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2019.1.20「誘惑への必勝法」(ルカ4:1-13)

 こんばんは、最近は戦国の時代小説にはまっている、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
「秀吉がその才(才能)を恐れた男」というと、以前大河ドラマにもなった黒田官兵衛が有名です。
しかしもうひとり、利休七哲(千利休の七人の直弟子)にして熱心なキリシタンであった、蒲生氏郷という大名がいました。
 ある人が秀吉に「信長様と、氏郷殿がそれぞれ軍を率いて戦わせたら、どちらが勝つか」と聞いたそうです。
すると秀吉は「御館様(信長)が勝つ」と答えました。その理由がまた面白いのです。
「たとえ御館様方の兵を九割方倒したとしても、御館様のことだ、ご自分は必ずうまく戦場を脱けておられることだろう。
しかし氏郷方の兵を五、六騎も倒せば、必ずその中に氏郷も混じっている」
つまり、蒲生氏郷は常に兵の先頭に立って戦っていたということです。決して弱いという意味ではありません。
ヨシュアを彷彿とさせますね。
民の戦いを背後で祈りをもって支えたモーセと、自ら先頭に立って戦いに臨んでいたヨシュア。どちらも優秀な指導者でした。
そろそろ各地の教会から人事異動の噂が聞こえてくる頃です。
次に来る牧師は、モーセ型か、ヨシュア型か。それぞれの教会にふさわしい牧会者が導かれるように。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』4章1-13節 


序.
 吸血鬼には十字架。狼男には銀の弾丸。口さけ女にはポマード。人間が考えた魔物には、決定的な弱点が存在します。
しかし悪魔は、人間が考え出した魔物ではなく、最初の人間が造られた時からすでに存在していたことが『創世記』には触れられています。
そして悪魔には、これをかざせば逃げていくとか、これを唱えれば消えてしまう、といった決定的な弱点は存在しません。
悪魔は神を恐れません。それどころか神殿の頂へイエス様を連れて行きます。
聖書のことばを唱えれば、逃げていくということもありません。むしろ下手なクリスチャンよりも、よほど聖書をおぼえています。
悪魔は、聖書にこう書いてあります、とイエス様を誘惑し、それに対してイエス様も、いや、こうも書いてある、というやりとりが三度続きます。
どうせならイエス様も指先から雷でも出して悪魔を消し去ってくれたらいいのに。映画化しても盛り上がりそうにない、地味な戦いです。
 しかしこの地味な戦いこそ、もっとも読み落としてはならないところでしょう。
イエス・キリストは悪魔に対抗するにあたり、神としての特別な力はいっさい用いません。用いたのはただ聖書のみ。
釈迦に説法ならぬ、神に聖書。都合のよい聖書の引用で惑わしてくる悪魔に対して、イエス様も聖書のことばで戦い、そして勝利しました。
悪魔に対して有効な武器は、この聖書以外にはありません。
しかし聖書を紙に映して扉に貼っておけば悪魔は入ってこれない、というような生やさしい相手ではないことは確かです。
だからこそ、私たちは聖書を少しずつ心の中に貯えていきます。
聖書は、ひとつだけ取り出して自分の考えに都合よく当てはめていくものではありません。
聖書66巻に込められている、一つ一つのことばをより広く、より深く学びながら、聖書全体を実現する人生を歩んでいくこと、
ぜひそれを忘れないでください。

1.
 最初の誘惑において、悪魔はこう呼びかけました。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」
イエス様は、その地上での生涯の中で、病をいやし、嵐を静め、死人をよみがえらせ、その他多くの奇跡を行いました。
しかし自分のために力を用いたことはありません。父なる神が求めておられることをイエスは常に知っており、それだけのために用いました。
第一の誘惑は、パンを石に変えて空腹を満たせということではありません。偽りの自由への誘いです。
父なる神から自由になって、あなたに与えられている力をあなた自身のために用いよ、という誘惑です。
 悪魔は、人類の先祖、アダムとエバに対しても、同じやり方を使って、神と人とのあいだの親しい交わりを破壊しました。
人よ、神のことばの束縛から解放されて自由になれ、そうすればあなたがたが神のようになって永遠に生きることができるのだ、と。
しかし人が神の命令を破ったとき、手に入れたのは自由ではありませんでした。罪の原理と、その結果である死であったのです。
 こうして日曜日、私たちは礼拝に集まります。礼拝そのものは、説教が長引いてもせいぜい一時間半どまりです。
しかし教会まで通う時間、自分が担当する奉仕を準備する時間、礼拝の後のプログラムの時間、合わせれば途方もない時間です。
またクリスチャンは、月定献金といって、収入の1/10を神にささげます。義務ではないと言いつつも、それがなかったら教会は運営できません。
月定献金だけではなく、礼拝や祈祷会での献金、感謝献金、指定献金、合わせれば、高額所得者も及ばないような負担割合です。
 教会に来なければ、クリスチャンにならなければ、こんなふうに時間やお金を出す必要もなかったのに。
来週からでも遅くない、日曜日は家で寝ていよう。献金に使うくらいなら趣味の充実のために用いよう。一度それを実行したことがありました。
教会から離れてそれで心が楽になったでしょうか。疲れたからだが軽くなり、逆にお財布の中身は重くなったでしょうか。まったく逆でした。
みことばを受け取らなければ、心が渇いてひからびてしまいました。趣味に投資できるはずのお金は、どうでもよいことがらへ消えていきました。
悪魔は、神のことばの束縛から離れて、自由になれ、と呼びかけます。しかしキリストは、はっきりとこのように言われました。
「『人は、パンだけで生きるのではない」と書いてある」。この言葉には続きがあります。「人は、神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」。
私たちは、神の言葉を人生のよりどころとしていくときに、本当の意味で自由なのです。

2.
 第二の誘惑です。世界の国々を一瞬のうちに悪魔はイエスに見せ、自分を拝むならば、一切の権力と栄光を与えようと持ちかけました。
しかしあらゆる権力と栄光は、もともと悪魔のものではなく、神のものです。そして父なる神のものは、ひとり子イエスのものです。
ここにあるのは、持っていないものを与えようという誘惑ではありません。やがてイエスの手に入るものを、今すぐに受け取れるぞ、ということです。
イエス・キリストが、あらゆる栄光を受けるためにどうしても通らなければならない苦しみがありました。それが十字架という犠牲の道です。
悪魔は言います。もし今すぐ私を拝むならば、十字架という大いなる苦しみを通らなくても、あなたは栄光を受けることができるのだ、と。
 しかしイエス・キリストは、栄光への近道、抜け道を拒絶しました。8節、「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある」。
人々が罪と悪魔の支配から解放される道は十字架しかありません。苦しみを経なければ、決して栄光は与えられません。
苦しみを経なければ、目的のものを手に入れることはできないのです。信仰は、苦しみを避けるための方法論ではありません。
苦しみに飲み込まれず、苦しみの先にある、永遠の栄光から目を離さないために与えられたものが、信仰です。
 とはいえ人がどんなに苦しんでも、それは救いを達成する力ではありません。
救いは神の子イエス・キリストが十字架で自らを完全な、神へのいけにえとして、いのちを捨てる以外には決して完成されません。
これを信じる者はだれであろうと必ず救われます。そしてどんな者にも救いを与えるために、キリストは十字架への道を手放しませんでした。
キリストがその道を選んだのであれば、この方を信じて従う私たちも同様です。
楽な道にはそれなりの報いしかありませんが、苦しみを尽くした道にはそれにふさわしい冠が待っています。
一人ひとりが、このキリストが選ばれた道、悪魔が差し出してもはっきりと拒絶された、苦しみと悲しみの道を恐れずに歩みたいと願います。

3.
 悪魔は最後に、イエス様をエルサレム神殿の頂に連れて行き、こう語りました。9節、「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。」
しかしそこからが驚きで、悪魔は誰から教えられたかわかりませんが、私たちも知らないような聖書のことばを朗々と語り出します。
「『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」
この言葉だけを聞いて、詩篇の91篇の11、12節と即座に答えられる方がいるでしょうか。悪魔は、私たちよりも暗唱聖句を頑張っています。
しかしイエス様は、たちどころにこのように返されました。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」
 貴金属の王、ダイヤモンドを研磨するためには、ダイヤモンドを使います。
そして神のことばである聖書を正しく受け取り、適用するためには、やはり聖書が必要です。
たとえば、「祈ったものはすべて与えられたと信じなさい」と、確かに聖書の中に書いてあります。
じゃあ神様、一億円ください。一生懸命祈っているところですが、まだ与えられません。どうしてでしょうか。
聖書の別の所にこう書いてあるからです。「食べる物と着るものがあれば、それで私たちは満足すべきです。」
 いささか単純すぎるたとえかもしれません。
しかしある聖書のことばを自分に都合よく切り出して、みことばが与えられたというのは、悪魔と同じやり方なのだ、ということが言いたいのです。
私の計画に、都合よく神の言葉をあてはめていくのではありません。神の言葉に、私の計画をあてはめていくのです。
そのために、一つの言葉を切り出すのではなく、日々たくわえていく数々のみことばを総合しながら、神の導きを求め、確信を得ていきます。
だからこそ、私たちは一生をかけて、あらゆる機会を見つけて聖書を学び続けていくのです。
私は、自分の牧会のなかで、礼拝や祈祷会への出席を勧めはしますが、強制はしません。強制できるものでもありません。
しかし強制されなくても、それを自ら選び取っていく者は必ず成長します。集会出席だけではなく、日々の家庭礼拝もまたそうです。
悪魔は、聖書を知らないクリスチャンを恐れません。逆に、聖書を知らないクリスチャンは、悪魔を必要以上に恐れます。
より深く、より広く、聖書をたくわえ、口ずさみ、実行していくことが、悪魔に勝利するための、地味ですが、確実な道です。

結.
 イエス・キリストは、ご自分の戦い方を通して、私たちに誘惑への必勝法を示してくださいました。
それは言うまでもなく、あらゆる時、あらゆる場合に、神のことばを用いるということです。
生活の先行きに不安を抱えている人には、自分の腹を満たすパンを得るよりも、神のみこころという目に見えないパンを求めることを。
苦しみを避けて目的を達成しようと願っている人には、ただ神を礼拝し、神に仕えることを通して、苦しみはやがて栄光という実を結ぶことを。
苦しみに満ちた、人生からの究極的な解決を求めている人は、聖書をはじめから終わりまで読んでみてください。
そこには、あなたが今まで経験してきたような、その場しのぎの解決では決して終わりません。
愛と恵みに満ちた神のことばがあなたを山々のように取り囲み、決して消えることのない救い、人生の真の解決が待っています。

posted by 近 at 22:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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