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2019.3.3「上を見よ、内を見よ」(ルカ5:17-26)

 「ライフ・ライン」という番組をご存じでしょうか。
現在、全国13地区で放送されていますが、その経費は地元の諸教会(協力会)の献金によって賄われています。
17年前に私が当教会に赴任したとき、新潟地区協力会の会計をしておられた先生が異動することになりました。
そして、同じ豊栄市にある教会だから引き継ぎがやりやすいという理由だけで、私が会計を引き継ぐことになりました。
それから約10年間、会計を担当しましたが、黒字で終わったのはたぶん一回くらい。
いつも赤字会計に胃がキリキリ痛みながら、ようやくY先生に引き継ぐことができました。それが6年前の話。
と思ったら今年Y先生が県外に異動することになり、またお鉢が回ってきました。約40万円の赤字と一緒に。
そんなわけで、どうやってこの赤字を解消していくか、知恵を絞っているところです。何も思い浮かびません。
正直言って、教会の問題だけで手いっぱいなのですが、しかしこういった超教派の奉仕もなおざりにはできません。
牧師という職業は、ややもすると「自教会病」に陥りやすいものです。
超教派の奉仕は、そんな私たちに神様が与えてくださっている処方箋なのかもしれません。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』5章17-26節 


1.
 牧師になるために必要な学びをする学校を、神の学校と書いて「神学校」と言います。
必要な学びという割りには、神学校での学びは現場では役に立たない、と多くの牧師が口を揃えて言いますが、ま、それはいいとして、
私が卒業した神学校は、三年間の学びでしたが、大学卒業程度の学力が必要なので、社会人を数年経験している人が多いところでした。
で、先輩からこんな格言を頂きました。「神学生は一年目は後ろを見て、二年目は前を見て、三年目は下を見て、卒業間際に上を見る」。
どういうことかと言いますと、神学校に入って一年目、「これだったら会社勤めのほうがよかった」と後悔します。これ、後ろを見るの意。
これではいかんと、二年目は一念発起し、ひたすら前を見つめながら、学びと奉仕に励む。
しかし最高学年の三年目になると、こんなので現場に出てだいじょうぶなのかと意気消沈してしまい、下を見る。
赴任先もなかなか決まらず、焦ります。しかしそんなこんながあって、ようやく卒業間際、自分じゃない、神が導いてくださる、と上を見る。
 入学してすぐに上を見ること、つまり天を仰ぐことをおぼえればよいのかもしれません。それでこそ神を学んで生きる、まことの神学生でしょう。
しかし神様を学んで生きるとは、そんな簡単で安全な道ではありません。後ろを見て、前を見て、また下を見て、ようやく上に気づいて、
そこでようやく私たちは神のルールを知る。私たちとは神学生だけではなくて、神を求め、神を信じるすべての人のことを指します。

 この中風の人を担いできた男たち、おそらく友人であると思いますが、彼らとて、はじめから屋根の存在に気づいていたわけではない。
彼らは、何とかしてかけがえのない友人をイエス様のもとへと連れて行こうとしました。しかし家の中は満杯で、入ることができない。
どうにも運び込む方法が見つからずに途方に暮れて、彼らは天を仰ぎました。
そして天から再び地上へ目線を映したら、その途中にはっと気づかせられるものがありました。屋根と、そこに上る階段です。
ユダヤの家屋は石造りで、屋上に上れるようになっており、そして屋上の床部分、つまり屋根板もはがしやすい構造でした。
それでも屋根を外して人を吊り下ろすなど、常識と良識から外れています。イエス様が許しても家の主人が許さないでしょう。
しかし彼らは決断しました。
それは、たとえどのような批判を受けたとしても、中風の友を、何とかしてイエス様にいやしていただきたい、その一心でした。
20節をご覧ください。「彼らの信仰を見て」と。少なくともイエス様だけを、この行動を信仰とみなしてくださいました。
たとえ自分の心が自分を責めても、たとえ人の目にはどう映ろうとも、神に近づくこと、あるいは誰かを神に近づかせること、それが信仰です。

2.
 聖書を読むとき、想像力を膨らませることは決して邪道ではなく、むしろ必要なことです。
このつり下げられてきた中風の人は、いったいどんな表情をしていたでしょうか。どんな思いを内側に秘めていたでしょうか。
ここまでしてくれる友人たちに感謝の思いであふれていたでしょうか。ある意味さらし者のようになっちゃったことに頬を赤らめていたでしょうか。
聖書は、彼の内心についてまではっきりと語っていません。だからこそ、ここで私たちには想像力、あるいは共感力が大切です。
なぜイエスは「起きて歩け」ではなく「あなたの罪は赦された」と真っ先に言われたのか。それは、イエスが彼の心の中も知っておられたからです。
当時、中風をはじめとする、当時の医学では治療困難な病気は、本人や先祖の罪が原因だという迷信に支配されていました。
罪へののろいの結果が、この中風の苦しみだという、やりきれないあきらめがその人の心と表情には満ちていたのではないでしょうか。
 イエスさまは、この人に対して、まっさきに「起きて歩け」ということもできました。
事実、友人たちはその言葉を語ってもらいたいこそ、非常識という責めを背負ってでもここまでのことをやりのけたのです。
しかしイエス様は、彼の心が本当に求めているもの、いや、本当に必要としているものは何かをご存じでした。
たとえ歩けるようになっても、それが罪の報いであれば、またいつどんな病が降りかかってくるかわからないという恐れは消えません。
神は私たちに本当に必要なのは何かをご存じです。
たましいの医者であるイエスは、一週間分の薬だけ渡して、これでとりあえず様子を見て、来週また来てねとは言いません。
私たちの心とからだを弱めている原因である「罪」を根っこから取り除いてくださいます。
罪が取り除かれるならば、もはやドクターショッピングを繰り返し、依存的な悪習慣にとらわれることから解放されます。

 だからイエス様は、その場限りのいやしの宣言ではなく、永劫に続く赦しの宣言を真っ先に彼にお与えになりました。
友よ。あなたの罪は赦されました、と。神はあなたを決して怒ってはおられない、罪の罰としてあなたを病に置かれたのではない。
今日、このとき、友人たちの愛の行いを通して、私と出会うために、あなたのすべての過去には意味がある。
そのメッセージこそが、彼に必要であり、そしてすべての人々に必要とされているものです。

3.
 多くの人が、目の前の問題に対する、「とりあえず」の解決を求めています。
ある教育カウンセラーのところに、末っ子の登校拒否に悩んでいるお母さんから相談を受けました。
そのお母さんはカウンセラーにこう言いました。「先生、私も主人も、三人の子どもたちをみな同じように愛してきたはずです。
それなのにどうしてあの子だけが、こうなってしまったのでしょうか。先生、どうか助けてください」。
そのときにカウンセラーは、こう質問したそうです。「お母さん、あなたはご両親から、他のきょうだいと同じように愛されましたか?」
みなさんはいかがでしょうか。一人っ子だよという人は、それこそ、もしきょうだいがいたら、と想像力を働かせてください。
この質問に「同じように愛された」と答えられる人は、次の四種類に分けられるそうです。
25%は鈍感な子供時代を過ごした人。25%は子供時代をおぼえていない人。50%は嘘つきの大人。
そして0.001%が、ごくまれに存在する、幸せな家庭で過ごした人。そのカウンセラーがこう書いています。
「どの親も、子供をえこひいきせず、平等に愛してきた、という。
しかし自分自身が他のきょうだいと同じように愛されてこなかった、という事実に目を留める人はほとんどいない。
子どもに起きる問題は、親がその事実に気づいてほしいというサインなのだ。
そして自分が平等に愛せない者なのだと気づいたときに、その親も、その子どもも、変わってゆく」。
その分析のとおり、その母親が、子どもを同じように愛することなどできなかったことを認めた後、子どももまた変えられていきました。


結.
 これは親子の関係だけでなく、人生で起こるさまざまな問題についても同じことが言えます。
それらの問題に対して、私たちは「とりあえず」の解決を求めます。しかしその問題の根底には、万人に共通した「罪」の存在があるのです。
私たち、自分を普通の常識人と考えている者たちが、心の奥底に閉じ込め、目をそむけ、考えないようにしている、己の「罪」の存在。
しかし神は、私たちが罪を認め、罪を悔い改め、罪をイエス・キリストによって完全に処理していただくために、もろもろの問題を与えます。
たとえ末っ子の登校拒否が止まり、中風の病気が直って手が動くようになっても、罪の問題が処理されなければ、恐れは消えません。
だからイエス・キリストは私たちに真っ先にこう語りたいと願っておられます。「友よ、あなたの罪は赦されました」と。
そのために、私たちは罪を認めなければなりません。罪を認めなければ赦しはないのです。
もし自分の人生と、自分の心に、むなしさを気づかせられているならば、それは神が私たちを光の中へと招いておられるサインでもあります。
もしあなたが自分の罪を認め、イエス・キリストを救い主と信じて罪の赦しをいただくならば、そこには永遠のいのちが生まれます。
頂くならば、たとえ貧しくても感謝し、病に覆われても感謝し、苦しみの連続であっても感謝することができます。
 罪をゆるすことはイエス・キリストでなければできません。そして人生の根本的な解決はイエスのもとに行くことしかありません。
まず罪の赦しを求めましょう。
私たちの心を知らないうちに奥底から縛っている罪の問題が解決されるならば、現実の問題も変わってゆきます。
今日は聖餐式です。
まだキリストを信じていないがゆえに聖餐を受けることのできない方々が、どうかこのイエス・キリストを信じることができるように。
そしてすでに救われたクリスチャンたちが、キリストの肉と血を改めて受けたことで、自分に与えられている恵みをかみしめていけるように。

posted by 近 at 18:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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