司式は西山勝美牧師(ベテスダホーム白井城代表)、メッセージは高田泰男牧師(シオンの里代表)でした。
JECAの岩井キリスト教会、結城福音キリスト教会の信徒の方々(先生ご夫妻が豊栄教会の前に開拓)。
また地元、渋川カベナント教会(日本聖契キリスト教団)の木暮達也先生(若月先生ご夫妻が礼拝出席。気さくな先生でした)。
その他、交わりをいただいていた方々が最後までお付き合いくださり、感謝にたえません。

式場入口に、たくさんの写真とお花が飾られていました。スライドショー形式でまとめておきます。

開式30分前の撮影です。式には、上記4教会やシオンの里の方々など、20名くらいの方々が列席くださいました。

火葬後、遺品の引き取りのために、ベテスダホーム白井城の居室へお邪魔しました。
入口には、2年前に亡くなられた奥様、千鶴先生のお名前もそのまま残っていました。

調度品にこだわりが感じられる一方で、死に備えておられたのか、きちんと整頓されていました。

「いろはにほへと」と毎日復唱しておられたのでしょうか。豊栄には、写真入りの額と置き時計を遺品として受け取りました。
高田先生、西山先生、木暮先生、また岩井キリスト教会と結城福音キリスト教会の信徒の皆様、
生前たびたび訪問くださり、帰りも私を新潟まで送ってくださった渡辺兄姉ご夫妻、
皆様の愛に支えられて、豊栄を辞された後の若月先生は、幸せな18年間を過ごすことができたと思います。
私も明日(2/24)の礼拝説教で、若月先生の思い出を少し語らせて頂くことにしております。
「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」(詩116:15)。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』5章12-16節
1.
今日の聖書箇所には、「ツァラアト」という言葉が出てきますが、一般にはなじみのない言葉でありましょう。
「ツァラアト」というのは、旧約聖書の言語であるヘブル語そのままの言葉です。かつては「らい病」と訳していました。
らい病、今はらい病という言い方はされず、ハンセン氏病と呼びますが、それは遺伝する病気ではないし、感染力も極めて弱いものです。
しかしハンセン氏病患者は、古来より一般社会から隔離されるという差別のなかに生きてきました。
聖書でいう「ツァラアト」は、らい病に似ていますが、家や革製品にもツァラアトという言葉が使われています。
ですから誤解を防ぐために、らい病という表現をやめて、ツァラアトという発音そのままの言葉とした、という経緯があります。
ツァラアトがどのようなものであったのか、実態は正確にはわかりません。ただはっきりしているのは、
ツァラアトであると祭司から判断された者は、家族や社会から切り離されて、町や村の外で暮らさなければならなかったということです。
そればかりでなく、もっとひどい偏見も伴いました。この病気にかかったのはその人の罪のためであり、神からのろわれた者として見られたのです。
12節前半をもう一度お読みします。「さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。」
まるでツァラアトの人がその町の中にもともと住んでいたか、何気なく入ってきたかのような印象を受けるかもしれません。
しかし彼らは、例外なく、町の外に追いやられ、人々の前に出ることも許されませんでした。
もし町に入ってきたら、石もて追い出されるか、石をぶつけられて大けがをしても決して文句は言えないのです。
神のことばなのに、その背後には差別があったのか。それを論じることが今日の説教の目的ではありません。
今日、みなさんに問いたいのは、それでも必死に救いを求め、おそらく町の門でイエスに近づくチャンスをひたすら待っていた、彼の信仰です。
そこにあったのは、ただ信仰だけであり、それはこの言葉に集約されています。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」。
2.
「お心一つで!」この言葉の中に、数え切れないほどの日々、ひたすら苦しみ続けた、彼の人生すべてが詰まっています。
以下の説明はツァラアトではなく、ハンセン氏病についてのものですが、この病気は「らい菌」という細菌に感染することから始まります。
先ほど申し上げたように、らい菌そのものは、感染力の弱いものです。ですから多くの患者は、抵抗力の弱い、赤ん坊のときに発症します。
またこれも先ほど触れましたが、遺伝するものではありません。
しかし赤ん坊のときに発症するので、医学知識のない時代には、親や先祖からののろいと映り、偏見を生み出しました。
彼もまた、幼い頃からこのツァラアトに苦しめられてきたのではないでしょうか。
家族から引き離され、人々から差別され、野の獣のように町の外で生きなければならない一日一日を彼はひたすら繰り返してきました。
どんなに自分の人生を変えたいと思っても、決して変えることができません。
このツァラアトの隔離策が、神が律法で命じたものであるという事実は、信仰を生むどころか信仰から離れさせても不思議ではありません。
しかし彼は、イエスを「主よ」と呼び、ひれ伏しました。そしてただ一言、こう言ったのです。「お心一つで、私をいやすことがおできになります」。
ツァラアトのきまりが神のことばから来ているならば、そのツァラアトから自分を解放してくれるのも、神ご自身のお心以外にはない。
彼は、神への怒りによって自分を絶望にひきとめる、安易な道を選ぶことはありませんでした。
神がなぜツァラアトのようなものをこの地上に許しているのかはわからない、しかし神がこころを向けてくださるならば、私はいやされる。
信仰というのは、神への信頼です。人生の現実は、まるで神が私を集中攻撃しているかに見えることさえあります。
しかしそれでも、ただ神にすがりつくことしか、私の人生を変える道はない。信仰とは、神との真剣勝負です。
3.
イエス様は、ことばだけで病をいやし、ことばだけで嵐を静め、ことばだけで死人を蘇らせることのできるお方です。
しかしイエス様は、ここでは、ことばだけではなく、手を伸ばしてくださいました。
だれも恐れて触ろうとしない、いや、汚れが移るのを防ぐために触ってはならない、そのところにイエス様は手を伸ばしてくださいました。
そしてただ一言、「わたしの心だ。きよくなれ」。真剣に神を求める者に、神もまた真剣に向き合ってくださるのです。
ところが救いは真剣勝負だと言うと、それは律法主義だという人もいます。真剣という言葉に、どことなく真面目すぎる印象を持つのでしょう。
しかし真剣勝負が嫌いというならば、私は来週から講壇の天井からハンモックをつるして、寝そべりながら説教します。
説教というのは、説教者にとって真剣勝負です。それは救いが神と人との真剣勝負だから、語る者も真剣にならなければならないからです。
語る者が真剣にならねばならぬとすれば、聞く者は尚更です。
もし救われた者たちが、救いなんてこんなものだろうとなめてかかっているならば、神様もそんなものしか味わわせてくださらないのです。
実際のところ、人生で起こる事柄は、神に叫ばなくても、人との絆とか、考え方の切り替えで何とかやっていけるのがほとんどです。
進学、結婚、就職、欲しいモノ、食べたいモノ、やりたいコト、
「おこころ一つで」なんて叫ばなくても、誰かが助けてくれるし、自分でもなんとかやっていける。
とくに真剣に生きろなんて恥ずかしい言葉を堂々と語るのは、もはや時代錯誤も甚だしい、と言われます。
確かにほとんどのことはやでもか真剣にならなくても、それなりに満たされます。
しかし罪の赦しと、永遠のいのちに関しては、人間や時間の手にはゆだねられていません。それは神の御手にのみです。
求めなければなりません。気づかなければなりません。真剣なんてかっこ悪いと言い逃れていてはいけません。
自分に待ち受けている罪のさばきを悲しみ、何としても滅びから救い出されたい。
そう叫び、天に向かって腕を振り上げて、もがくとき、その叫びを神は必ず聞いておられ、私たちを救い上げてくださるのです。
それは救いを決断するときだけではなく、救われた後にも幾多も経験します。
今、私たちの叫びを神は聞いていてくださり、すでに手を伸ばして、まさに触れようとしておられるのです。
結.
疎外された人生から解放されるために、このツァラアトの人は真剣にイエスに求めました。
その真剣さに対し、イエスご自身もまた、真剣さをもって答えてくださいました。そして彼の悲惨な人生を完全に裏返してくださったのです。
14節のイエスの言葉、「だれにも話さないで、祭司に自分を見せ、供え物をささげなさい」は、不思議に思えるかもしれません。
なぜ、人々にイエスが私を変えてくれたと伝えてはならないのか。しかし彼の真剣さを知るイエス様の内なる声はこういうことではないでしょうか。
ごらん、人々は神のみこころを行うことを求めていない。むしろ話を聞くことだけを喜び、病がいやされることに目が向いてしまっている。
しかしあなたは神のみこころを行った。だから最後まで、聖書が命じているとおりのことを行い続けなさい。
救いのチャンスはすべての人に対して開かれています。求めていない、人に対してさえも。しかし私たちはやがて決断しなければなりません。
十字架の前に立ち、イエスを選ぶか、この世を選ぶか。永遠のいのちを選ぶか、永遠の滅びを選ぶか。
もしかしたら、今日がそれを選ぶ日であるかもしれません。
イエスが十字架の上であなたのためにいのちを捨ててくださったことをおぼえましょう。
イエスの前に、次の祈りをささげましょう。
「お心一つで、あなたは私の人生を変えることができるお方だと私は信じます」と。