明日(日曜日まであと一時間!)、毎月うちの教会が行っている、地元のキリスト教系福祉施設への訪問を予定しています。
教会員に毎回プロジェクターを運んでもらって、ホワイトボードに映しながら、私がパワーポイントを使ってメッセージをします。
明日の内容はつい先ほど準備が終わったところです。16年前に夫婦で登別クマ牧場を訪れたときの経験を導入にしました。
日中、当時のアルバムをスキャンしていたら面白い写真がありましたので、アップしておきます。
タイトルは「祈り」。クマでさえお祈りするんだから、ゴハンの前にちゃんとお祈りしなさいよ!てな感じでどうでしょう、お母さん。
私が撮影したものなので著作権フリーですが、写真からのスキャンなので画質が悪いです。あとちょっと、目つきも悪いです。
Photoshopなどで美しく編集してくださる方、歓迎です。編集の許可はいりませんので、送ってください。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』5章27-39節
1.
今日の聖書箇所の冒頭は、イエス様が「レビ」という取税人を弟子として招かれるところです。
取税人というのは、読んで字のごとく、税金の取り立てに従事していた者ですが、罪人、遊女と並べられて、世間から嫌われていました。
じつはこのレビは、私たちがよく知っている、「マタイの福音書」を書いたマタイその人です。
レビという名前はレビ部族に由来します。イスラエルの指導者モーセを先祖に持ち、唯一祭司の家系として認められたレビ族。
しかしその光栄な名前をつけられたレビ、いやマタイがやっていたことは、ローマ帝国の手先とみなされていた取税人。
親が見たら泣くぞ、というような仕事です。彼の中にある葛藤はどんなものだったでしょうか。
しかし彼の心の中にどんな葛藤があろうとも、イエスは彼を弟子として招くことをはじめから決めておられたのです。
私たちの救い、そして召しは、この世界が造られる前から、永遠の神のご計画の中に定められています。
その祝福を頂くために必要だったのは、それまでどんな人生を歩んでいたかは一切関係ありません。イエスの招きに、今従うかどうかです。
私たちがどんな自己嫌悪に陥っていたとしても、自分のようなものは救われるはずがない、と思いこんではなりません。
イエス・キリストの救いの御手は、確かに罪人に向かって差し伸ばされているのです。
ローマの取税人は、もしこの職から一度離れたならば、決して再びこの職につくことはできないという決まりがありました。
私たちも、一度キリストを信じ、この方に従っていくと決断するならば、あとの道は最後まで神様が全うさせてくださいます。
レビは、イエスに出会ったことで新しい弟子としての道を歩み始めました。そして最後まで、キリストの弟子として生きていきました。
取税人としての半生は、後に彼がマタイの福音書を書くにあたって、その事務的な経験がすべて生かされました。
人生に無駄なことなどひとつもありません。問題は、そのひとつひとつを自分のために用いるか、神のために用いるかです。
イエス・キリストのまなざしが、このマタイに注がれたとき、彼の人生は新しく始まりました。私たちにもそれが用意されているのです。
2.
しかしパリサイ人たちは、イエス様が取税人、罪人、遊女たちと食事をしているのを見て批判しました。それに対して、イエス様は答えます。
医者が必要なのは丈夫な者ではなく病人である、わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのだ、と。
イエス様は、取税人たちが病人であり、パリサイ人は健康な者だと言っているのではありません。
彼らの解釈をそのまま投げ返しただけです。パリサイ人たちは、自分たちこそが正しい者であると自負していました。
しかし神様の目から見たら、すべての人間が病を抱えています。そしてパリサイ人はとくに、「喜び欠損症」とでも名づけましょう。
神の民である誇りというチューブに縛りつけて、喜びがまったくない心の状態です。
他人が自分をどう見ているかということに対しては敏感です。さまざまな掟を考えたり、それを守るように命じることには必死です。
しかし御霊が与える実のひとつであるはずの、「喜び」がありません。いつも他人をさばき、誰かをさばくことなしには一日が始められません。
喜びがなければ心は渇きます。だから彼らはいつも渇いています。そして人々のほめことばでその渇きを満たそうとしていました。
パリサイ人たちのことばは、いつも人によく見られたい、ほめてほしいと願っている、その思いを表しています。
「ヨハネの弟子たちはよく断食し、祈っている。パリサイ人もよく断食し、祈っている。しかしイエスの弟子はなぜ飲み食いばかりしているのか」。
彼らにとって、神に喜ばれるしるしは、断食と祈りを一生懸命やっているかどうかです。そういう人に、神は報いてくださる、と。
しかしイエスは聖書の別の所でこう語っています。断食をするときには、頭に油を塗って、断食していないように見せなさい、
祈るときには、誰にも知られないように奥まった部屋に入りなさい、そういう断食や祈りに対して、神は報いてくださるのだ、と。
イエスはこれらの言葉を通して、信仰というのは見せるためのものではないのだ、まことの信仰は見せなくても隠しきれないものなのだ、
また別のところでこう言われています。あなたがたは世界の光です、山の上にある町は隠れることができません。
見せるためのものではないが、隠しきれないもの。それが信仰であり、寛容、善意、真実、そして何よりも、喜びです。
34節でイエスはこうも言われます。「花婿がいっしょにいるのに、花婿に付き添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか」。
「花婿」とは言うまでもなく、イエス様のことです。では花婿に付き添う友だちとはだれでしょうか。それはイエスを信じる人々です。
キリストを中心として集まるところに共通しているものは、喜びです。一万人の大教会でも、二、三人の祈祷会でもそれは変わりません。
そこには喜びがあります。このとき、イエス様は弟子たちと喜びを分かち合っていました。十字架の時には、喜びではなく悲しみが覆いました。
しかしいま、よみがえられたイエスとともに生きる私たちには、いつも喜びがあります。
与えられた救いの恵みをおぼえましょう。救われた喜びが、人をさばく思いを飲み込んでいく奇跡を体験しましょう。
3.
最後に、新しいぶどう酒は新しい皮袋に、というたとえについて分かち合いながら、今日の説教の結論といたします。
新しいぶどう酒はまだ発酵を続けていますから、古びた皮袋の中で膨張し、破裂してしまいます。
そしてこの新しいぶどう酒にたとえられているものこそ、イエス・キリストが信じる者たちに与えてくださる永遠のいのちに他なりません。
私たちが生まれてから今日に至るまでに受け取ってきた、この世界の常識だとか価値観だとかいうものはすべてが正しいわけではありません。
むしろ私たちの行動、その原動力である考え方などを知らず知らずのうちに縛りつけているものも多いのです。
それは古い皮袋にたとえることができます。永遠のいのち、この新しいぶどう酒は、古い皮袋のままでは十分に受け止めることができません。
新しいぶどう酒である永遠のいのちは、古い皮袋のままで受け止めようとしても、だめなのです。
聖霊によって、私たちの心を古い皮袋から新しい皮袋へと作り変えて頂かなければなりません。
ある人は、神に人間関係の改善を願います。ある人は、神に困窮生活からの解放を願う。またある人は、病気からの回復を求めます。
それを間違っているとは言いません。しかし神様は、そのようなひとつひとつの場当たり的な解決ではなく、根本的な解決を願っておられます。
先に述べた人々は、古い皮袋に、新しいぶどう酒をちょぼちょび入れているようなものです。袋は破れなくても、根本的な解決には至りません。
しかし私たちが、新しい皮袋をいただいて、新しいぶどう酒をたっぷりと注いでいただくならば、新しい日が今日から始まります。
恵みが私たちの心と生活の中に満ちあふれます。喜びが沸き起こります。どんな問題が起きても、それに飲み込まれることはありません。
イエス様が最後に語られた言葉は、警告として受け取らなければならないものです。
「また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」
「古いぶどう酒」は、現状維持という名の美酒です。このままで何とかやっていけるのであれば、何も危険を冒して新しく立ち上がることはない。
「古いものは良い」と言って、現状維持の生活の中にとどまり、新しい世界へと飛び出そうとしないのです。
しかし地上の人生はそれでよくても、永遠の命を受け取るためには、それではいけません。イエス様の声に耳を傾けましょう。
求めよ、古きぶどう酒ではなく、新しきぶどう酒を。つかめ、古き皮袋ではなく、新しき皮袋を。わが愛する友人よ。わが愛しき花嫁よ。
古きぶどう酒から手を離せ。それがいかに貴重に見えても、地に注ぎ捨てよ。むしろ新しきぶどう酒をもって、新しき御国の祝宴に酔いたまえ。
結.
今、私たちは毎日このイエスと共に、新しい時代の、新しい御国の祝宴にあずかる権利があります。
それが礼拝を中心とする、私たちのあらゆる信仰生活です。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に。新しい生き方に。新しい人に。
永遠のいのちを受けるためにはまず古い生き方を捨てなければなりません。聖書は別のところで約束しています。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく作られたものです。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。
私たちは、その救いを今日いただくことができます。私たちの心の扉を叩いておられる聖霊にゆだねましょう。
イエス・キリストを信じるならば、この方が私たちの新しい人生を、新しい日々を導いてくださいます。祈りましょう。