2月13日(水)午後0時49分頃、当教会の初代牧師(前任牧師)、若月 誠先生が召天されました。85歳でした。
葬儀は、以下の予定で執り行われます。私も、教会代表として列席させていただく予定です。
日時:2019年2月16日(土)午前10:00より
場所:まつい葬祭会館(〒377-0204 群馬県渋川市白井258 TEL 0279-22-1727)
司式者 西山勝美牧師(ベテスダホーム白井城代表)
報告は、次回の更新の際にさせていただきます。慰めのためにお祈りください。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』5章1-11節
1.
今日の説教題は、イエス・キリストが、漁師シモンに語られたことばからとっています。
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」。しかし彼はまず何と答えたでしょうか。
彼は昨晩の失敗体験から学んだことを思い出して、ついこういう切り口から答えてしまうのです。
「先生。私たちは夜通し働きましたが、 何一つとれませんでした」。
プロの漁師である我々でさえ魚一匹取れなかったのです。どうして元大工であるあなたに漁がわかるのですか。
そんな思いが必ずあったはずです。人は神のことばの前に、まず自分の経験則を持ち出して、やんわりと拒絶します。
私たちを神のことばに逆らわせるのは何でしょうか。それは悪魔でも環境でもありません。私たちの生半可な経験です。
成功体験は、同じことを繰り返せばよいと人にささやきます。失敗体験は、二度と同じことを繰り返してはならないと勧めます。
しかし自分が経験してきたことに頼るならば、神がまったく新しいことをこれからなしてくださるという信仰を心から締め出してしまいます。
今日、神はあなたに命じられます。「深みにこぎ出せ」。
その「深み」が何を指すのかは人によって違います。しかしそこは、すでにかき回したが、何の結果も生み出さなかったところ。
あなたは言います。「私の経験から言えば、主よ、それは無理です」。シモンの心も最初はそうでした。
しかし経験則を出して神にもの申した彼の人生を変えたのは、その次の言葉です。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」。
これは信仰というよりは半信半疑の響きがあります。しかしたとえどうあれ、彼は網をおろしたのです。必要なのは行動です。
あなたの人生の決断は、今まで自分の成功体験、失敗体験、あるいはそのどちらでもない経験の繰り返しで成り立っています。
こうすればうまくいくはず。そんなやり方はうまくいくはずがない。前例がない。聞いたことがない。
しかしシモンがイエス様のおことばどおり網をおろしたとき、奇跡的な大漁が起こりました。
うれしい悲鳴をあげそうなものですが、彼はそうではありませんでした。いっしょの船にいたイエス様の前に彼は突っ伏します。
そしておそらくイエスと目を合わせることもできずに、ただこう叫びました。
「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」。
2.
人が神を本当に知ったとき、そこに最初に起こる感情は、喜びや感謝でもなく、恐れである、ということに驚くかもしれません。
しかし信仰へと向かうとき、だれもが通る道なのです。
触れることの許されない、神のきよさ、そしてそれに比べて自分が何と罪と闇をまとっているのか。
行動ではなく、存在そのものの罪に気づきます。しかしじつにその自覚がなければ、私たちの信仰はうわべに終わってしまうのです。
人は、それぞれが違うものを抱えて、教会に導かれて、礼拝を通して神に出会います。
しかし最初は違うものを抱えていたとしても、自分自身の罪という共通の門をくぐることなしに、イエス・キリストを信じることはできません。
私のような罪人のために神が死んでくださった。私のような者の中に入ってきてくださり、決してあなたを捨てないと約束してくださった。
この神こそ、闇のまったく入り込むことのできない、光であるお方。対する私はいまも自分自身の中に深い闇を宿しているもの。
その釣り合いのとれなさの前に人はまず恐れを抱くのです。神のことばがまっすぐ語られるとき、そこには恐れが生じます。必ず生じます。
ヘブル人への手紙にはこうあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、
たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」。
みことばは私たちの心をえぐり出します。心の中に張り巡らされた罪の根っこをスコップのように奥底から掻き出そうとします。
肉がえぐり出されて笑顔でいられる人はいません。ましてや心ならばなおさらです。
しかし心がえぐり出されて、はじめてそこに、決して取り上げられることのない平安が与えられます。
私たちクリスチャンは、今もみことばを開くたびに心がえぐり出される経験をします。しかしイエス様はこわがらなくてもよいと言われます。
それは、たとえ心がえぐり出されるような経験だとしても、そこには必ずいやしと恵みがあるからです。
傷を見つめる者にはいやしが、罪を認める者には恵みがあふれます。そしてそれは、シモンの心だけでなく、生活も変えていくのです。
3.
11節をご覧ください。「彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った」。
誤解されやすいことですが、シモンはすでに弟子のひとりでした。
このできごとの前にイエス様はシモンのしゅうとめをいやしています。
またシモンがイエスにまず答えた「先生」という言葉は、師弟関係にある人たちしか使わない、特別な言葉です。
つまりどういうことになるでしょうか。シモンはすでにイエス様の弟子でした。しかし彼は捨て切れていなかったのです。
網を捨て切れていなかった。家族を捨て切れていなかった。漁師という職を捨て切れていなかった。
あらゆるものを捨て切れていない中で、彼はイエス様から再び招かれるのです。「これから後、あなたは人間をとるようになるのです」と。
そして聖書はこう続きます。「彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った」。
「何もかも捨てた」とは世捨て人になったという意味ではありません。優先順位を逆転させたのです。
シモンはしゅうとめが病気のときにはイエス様を呼びました。夜通し働いて魚が捕れなかったときには、イエス様が魚をくださいました。
でもそれでよいのか。自問するシモンの声が聞こえてはこないでしょうか。
家族のためにイエスがあるのか。魚のためにイエスがあるのか。むしろ逆ではないのか、と。
イエスのために家族がある。イエスのために網があり、イエスのために漁師としての経験があるのではないか。
「何もかも捨てる」とは、仕えるべきものを逆転させることです。
自分が仕えるべき方に対して、かえってその方を自分に仕えさせていたことに気づくことです。
仕えるべき方に自分の持っているすべてをもって仕えるという当たり前のことを選び取るのです。
結.
あなたはキリストの弟子になりたいと願っていますか。もしそうなら、シモンと同じ呼び声が聞こえているはずです。「深みに漕ぎ出せ」と。
信仰の深みに漕ぎ出すために必要な物は何でしょうか。まず、今もしがみついているものが何かを探り、手放すということです。
それは置いてきた仕事であったり家族であったりするかもしれません。
あるいは私たちの心に今なお根付いている敵意やしがらみかもしれません。
しかしたとえそれがどんなものであっても、とにもかくにも私の手を離し、これをあなたにお任せしますと、神にゆだねるのです。
そうすれば、あなたは今か、ずっと後か、いずれにしても、どんな痛みや傷でさえも、無駄なものはひとつもないことに気づくでしょう。