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2019.2.3「イエスのいちばん長い日」(ルカ4:31-44)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
『新改訳2017』は、それまでの新改訳シリーズから訳語を全面的に見直したということが売りになっています。
たとえば『つぶやく』は悪い意味では使われなくなっているので『不平を言う』に変えた、と説明されています。
しかし昨今のツイッターによる炎上騒ぎは「つぶやく」ことの恐ろしさを物語っているのではないでしょうか。
FBとインスタは一応アカウントだけは登録していますが、ツイッターは口をすべらせるのがこわくて、今なおできません。
日本だけでなく、アメリカでもすごいですね。他の国でも、あまり報道されないけれど、同じような感じなんでしょう。
 しかし炎上するのも、それだけ人に見られているからこそ。
記事数四百を越えているにもかかわらず、10年もの国債並みに何の動きもない当ブログからしたらうらやましいような気もします。
いつか、パリサイ人が歯ぎしりして押し寄せてくるくらいの説教をしたいものですね。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』4章31-44節 
メッセージの録画に失敗しました。今回はご容赦ください。


1.
 今から50年以上も前の映画ですが、「日本のいちばん長い日」という、映画がありました。(数年前にリメークされました)
どのような映画かといいますと、日中戦争および太平洋戦争の最後の24時間について描いた映画です。
昭和20年8月14日の正午、いわゆる御前会議にて、無条件降伏が決定してから、
翌日15日の正午に玉音放送が流されて国民にそれが伝えられるまでの24時間、それを日本のいちばん長い日と名づけたわけです。
 新約聖書の物語のなかで、「イエスの一番長い日」というタイトルで選ぶとしたら、言うまでもなく十字架をめぐる一日が挙げられるでしょう。
しかし今日の聖書箇所もまた、イエスさまの、安息日をめぐる24時間を息もつかせぬタッチで描いているということができます。
まず最初の31節では、「安息日ごとに」とありますので、イエス様はカペナウムを伝道の拠点として、会堂で語り続けていたことがわかります。
そしてある週の安息日の24時間のなかに起こる、四つの出来事が描かれていきます。
最初に、イエスがいつものように安息日で語っておられると、会堂に汚れた霊につかれた人がいて、わめきだし、イエスはその霊を追い出しました。
次に、イエスは立ち上がって会堂を出て、弟子のひとりシモン・ペテロの家に行き、ペテロのしゅうとめの熱をしかりつけて、彼女をいやしました。
三番目に、その日が暮れると、人びとが病人や悪霊につかれた人々をイエスのもとに連れてきます。イエスは彼らもみないやしました。
最後に、休む暇もない夜が明けて、朝になるとイエスはひとりで父なる神との祈りの時を持ちました。
人びとは自分たちから離れないでほしいと引き留めようとしましたが、イエスはそれを拒み、ユダヤの諸会堂をまわりながら福音を伝えました。
 じつはこれは一日のあいだに起きていることなのです。
そしてその中心にあるのは、かたちだけのものになっていた、安息日、すなわち礼拝に、いのちを再び吹き込んでいくイエス・キリストの姿です。
イエスの時代に遡る約1400年前、神はイスラエルの指導者モーセを通して、こう命じられました。
あなたがたは、一週間の最後の土曜日、安息日を聖別して、その日を礼拝のために用いる一日とせよ、
神であるわたしがこの天地を六日間でつくり最後の一日を休んだ、だからあなたがたもその一日を、神をおぼえる聖なる日とせよ、と。
しかしいつのまにか、安息日の礼拝は、ただのしきたりの遵守、儀礼的、義務的なものになってしまっていました。
安息日は、人がすべての仕事から手を離して、ひたすら神のみわざに感謝し、御名をほめたたえる日である、という精神から逸脱し、
安息日は仕事をしてはならない、歩いてもいけない、助けてもいけない、そのような無意味なしきたりに縛られる日となってしまったのです。

2.
 まず、33節には、こんな言葉が出て来ます。「また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。」
「汚れた悪霊につかれた人」と聞くと、多くの方が、口からよだれを垂らし、半狂乱になった人をイメージすることでしょう。
しかしなぜそのような人が、安息日に会堂にいることができたのでしょうか。
彼はイエスが現れるまで、「普通の」人間として、会堂に集まっていた人のひとりとして、その礼拝に加わっていたのです。
そうでなければ、誰から見ても悪霊につかれていると思われるような人をどうして会堂の中に入れるということがあるでしょうか。
 どうか聖書から正しく読み取ってください。悪霊にとりつかれている、というのは、人の目にはわからないのです。
悪霊につかれていた人でさえ、何食わぬ顔で容易に入り込むことのできたのが、イエスの時代の礼拝でした。
その礼拝は、まことの意味で礼拝ではなかった。神のことばが人びとの心に切り込んでいかない。だから悪霊もあぐらを掻いて聞いていられる。
礼拝を、クリスチャンのお務めと呼んだ人がいました。おつとめというのは、辞書を引くと、義務としてやむをえず行うことです。
礼拝はお務めであってはなりません。説教者は、これが自分の生涯最後のことばになるかもしれないという覚悟をもって語ります。
一生涯の中で、いまこの時しか聖書の言葉を聞くことがない人もいるかもしれません。だからこそ神のことばを余すところなく伝えようとします。
 イエス・キリストのことばには権威がありました。いま、そのことばによって闇に光が差し込み、悪霊がその人からあぶり出されたのです。
悪霊は、口からよだれを垂らすような、わかりやすい姿で人を支配しません。むしろ、人の心に「こちらがふつうだ」とささやきます。
他人には見えていないところで、情欲や暴力によって自分と家族の生活を破壊している人びとがいます。
悪霊は「お前はおかしくない、みながやっているのだ、お前は普通だ」とささやき、その人びとはますます闇の深みへと転がり込んでいきます。
情欲や暴力というだけではありません。
神を信じることが異常、神なき世界を信じることが普通、そんな世界観にどれだけ多くの人びとがとらわれていることでしょうか。
 私たちは、イエス・キリストを信じています。イエスを信じるということは、自分の中にイエス、そして聖霊なる神を持っているということです。
だから悪霊は私たちの中に入るどころか、直接手出しをすることもできません。
しかしかつて悪霊に支配されていたときの名残である、悪い思いや悪習慣をいまもとどめ、ことある毎にそれがぶり返すということはあります。
だからこそ、私たちの中にいる聖霊が、それを気づかせてくださったときに、それを主の前に悔い改め、ゆるしといのちの恵みをかみしめます。
それが、いま私たちがささげている礼拝のあるべき姿です。礼拝とは、常に心が突き刺されるものでなければなりません。

3.
 続けて38節をご覧ください。「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた」。
「立ち上がって会堂を出た」。これは礼拝が終わって、という意味だけではなく、当時の安息日の教えからの決別を表しています。
安息日に慣習として教えられていた無意味なしきたりを象徴することばに、「安息日の道のり」という言葉があります。
安息日は一切の仕事をしてはならない日だから、二千キュビト以上は歩いてはいけないという、聖書にない教えがまかり通っていました。
一キュビトは約44センチなので、二千キュビトは888メートル、およそ900mです。
ですから、当時のユダヤの諸会堂は1.8キロごとに一軒ずつ建てられていました。人びとは自分の家から近いほうの会堂へ通うわけです。
ここで計算の得意な方は、ちょっと待って、と思うでしょう。会堂まで500mだったら往復1キロ、900メートルを越えている。帰りはどうするの。
だから礼拝が終わっても日が暮れるまで会堂で待ちます。ユダヤでは日が暮れるまでが一日ですので、安息日が終われば、自由に帰れます。
礼拝が終わってもなかなか帰らない、どこかの教会みたいですね。しかし走り回ったらいけないわけです。みんな横になって、歩かないようにする。
「イエスは立ち上がった、そして会堂を出た」。そこには、人びとを縛っているしきたりへの決別が込められています。
安息日は何のためにあるのか。仕事をしない日ではない。自分のためにではなく、神のために仕える日。そして神に仕えるとは、人に仕えること。
だからイエス様は、シモンのしゅうとめの熱も、それがパリサイ人からは仕事にあたると言われる可能性があっても、ためらわずいやされたのです。
そしていやされたしゅうとめも、もてなしのために動き回ることは仕事にあたると批判されることを恐れずに、イエス様は喜んでもてなしました。
 人びとが日が暮れてから、病人や悪霊につかれた人びとを連れてきたのも、安息日にはそれが認められていなかったからでした。
なんとばかばかしい、と私たちは言うかもしれません。しかしもっとばかばかしいものに私たちのまわりの人びとは支配されています。
今まで自分が生きていた、人生観、価値観、生活経験にとらわれ続け、そこから出ようとしない、それが普通なのだと思っているのです。
しかし私たちクリスチャンは、イエスのことば、そして十字架の贖いを通して、そのような生き方から訣別しました。そしてイエスは言われました。
「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
神のことばを語ることは、あらゆる奇跡やよきわざに優先します。
悪霊は確かに実在します。そして悪霊は、神のことばを遠ざけて生きる生き方こそ普通だと人びとにささやいています。
しかし神のことばを語るとき、確かに人びとの心は悪霊の束縛から解放されるのです。そのために私たちは先に救われました。
イエス・キリストがご自分のいのちを捨てて、私たちにいのちを与えてくださったという福音を伝えていきましょう。そのための主日礼拝です。
ここを出発点として、これからの一週間を、一人ひとりがみことばに生き、主に従っていきたいと心から願います。

posted by 近 at 23:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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