていささか説明する必要があります。
紀元前586年、イスラエルの首都エルサレムはバビロン帝国によって滅ぼされ、国家としてのイスラエルはそこで一度滅亡しました。
生きのびた民のほとんどが捕虜となり、バビロンへと連れて行かれました。彼らはそこで70年間、捕囚として過ごさなければなりませんでした。
サラテル、ゾロバベルは、王族としてその苦しみを味わいました。それは偶然の出来事ではなく、神のさばきであったと聖書は書いています。
しかしこのサラテルの父、またゾロバベルの祖父にあたるエコヌヤに対して、当時の預言者エレミヤはこのように語りました。
「たとい、ユダの王エコヌヤが、わたしの右手の指輪の印であっても、わたしは必ず、あなたをそこから抜き取り、あなたと、あなたの産みの母を、あなたがたの生まれた所ではないほかの国に投げ出し、そこであなたがたは死ぬことになる。彼らが帰りたいと心から望むこの国に、彼らは決して帰らない。」このエコヌヤという人は、さげすまれて砕かれる像なのか。それとも、だれにも喜ばれない器なのか。なぜ、彼と、その子孫は投げ捨てられて、見も知らぬ国に投げやられるのか。地よ、地よ、地よ。【主】のことばを聞け。【主】はこう仰せられる。「この人を『子を残さず、一生栄えない男』と記録せよ。彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」(エレミヤ22:24-30一部抜粋)

3.
 神はこのエレミヤへの預言を通して、ユダの王エコヌヤの子孫は、再びダビデ王家を再興することはできない、と語りました。
エコヌヤの息子、孫にあたるサラテル、ゾロバベルは、ダビデの直系の子孫として、このさばきのことばを受け止めながら生きていたことでしょう。
しかしこの二人が、異なる名前が続くふたつの家系図の数少ない共通点として語られるのは何を表しているのでしょうか。
それは、彼らの子孫はダビデ王朝を再興することはできないというさばきの預言にかかわらず、神は救い主を与えてくださったという喜びです。
この二つの家系図に書かれている数多くの違いを説明することはできないし、もっともらしい説明を加える必要もありません。
大事なことは、神は人間には決して説明することのできないルートを通して、救い主イエス・キリストを確かに与えてくださったということです。
 私たちはこのイエス・キリストを信じることによって救われます。きっと今まで耳にたこができるほど聞かされていたことでしょう。
しかしイエス様が実際にお生まれになってくださらなければ、私たちは決して信じることはできませんでした。
そこには、私たちがふだん考えることもないような、歴史を連綿と貫いてきた人々の思い、そして重みというものが働いています。
ダビデ王家からは決して王は生まれないという、何百年にわたる、イスラエルの民の悲しみ、怒り、絶望、悔い改め、祈り、・・・・
ことばにならないものが積み重ねられながら、しかし神は不可能を可能にしてくださいました。
イエス・キリストはダビデの子孫ヨセフを実父ではなく養父として、そして処女マリヤから罪のないお方として生まれてくださったのです。
 私たちにとって救いとは個人的なものにとどまりません。信じたら天国に行けるとか人生に希望が生まれるということだけではありません。
聖書の中には、イスラエルの歴史を通して人類の歴史そのものが描かれています。誘惑にさらされ、果てしなく罪を犯す、あらゆる人々の姿が。
しかし永遠に続くかと思われたその絶望の歴史に、イエス・キリストによって終止符が打たれ、そして私たちはそれを信じました。
数え切れない神の民が、私たちがいま受け取っている救いを求めて、それを果たせずに死んでいきました。
その中で私たちがいま信じ、罪赦され、永遠のいのちをいただいたこと。それは古の人々がどれだけ待ち望んでいたことでしょうか。
 ルカは、イエス・キリストのバプテスマについて、祈っておられたときに聖霊を受けられたと記します。何を祈っておられたのかはわかりません。
しかしイエスさまは、罪がないお方なのに、私たちと同じものを背負うために、罪の悔い改めに基づくパブテスマを受け、そして祈られました。
歴史のなかで絶え間なく積み重ねられてきた、あらゆる罪人たちの苦しみをおぼえながら、十字架への決意を祈っておられたのです。

結.
 私たちもまた、この家系図に示された、はるかな時の流れの中で、私は神に見いだされ、そして今救われているということをおぼえましょう。
まだ神を信じておられない方にとっても同じです。たまたま教会に通うようになり、だいたいわかったから信じる、という話ではないのです。
この世界が作られる前から神さまが永遠の計画の中で一人ひとりを選び、しかるべき時に与えてくださるもの、それが救いです。
神の子アダムが造られる前に、すでに私たちは神の救いの計画の中に名前が書き込まれていたとは、なんという驚くべきことでしょうか。
だからこそ、この救いを一度受け取るならば、決して見捨てられることはありません。
無味乾燥な名前の羅列と見える、この系図の中には、あなた自身を神がどれほどの深さと広さをもって救おうとされているのか、記されています。
そのはるかな、限りない神の愛に応えて、歩んでいきましょう。

posted by 近 at 21:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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